2021年4月25日の説経要約 「祝福は一つしかないのですか」

2021年4月25日の説経要約

   「祝福は一つしかないのですか」 中道由子牧師

 

エサウは叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。≫                                                            (創世記27章27~38節)

 

 1,長子の特権

申命記21章17節によると、長子の権利は二倍の相続の特権であり、家族のリーダーとなる特権であったとも思われます。

また神の特別な祝福も含まれていました。

確かにヤコブのやり方には問題がありました。主は母リベカに対して、「兄が弟に仕える」(25:23)と言われたのだから、ヤコブが長子の特権を持つようになることは主の御心であります。

しかし、ヤコブはそれを卑劣なやり方で手に入れました。

お腹が空いたエサウヤコブの煮物を求め、その交換条件としてヤコブは長子の権利を求めたのです。

確かにヤコブは、結果的には長子の権利を手に入れたのですが、このような手段をとったことに対して、その蒔いた種を身をもって刈り取らなければなりませんでした。

彼はやがて兄に憎まれ、父母のもとを離れていなかければならなくなります。

しかし、それにもかかわらず、主はヤコブを祝福してくださった。それは彼が切に神の祝福を求めたからです。

彼は人間的に言えば、多くの問題を持った人でした。しかし、自分の問題に気付いていたからでしょうか。

彼は神の祝福を切に求めた人でした。

ヤコブに較べると、エサウの方が単純な人間だったかもしれません。人間的には同情するところが多くあった。

にもかかわらず祝福に預かれなかったのはなぜか?

彼は自分の欲望のままに行動し、自分の肉の欲を満たすことで満足していたからです。

ヘブライ人への手紙12章16節

「一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう」と言われています。

彼は、自分の内面を見つめず、自分の罪や弱さを認めて神に救いを求める人ではありませんでした。

クリスチャンは、自分の弱さを認めるがゆえに主の救いを求めて、神により頼む人々です。

神は自分自身に満足して自分を正しいとする人をではなく、主に救いを求める人を受け入れてくださるのです。

 

2,イサクの願い、リベカの願い

 やがて、イサクは年を取り視力が衰えてきた時、自分のこの地上での日は長くないと感じていました。

そこでイサクは、長男のエサウを祝福しようとしました。

しかし、これは神のみこころに反することでした。

なぜなら、エサウヤコブが生まれる前から、「兄が弟に仕える」(25:23)と言っておられたからです。

イサクはこのエサウを祝福する時に、エサウの猟の獲物で料理を作らせてそれを食べてから、彼を祝福しようとした。

大切な祝福の祈りより、自分の食欲と言う欲望を満足させようということがまず先になっていたのです。

イサクは、多くの点で素晴らしい信仰者でしたが、自分に与えられた祝福を自分の好みで受け継がせようという過ちを犯しています。

 一方、リベカはどうでしょう?イサクがエサウを祝福しようとしているのを知ったリベカは、その祝福を横取りしてヤコブに与えようとしました。このリベカの願いもまた、彼女がヤコブを好んでいるという肉的な動機によるものでした。

このような試みは大変な危険を伴うものでありました。

失敗すれば、「のろい」を招くかもしれない。

しかし、リベカは、「あなたののろいは私が受けます」(13節)と、母親の執念を持ってヤコブを説得します。

イサクは、ヤコブエサウだと思って祝福してしまいました。

エサウは、後で祝福を求めてやってきて、父がヤコブを祝福したことでヤコブを恨みます。

彼は自分の罪や不信仰、長子の権利を売ったこと、それを悔い改めることなく、悪いのはヤコブであると考えた。

自分が祝福を受けないのは、すべてヤコブのせいだと彼を恨んだのです。

そして、エサウの妬みは殺意に変わっていきます。エサウはこのようにしてますます心がかたくなになり、神の祝福を受けられないようになっていきます。

 一方、兄エサウが弟ヤコブを殺そうとしていることがリベカに伝えられます。

リベカはこのことで非常に心配になりました。そして、すぐに行動に移った。リベカはエサウの手からヤコブを守ろうとして、ヤコブを彼女の実家のあるカランに逃す計画を立てます。

