2021年4月25日の説経要約
「祝福は一つしかないのですか」 中道由子牧師
≪エサウは叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。≫ (創世記27章27~38節)
1,長子の特権
申命記21章17節によると、長子の権利は二倍の相続の特権であり、家族のリーダーとなる特権であったとも思われます。
また神の特別な祝福も含まれていました。
確かにヤコブのやり方には問題がありました。主は母リベカに対して、「兄が弟に仕える」(25:23)と言われたのだから、ヤコブが長子の特権を持つようになることは主の御心であります。
しかし、ヤコブはそれを卑劣なやり方で手に入れました。
お腹が空いたエサウがヤコブの煮物を求め、その交換条件としてヤコブは長子の権利を求めたのです。
確かにヤコブは、結果的には長子の権利を手に入れたのですが、このような手段をとったことに対して、その蒔いた種を身をもって刈り取らなければなりませんでした。
彼はやがて兄に憎まれ、父母のもとを離れていなかければならなくなります。
しかし、それにもかかわらず、主はヤコブを祝福してくださった。それは彼が切に神の祝福を求めたからです。
彼は人間的に言えば、多くの問題を持った人でした。しかし、自分の問題に気付いていたからでしょうか。
彼は神の祝福を切に求めた人でした。
ヤコブに較べると、エサウの方が単純な人間だったかもしれません。人間的には同情するところが多くあった。
にもかかわらず祝福に預かれなかったのはなぜか?
彼は自分の欲望のままに行動し、自分の肉の欲を満たすことで満足していたからです。
ヘブライ人への手紙12章16節
「一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう」と言われています。
彼は、自分の内面を見つめず、自分の罪や弱さを認めて神に救いを求める人ではありませんでした。
クリスチャンは、自分の弱さを認めるがゆえに主の救いを求めて、神により頼む人々です。
神は自分自身に満足して自分を正しいとする人をではなく、主に救いを求める人を受け入れてくださるのです。
2,イサクの願い、リベカの願い
やがて、イサクは年を取り視力が衰えてきた時、自分のこの地上での日は長くないと感じていました。
そこでイサクは、長男のエサウを祝福しようとしました。
しかし、これは神のみこころに反することでした。
なぜなら、エサウとヤコブが生まれる前から、「兄が弟に仕える」(25:23)と言っておられたからです。
イサクはこのエサウを祝福する時に、エサウの猟の獲物で料理を作らせてそれを食べてから、彼を祝福しようとした。
大切な祝福の祈りより、自分の食欲と言う欲望を満足させようということがまず先になっていたのです。
イサクは、多くの点で素晴らしい信仰者でしたが、自分に与えられた祝福を自分の好みで受け継がせようという過ちを犯しています。
一方、リベカはどうでしょう?イサクがエサウを祝福しようとしているのを知ったリベカは、その祝福を横取りしてヤコブに与えようとしました。このリベカの願いもまた、彼女がヤコブを好んでいるという肉的な動機によるものでした。
このような試みは大変な危険を伴うものでありました。
失敗すれば、「のろい」を招くかもしれない。
しかし、リベカは、「あなたののろいは私が受けます」(13節)と、母親の執念を持ってヤコブを説得します。
エサウは、後で祝福を求めてやってきて、父がヤコブを祝福したことでヤコブを恨みます。
彼は自分の罪や不信仰、長子の権利を売ったこと、それを悔い改めることなく、悪いのはヤコブであると考えた。
自分が祝福を受けないのは、すべてヤコブのせいだと彼を恨んだのです。
そして、エサウの妬みは殺意に変わっていきます。エサウはこのようにしてますます心がかたくなになり、神の祝福を受けられないようになっていきます。
一方、兄エサウが弟ヤコブを殺そうとしていることがリベカに伝えられます。
リベカはこのことで非常に心配になりました。そして、すぐに行動に移った。リベカはエサウの手からヤコブを守ろうとして、ヤコブを彼女の実家のあるカランに逃す計画を立てます。
しかし、その時も彼女は、イサクに本当の理由、エサウがヤコブを殺そうとしていることについては隠していたのです。
リベカは、エサウが熱しやすく冷めやすいタイプだから、「しばらくの間」身を隠していればよいと考えたのです。
しかし、神の御心はそうではなかった。ヤコブは実に20年もカランの地に滞在することになります。
これ以後、リベカのことは出てきません。ヤコブが20年後にこの地に帰ってきた時も、リベカと再会したという記事はありません。
恐らくこの20年の間に、リベカはこの世を去ったのではないかと思われます。
彼女はマクペラの畑にある墓に葬られました(49:31)。
このように人間的な手段で祝福を奪ったリベカとヤコブは、確かに祝福を受けることはできたけれども、自分たちが蒔いた結果を刈り取らなければならなかったのです。 「蒔いた種を刈り取る」とは、自分がきっかけを作って招いた悪い事態を自分自身が被る事ですが、
その事態を誰かがしりぬぐいをしてあげることなく、自分自身が責任をもって対処することであるそうです。
しかし、私たちは自分が責任を持って対処することができない、罪の性質を持っています。
イエス様の身代わりの死がなければ、私たちも自分だけは大丈夫とは言えない。
自分が蒔いた種をきちんと刈り取ることができない、私たちのためにイエス様は十字架にかかり、神様の前にきちんとした処理を命をかけてしてくださったのです。
3、見えない神の御手
私たちが神の御心に背く決定を下すとき、神は見えない介入を通して神の御心を貫かれます。
イサクは自分の後継者をエサウだと考えました。長男に相続権を与えるのが慣習だったため、あえて神の御心を尋ねることもしませんでした。
エサウも、父の後継者としてすべての権限を受け継ぐことについて少しも疑いませんでした。
しかし、神の御心はヤコブを通して神の民を造り上げることでした。後になってエサウは、自分も祝福してくださいと懇願しました。
でも、イサクは知っていました。一度与えた祝福を取り消すことはできないことを。
私たち日本人は、契約書を交わします。口約束と言うのを信用しないからです。
イスラエルでは、特に祝福の言葉、呪いの言葉を取り消せません。
イサクはここでヤコブに与えた祝福を取り戻すこともできないし、そうしてはならないことを知っていました。
彼が激しく身震いしたのは、見えない神の介入、神の御手を悟ったからでした。
イサクは過って、神の祝福をヤコブに与えてしまいます。
始めはだまされた事実に憤りを感じますが、それが取り返しのつかないことであって、祝福の契約を受けた者が必ず神の祝福を受けるようになることを告白します。
ヤコブを呪うこともせず、むしろ神の祝福を受けた者であることを認めます。
このようにして神の契約がヤコブとその子孫を通して受け継がれ、メシアがこの地に来られることになるのです。
私たちは神様が私たちに与えてくださるみ言葉をどのように受け止めているでしょうか?