しかし、その時も彼女は、イサクに本当の理由、エサウヤコブを殺そうとしていることについては隠していたのです。

リベカは、エサウが熱しやすく冷めやすいタイプだから、「しばらくの間」身を隠していればよいと考えたのです。

 しかし、神の御心はそうではなかった。ヤコブは実に20年もカランの地に滞在することになります。

これ以後、リベカのことは出てきません。ヤコブが20年後にこの地に帰ってきた時も、リベカと再会したという記事はありません。

恐らくこの20年の間に、リベカはこの世を去ったのではないかと思われます。

彼女はマクペラの畑にある墓に葬られました(49:31)。

このように人間的な手段で祝福を奪ったリベカとヤコブは、確かに祝福を受けることはできたけれども、自分たちが蒔いた結果を刈り取らなければならなかったのです。 「蒔いた種を刈り取る」とは、自分がきっかけを作って招いた悪い事態を自分自身が被る事ですが、

その事態を誰かがしりぬぐいをしてあげることなく、自分自身が責任をもって対処することであるそうです。

 しかし、私たちは自分が責任を持って対処することができない、罪の性質を持っています。

 イエス様の身代わりの死がなければ、私たちも自分だけは大丈夫とは言えない。

自分が蒔いた種をきちんと刈り取ることができない、私たちのためにイエス様は十字架にかかり、神様の前にきちんとした処理を命をかけてしてくださったのです。

 

3、見えない神の御手

 私たちが神の御心に背く決定を下すとき、神は見えない介入を通して神の御心を貫かれます。

イサクは自分の後継者をエサウだと考えました。長男に相続権を与えるのが慣習だったため、あえて神の御心を尋ねることもしませんでした。

エサウも、父の後継者としてすべての権限を受け継ぐことについて少しも疑いませんでした。

 しかし、神の御心はヤコブを通して神の民を造り上げることでした。後になってエサウは、自分も祝福してくださいと懇願しました。

でも、イサクは知っていました。一度与えた祝福を取り消すことはできないことを。

私たち日本人は、契約書を交わします。口約束と言うのを信用しないからです。

イスラエルでは、特に祝福の言葉、呪いの言葉を取り消せません。

 イサクはここでヤコブに与えた祝福を取り戻すこともできないし、そうしてはならないことを知っていました。

彼が激しく身震いしたのは、見えない神の介入、神の御手を悟ったからでした。

イサクは過って、神の祝福をヤコブに与えてしまいます。

始めはだまされた事実に憤りを感じますが、それが取り返しのつかないことであって、祝福の契約を受けた者が必ず神の祝福を受けるようになることを告白します。

ヤコブを呪うこともせず、むしろ神の祝福を受けた者であることを認めます。

このようにして神の契約がヤコブとその子孫を通して受け継がれ、メシアがこの地に来られることになるのです。

私たちは神様が私たちに与えてくださるみ言葉をどのように受け止めているでしょうか?

2021年4月18日の説経要約 「世の終わりまでともにいます」

2021年4月18日の説経要約

             「世の終わりまでともにいます」   照内幸代牧師

 

≪あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。≫

                          (マタイによる福音書28章20節)

 

イースターの希望のメッセージ、その一つ目は、「ここにはおられない」ということです。「ここ」とはどこでしょうか。それはイエス様の遺体がおさめられていた墓のことです。しかしその墓は空になっていたのです。十字架とはなんでしょうか。罪の象徴です。イエス様はその罪の力に勝利してくださったのです。ここに私たちの希望があります。私たちの命が、死で終わらないという希望です。イエス様の十字架の血潮を仰ぎ見る者は、イエス様が死から甦られたように、死んでも甦るという希望にあずかっています。それが教会で語られる永遠の命の希望です。私たちの人生には意味があって、苦しい試練も喜びで満ちあふれるときもすべて意味があって、それが死んで終わることのない命に繋がっているという希望です。

もう一つの希望のメッセージ、それが、「世の終わりまでともにいます」というイエス様からのお言葉です。それは、私たちがイエス様に代わって、イエス様のわざをするということです。天の父なる神様から与えられた、人の罪を赦す権威も、神の子の身分も、神様の御心をおしはかるということも、イエス様を通して私たちに託されたということなのです。イエス様は私たちの存在を通して、いつも私たちと共にいてくださるのです。

なぜこのことが、イエス様が地上に残られるよりも良かったと言えるかというと、それは一つ目に弟子たちの変化にあります。弟子たちが、イエス様が天にお帰りになられたあと、目覚ましい成長をします。今までの弟子たちがまるで別人かのように、イエス様のように病人を癒やし、悪霊を追い出し、人々にイエス様の教えを伝えて、福音を全世界に宣べ伝えるものとなります。イエス様が弟子たちを信頼してその使命を託されたことで、弟子たちは成熟したクリスチャンに成長したのです。

そして二つ目に、この私たちをも同じようにイエス様は、信頼して用いてくださっているということです。私たちは確かに不完全な人間です。しかしイエス様は、その私たちに宣教のわざを託してくださいました。私たちがイエス様から預かったこの使命に生きるときに、私たちを通してイエス様が働いてくださるのです。なんて大きなみわざだろうか、と思います。この不完全な私たちが、完全なイエス様の働きにあずからせていただけるのです。イエス様のみわざを通して、私たちが完全に近づけられることができるのです。

この世界がどんなに暗くなって、住みにくくなったとしても、イエス様はいつも私たちと一緒にいてくださいます。復活のイエス様の希望を胸に、私たちは世が大変なときはより一層イエス様の約束をにぎって歩みましょう。

2021年4月11日の説教要約 「よみがえられたイエス」

2021年4月11日の説教要約

        「よみがえられたイエス」   中道善次牧師

 

≪あの方は、ここにおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のおいてあった場所を見なさい。≫

                    (マタイによる福音書28章6節)

 

  マタイ28:1~20

聖書朗読は、マタイ福音書のイエスの復活の箇所を読みました。説教では使徒信条の「陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり」に焦点を当てて話します。

 

① 陰府の一部がパラダイスとなった

私たちはイエス様を信じて、天国に行く。永遠の命を得ることを当たり前のように信じております。

しかし、神様を信じているユダヤ人であっても、天国や永遠の命という考えは旧約聖書の後期までは持つことが出来ませんでした。旧約の後期といわれる時代に、天国や永遠の命という考えが発達しました。

それまでは、たとえ神を信じていても、死ねばみな同じように陰府に下る。そのように考えておりました。

陰府とは、陰の府と書きます。「陰の場所」と呼ばれるところです。陰府は地下、つまり大地の下にあり、光の届かない薄暗い場所です。その中で、青白く何かが存在する場所、それが陰府であります。そこには希望も賛美も奇跡もない。それで終わりという場所でした。

詩篇には、次のように記されております。

詩 6:6 死の国に行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。

口語訳(陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか。)

エス様もまた、死んで「陰府」に下られたのです。

そのことを使徒信条は告白します。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」です。

エス様が陰府に下るまで、神を信じて死んだ正しい者も罪を犯した悪い者も、陰府という一つの場所に下っていったのでした。

エス様が陰府に下られたと言う信徒信条の言葉で、誤解をしてはならないことがあります。

それは古い英語の表現でありますが、陰府をhellと表現しているところがあるのです。hellとは地獄のことです。そうなるとイエスが地獄に行ったという変なことになっています。

陰府は地獄ではありません。「死者の国」と表現することが適切であります。

「死者の国」陰府は、ヘブル語では「シェオール」と表現します。口語訳聖書では、新約だけ、黄色い泉と書いて「黄泉」とありましたが、新共同訳になってから「陰府」と統一しました。ギリシヤ語の「ハデス」を、口語訳では黄泉と書いていたのです。それらは同じ場所のことですから、新約聖書旧約聖書で漢字が異なるのはおかしな事です。陰府と統一されて、わかりやすくなりました。

では、イエス様は陰府に下られて、何をなさったのでしょう。

二つのことが考えられます

それは、勝利の宣言とパラダイスを作ることです。

勝利の宣言:

ペテ1 3:19 そして、霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました。

この箇所を、新改訳2017では「宣言されました」と訳しているのです。

説教では、新改訳2017の「宣言されました」という言葉に基づき、メッセージを聞き取りたいと思います。それは勝利の宣言であります。

旧約の時代、シェオールが、人間が死んだら行く場所を示している場合でありました。それは死んだ人が、正しい者もそうでない者もみんな、地下の世界に下っていったと言いました。しかし全く同じ場所ではなかったようであります。

何人かの説教者は、陰府を次のように説明しておられました。

シェオール(陰府)は二階建てになっていて、上が、義人が死んだ後に行く「アブラハムのふところ」(新共同訳では、アブラハムのすぐそば)と呼ばれる場所であり、下が、罪人が死んだ後に行く、裁きの場所でありました。

旧約聖書の時代、義人も罪人も、死んだら、その霊は地の下、つまり、陰府に行くと、考えられていました。

しかし陰府が二階建てになっていたのです。正しい者も悪い者も死んだら同じではなかったのです。

エス様が、その二階建てになっている陰府に下られて、「私は十字架で勝利を取った」と宣言されたのです。その時、アブラハムの懐にいた人々は大きな喜びに包まれたことでしょう。

私たちの教会では「宣言」ということをあまり行いませんが、南米の教会ではよく行います。

エス様は、十字架にかかり、死に、陰府に下り、そこで勝利の宣言をされたのです。

勝利の宣言の次にイエスがなさったのは、パラダイスを造る。より正確に言うなら、アブラハムの懐の部分を取り分けるようにして、そこをパラダイスにしたのです。

エス様が復活なさる時、陰府にいた正しい信仰者も一緒に引き上げられたのです。そして陰府とは別の、死後の世界を造られた。それがパラダイスであります。新共同訳では、楽園となっておりますが、口語訳や新改訳2017ではパラダイスという言葉を使っております。その一つを紹介します。

ルカ 23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と言われた。

エス様が十字架の上で、救いを求めた強盗に、今日あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろうといわれたのです。イエス様は、これから陰府に下り、勝利の宣言をした後で、パラダイスを作る。そのことをあらかじめ知って、言われたのです。

陰府に下られたイエスと一緒に私たちは勝利の宣言することが出来るのです。

 

②陰府はイエスをはき出した

詩篇16篇10節を御覧いただきたいと思います。

詩 16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず

詩篇16編を学んでゆくと、10節の言葉は、直接イエスの復活に一足飛びに行く言葉ではないのです。

しかしペトロもパウロも、詩篇16:10をイエス様の復活の預言だと言ったのです。

使 2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨ておかれず その体は朽ち果てることがない』と語りました。

使 13:34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。

使 13:35 ですから、ほかの箇所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない』と言われています。

ペトロもパウロも、詩篇16編全体に流れるメッセージから、命にあふれるお方が陰府に留め置かれることがないと読み取ったのであります。

詩編16編で紹介されている人は、生き生きと、命にあふれているのです。

加藤常昭先生が、説教集の中にかたられたイエス様の復活を次のように記されていたのです。イエス様が陰府から出てこられた。詩篇16:10には、陰府に捨て置かれずとあります。それは譬えて言えばこういうことだ。陰府とは、何でも飲み込んでしまうブラックホールのようなものだ。陰府というお化けに飲み込まれたらもう終わりだ。二度とそこから出てくることは出来ない。

しかし陰府がイエス様を飲み込んだ。飲み込んだがいいが、何だ、これは。腹の中に入れておくことが出来ないのです。苦しくて、苦しくて、飲み込んでおけない。それはそうです、陰府は死の世界です。しかしそこに命そのもののお方が降りて行かれた。陰府の中でもその命は、生き生きとしている。死に飲み込まれないのです。とうとう陰府が降参したのです。命であるイエス様を、吐き出さざるを得なかった。

詩篇16:10は、それを表しているのです。命であるイエス様は、陰府に飲み込まれたままそこにとどまっていなかったのです。生きているお方が、墓の中に葬られたままでいるわけはなかったのです。

エス様の復活を信じる者は、命にあふれ、前向きなのです。

コロナ禍の中で、先が見通せない時代ですが、私たちは、復活の主を見上げて、明日に向かって、立ち向かって行きたいと思います。

2021年4月4日の説経要約 「あなたは今祝福されています」

2021年4月4日の説経要約

                「あなたは今祝福されています」  中道由子牧師

  

≪彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。

  あなたは確かに、主に祝福された方です。」≫

(創世記26章12~33節)

 

 

 今日は神様は私たちにたくさんの祝福をくださる方であることを創世記の中から続けてみていきたいと思います。

聖書のこの時代に「井戸を掘りあてる」ということはたいへんな祝福を手に入れることであったのです。特にパレスチナのように土地が乾燥して、雨もあまり降らない所では、井戸は大変貴重なものでした。 今日はイサクの井戸にまつわるお話しです。

 

1,ねたみと嫉妬を受ける時

 飢饉の中で、イサクは手に入れたわずかばかりの種をその地に蒔きました。

するとその年に百倍の収穫をゲラルの地で得たのです。このような飢饉の時には考えられないことでした。まさに主の祝福に預かったのです。

ところが、誰か一人の人が祝福されると、周りはどうでしょう?

神を知らないペリシテ人はこれをよく思いませんでした。裕福になったイサクをねたんだペリシテ人は、しもべたちが掘った井戸をふさいでしまいます。

そして、17節「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」と言って、イサクは、その場所から追放されました。

神の祝福がある場所には世のねたみや嫉妬が起こるものです。

 イサクはどうしましたか?

彼は揺らぐことなく、ペリシテ人のねたみと嫉妬を広い心で受け止めます。自分が受けた祝福を分かち合うことを考えて、井戸を譲ったのです。

 私たちはどうでしょうか?神の祝福を完全に味わうために、自分が少し譲ったり、あきらめたりしたことがあるかもしれません。

 

2,平和を愛する人

追放されたイサクが天幕を張って住んだゲラルには、アブラハムの時代に掘られて、その後ペリシテ人によって塞がれてしまった井戸がありました。イサクは、その塞がれてしまった井戸をもう一度掘り起こしたのです。

イサクのしもべたちは、また新しい井戸を見つけました。

父の祝福の泉を掘り出した後に、イサクはそれに加えて新しい祝福の泉を見出しました。

 この二つの井戸についても争いが起こりました。

イサクたちがアブラハムの井戸を掘り起こして、水が豊かに湧き出るのを見て、ゲラルの羊飼いたちが「この水は我々のものだ」と言って争ったのです。

また、新しく掘り当てた井戸についても争いが起こり、イサクは、そこから移って、もう一つの井戸を掘った、と書かれています。

祝福の人はどこに行っても神の平和を作ります。イサクに対するペリシテ人の妬みは止まりません。彼らはイサクが井戸を掘るたびに争いを起こしました。

カナンの地では水が貴重なので、井戸を発見しさえすれば大きな財産となります。

しかし、争いという名前の井戸と敵意という名前の井戸を後にして、イサクが手に入れたのは、22節「レホボト(広い場所)」という名前の井戸でした。

「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と書いてある。

ハレルヤー!と晴々した喜びの井戸が与えられたのです。

 イエス様に出会ったとき、私たちもレホボト、広い世界に解き放たれ、聖霊の喜びが

私たちの心の井戸から湧き上がってくるのです。

3つ目の井戸については、誰も文句を言いませんでした。それで、イサクはようやくその井戸を自分のものとします。

イサクは、本当に平和と譲歩の人です。隣人と平和を作るために努力しました。

ペリシテ人に追い出されても、住むところを広げて下さる神のご計画だ、これは祝福が広がるチャンスだと考えました。

わたしたちの周りにも、なぜこのようなことが起こるのか、ということに巻き込まれたり、どうして自分はこういう思いをしなければならないのかと、理不尽な中で苦しむこともあります。しかし、その思いに固執すると余計苦しみます。

怒りの気持ちでいっぱいの時に、「ありがとう」という感謝の言葉を耳にすると、脳は最初は混乱します。脳は、感情と口にしたことがくい違っていると大きなストレスを感じ、どちらかにすり合わせようとします。しかし、「ありがとう」と言うことを何度も口にすればするほど、その言葉に感情を合わせざるを得なくなってきます。

脳の仕組みとして、感情は聴覚に従いやすくなっている、というのです。

受け入れにくいことでもだんだんとそう思えるようになってくるというのです。

これを「聖なるあきらめ」と呼ぶそうです。

ものの見方が変わり、それでよかったと思える。人を恨みながら生きていくより、感謝して生きていく方が幸せです。

そして、神様は倍の祝福をくださいます。

 

3,主がともにおられることを見た

  ペリシテ人たちがイサクを追い出して、いろいろな場所を転々とさせ、彼を苦しめていた時に神はイサクに現れ、神の恵みが何かをもう一度確かめさせてくださいました。人々が私たちをだましたり、不親切なときこそ、誠実で恵み深い神に慰めを受ける時です。

神様は私たちが人々によって失望した時にこそ現れてくださいます。

次の26節からおもしろい展開になっていきます。

そのころ、「アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。」27節「イサクは彼らに尋ねた。『あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。』」

まったくそのとおりです。追い出した張本人が話があるというのですから。

イサクは、土地のない異邦人の身分で飢饉を避けてさまよい歩く境遇でした。

イサクは、神の言葉通り生きるために努力してきました。ペリシテ人の不当な扱いに力をもって対抗せず、信仰をもって待ったのです。すると予想していなかったことが起こります。28節「彼らは答えた、『主があなたと共におられることがよく分かったからです。』」と言って、ゲラルの王アビメレクとその側近が平和条約を結ぼうと言って、イサクのところにやってきたわけです。イサクを追い出した張本人が、平和を求めるという、劇的な変化が起こりました。何度も井戸を奪われ、苦汁をなめながら、イサクはひたすら主に信頼し、そして祝福を与えられたのです。

その姿を見てアビメレクは、主がイサクと共におられることを否定できなくなったのです。

アビメレクがペリシテの王であり、軍隊を持っていたことを考えると、どんなに裕福とはいえ一人の寄留者にすぎないイサクと平和条約を結ぶことは考えられないことでした。

イサクは、アビメレクたちをもてなし、契約を結び、平和のうちに彼らを送り出しました。今まで受けた仕打ちを恨んだり、復讐したりはしなかった。

彼はすでに、信仰によって勝利を得ていたのです。

まさに、ローマの信徒への手紙12章21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」です。

  その日、記念のようないいことがありました。

32節「その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、『水が出ました』と報告した。」

もう一つの井戸が与えられたのです。彼はその井戸を「誓い」と名付けた。

イサクが住んだベエル・シェバは「誓いの井戸」と呼ばれました。

主から新しい恵みをいただいたのです。

 井戸をいくつも掘り当てても、永遠に水が沸き上がる井戸にはならないかもしれません。

しかし、今朝復活されたイエス・キリストが私たちに与えてくださる水は、私たちの魂の最も深い渇きと願いを満たしてくれるあふれ湧いてくる井戸の水なのです。

ヨハネによる福音書4章14節「しかし、私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」

2021年3月28日の説経要約 「光と闇」

2021年3月28日の説経要約

                          「光と闇」   中道由子牧師 

 

≪二つの国民があなたの腹の内で別れ争っている。

一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。≫

                                                          (創世記25章19~34節)

≪光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。≫

                (聖書協会共同訳 ヨハネによる福音書1章5節)

 

 

1,双子の誕生

  イサクは、20年間不妊の妻リベカのために主に祈ったのですが、本当に切に祈ったのは彼が60歳近くなった時だと思われます。主はイサクの祈りに応え、リベカは身ごもります。双子の兄弟でした。

 双子がお腹にいるだけで大変なことでしたが、リベカの場合もっと困ったことに、お腹の中で子供たちがぶつかり合うようになったというのです。この時肉体的、精神的な危機を感じたリベカは、初めて主のところに行き、真剣に祈るようになりました。今日では医学が発達していますが、出産は女性にとって命に関わることでした。

主はこのリベカの祈りに答えてくださって、2つの御心を知らせてくださいました。ひとつは、この双子のそれぞれから国民が分かれ出るということ、もうひとつは、兄が弟に仕えるということです。

双子が生まれる時、弟ヤコブの手が兄エサウのかかとを掴んでいたというのです。これを読むと、双子と言うのはこうやって簡単に生まれるものと思うでしょう。全く違います。一人産むと力が尽きてしまって、二人目は帝王切開になるケースもあります。この時代帝王切開などなかったでしょう。リベカが一人産んで力が尽きてしまったらたいへんな難産になり、ヤコブは生まれることができたかわかりません。しかし、神の計画は、弟ヤコブが跡継ぎになることでした。赤子のヤコブは兄のかかとを掴んで自ら母の胎から出てきたのです。

 

2,親の偏愛

エサウは、全身毛皮の衣のような赤ちゃんとして生まれ、巧みな狩人になりました。彼は自立しており、個人で生きていける猟師となったのです。弟ヤコブは、穏やかな性格とあります。彼は社交的で、人間関係をうまくやっていくタイプだったのでしょう。彼の仕事は、天幕に住む、つまり羊飼いだったのです。

二人の特徴や職業自体は何の問題もありませんでした。それぞれがその性格にふさわしい職業つき、それぞれの役割を果たしていたのです。

問題なのは、親です。父イサクは狩りの獲物が好物だったから、エサウを愛した、と書かれています。エサウは父の好みのものを捕ってはしばしば持ってきてくれたからでしょう。イサクの弱点はこの食欲であったようです。それに対して、お母さんのリベカは、穏やかなヤコブを愛したのでした。彼のスマートな賢い性格を好んだのかもしれません。親も人間である以上好みがあると言われます。出来の良い子を愛したり、自分の誇りになるからです。また、出来が悪いからいつも自分がついてやらないと、と保護になったりします。しかし、親がそのような自己中心的な思いで子供に接すると、そこには大きな問題が起こってきます。もし、イサクとリベカが互いに愛し合い、主にあって一心同体となり、お互いを必要な存在として認め合っていたら、それぞれの好みがあったにしてもこれほどの問題にならなかったのではないでしょうか。夫婦が相手に失望するときに、自分の好みの子ども、自分の理想をかなえてくれそうな子供の中に、自らのアイデンティティーを見出そうとします。

ここに兄弟同士の争いの原因が芽生える可能性があると言うのです。

親もそれぞれ不完全であり、十分な愛情を持ち合わせていないのです。

私たちはイエス様の救いに預かって、初めて父なる神様の愛がわかるようになります。

この神様の愛は、皆私たちに対して公平なのです。

どうして神様はあのような人を用いられるのか、と思ってしまったり、この人には厳しすぎる、この人には神様甘いな、とか私たちは勝手に自己中心な観点から見て感じてしまいます。

でもその人生の全体を知る時、神様は実に公平なお方であり、一人一人にとって恵み深い、憐み深いお方であると思います。

神様は私たちの親として、私たちに期待をかけ、夢を与え、愛する者と出会わせ、失望すれば、また道を開いてくださる。厳しい試練の中を通った後を振り返ると、自分が少しずつ成長し、変わってきていることもあると思います。

 

3、神の憐み

エサウヤコブについては、新約聖書で疑問に思うみ言葉があります。

ローマの信徒への手紙9章12-13節「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」

16節「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」

 「ヤコブを愛した」ということは理解できますが、なぜ神は「エサウを憎んだ」のか?

まだ子供らがうまれもせず、善も悪もしない先に、ヤコブは愛され、エサウは憎まれるのか?

ヘブライ語では、愛することの反対は憎むことだからと言われますが、なかなか納得できません。

お腹が空いてヤコブの料理と長子の特権を交換してしまった長子の特権をおろそかにしたからでしょうか?

でも、ここで「憎まれている」のは、その人間的な失敗が問題となっているのではありません。

ヤコブは、将来イスラエルとしてマタイによる福音書の1章の系図に名前が記される人として選ばれた、これが神が愛したという表現です。エサウを憎んだ、私たちには厳しいと思えるこの表現は、エサウイスラエルを背負う役目としては選ばれなかった、ということなのです。

ここに出て来る神の選びの計画の中に、なぜヤコブというポジティブ、光の存在、とエサウというネガティブ、闇の存在を置くのでしょうか?

今私たちは新型コロナウイルス感染症で苦しんでいます。これは、歴史の中で闇の部分です。

今日の日本の平和、それは何百万という戦死者、関東大震災、多くのネガティブな出来事の上にあります。

なぜそのような悲劇なしに、人間は賢明にならないのでしょうか?

ある神学者は、「人間には、何か深い本性的な欠陥があって、犠牲なしに目を覚まさない。覚ませないところがある。」のというのです。闇なしに光がわからない。

そして注解書の次の説明で私は納得しました。「エサウなしにヤコブなしなのであります。」

双子は本当にそうなのです。片方なしに、もう一方の存在はないと感じます。

エサウヤコブはまさにそうでした。

私たちは車を運転する時、事故車の傍らを通り、気をつけないと思って安全運転をしようと思います。あの壊れた事故車がそばに置かれることなしに、気をつけるようにならないのが人間の弱さであるとしたら、神は、人間の救いのために、ヤコブだけを選ぶのではなく、エサウをネガティブな者として、その傍らに置かれたというのです。

ところが、選ばれたヤコブの子孫、イスラエルはこの神の選びのご計画を軽んじ、神の愛を無にしてきました。

神の最高の愛であるイエスを十字架にかけ、イエスを受け入れなかった。まるでエサウが長子の特権を軽んじたように、神の愛を軽んじたのです。

その結果、エサウの子孫である異邦人が救われるという逆のことが起こったのです。

神は、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された」のであります。

十字架によって救われた私たち、異邦人である、教会はエサウの立場にあったにもかかわらず、神の逆転の祝福に預かるものとされたのです。

なぜこの世に光だけでなく、闇があるのでしょうか?

病気なしには健康のありがたさがわからない世界です。

しかし、イエス・キリストはこの闇を打ち破って私たちの人生に光をくださるのです。

 ルカによる福音書23章44~46節「既に昼の十二時ころであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から避けた、イエスは大声で叫ばれた、『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」

太陽が光を失ったのです。闇が全地を覆ったのです。私たちの罪がキリストの上で裁かれ、父なる神がイエス様から目をそむけ、主は見捨てられたのです。これがまことの闇であります。

今私たちには、イエスの復活を通して、光の世界が約束されています。

エサウの子孫であった私たちに、救いが来たのです。

2021年3月21日の説教要約 「十字架を誇りとする」

2021年3月21日の説教要約

      「十字架を誇りとする」  中道善次牧師

                            ≪ガラテヤ6:14≫

 

今日は、使徒信条の中の「十字架に付けられ」という告白を皆様と共に学びたいと思います。

3つのポイントからお話しします。① 身代わりの十字架、② 共に付けられる十字架、③ 血を流す十字架

三つのポイントと関わりのある歌詞の含まれる三つの新聖歌を紹介します。

身代わりの十字架は、新聖歌112番、♪カルバリの十字架、わがためなり♪。

共に付けられる十字架は、新聖歌111番、♪十字架、十字架、そこに我の罪も共に死せり♪。

血を流す十字架は、新聖歌235番、♪力ある主イエスの血、受けよ、今、受けよ♪。

友人のカトリックの信仰者は、賛美歌の歌詞からメッセージを聞き取ることがしばしばあると私に言っておりました。確かに賛美歌の歌詞は、神学的にもよく出来ております。

 

①身代わりの十字架

使徒信条では、「十字架に付けられ」と短い一言があるだけです。

使徒信条の解説や説教を見ますと、その多くがガラテヤ信徒への手紙6章13節を示します。

ガラ 6:13 キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書いてあるからです。

身代わりの十字架、何度もこの言葉を聞いてきたのですが、この言葉をより具体的にいうなら、罪の刑罰をイエスは、十字架の上で、私たちの代わりに受けて下さった。

その罪の刑罰は、神から呪われることであり、死ぬことであります。

まず呪いについて。神からの呪いを聖書の中で最初に受けたのは、弟を殺したカインです。創世記4章に出て来ます。

「のろい」とは、神がおられる場所から引き離されることであります。

創 4:16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ。

神が共におられることの平安や祝福を味わったことのない者にとっては、神がおられる場所から引き離されることの厳しさは、よく分からないのです。しかし弟を殺したカインは、その恐ろしさをよく知っていました。

また、私たちの身代わりに十字架につけられたイエスは、それを最もよく分かっていたのです。その叫びが、マルコ 15:34 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」であります。

これが、神から見捨てられる者の叫びです。イエス・キリストは、私たちの身代わりとして呪われたのです。神から見捨てられたのです。

呪いについて、別の角度から申します。それは、自分で自分を呪うことであります。それは次のような言葉です。「自分の人生は、何をやってもうまく行かない」と思うこと、言うことであります。

木にかけられる者は呪われる。私たちのために、身代わりになって十字架という木の上に掛けられたお方は、自分自身を呪ってしまうような人生を送る私たちを救い出して下さるのです。

もう一つの身代わり。それは罪の結果として死ぬこと。それを身代わりに受けて下さったことです。

聖書は告げます。ローマ 6:23 罪の支払う報酬は死です。

罪を犯した人間は全て死ぬのです。罪を犯した結果、死ぬことを、イエスは、身代わりに負って下さったのです。

だからもう、私たちが罪に定められることはないのです。

 

②共に付けられる十字架

小林和夫師著「二つの十字架と御言葉による聖霊経験」の中の「二つの十字架」という説教には、身代わりの十字架だけでなく、もう一つの十字架の意味が述べられています。それが共に付けられる十字架です。

それを新聖歌111番は歌っているのです。♪十字架、十字架、そこに君は、つきて死にたまえり、 十字架、十字架、そこにわれの 罪も共に死せり♪

エスの十字架の上に、私の罪も釘づけられて死んだというのは、私たちの自我のことです。

その自我とは、アダムが罪を犯した罪が転嫁されたことであります。転嫁される罪を原罪、オリジナル・シンと言います。原罪は、全ての人に転嫁されたのです。罪の転嫁の結果、私たちには、自我という自己中心が心の中にあるのです。

しかし、イエス様が十字架につかれたとき、アダムから転嫁された原罪もともに十字架に釘付けられたのです。パウロはそのことを新約聖書で、語っております。

私は、この説教を聞いたとき、アダムからの罪が転嫁されたというのなら、それは自分ではどうすることも出来ないではないか。自分の努力では、どうにもならない。自分の手の届かない領域のことではないか。しかし、そこで気がついたのです。自分の手の届かないところのことを、今から2000年前に、イエス様は十字架の上で処理して下さった。

十字架は、それほどに偉大なのです。自分では手の届かない罪さえも、すでに処理されていた、解決されていたのです。

そのことを、あるドイツの説教者は次のような表現で語ったのです。

私たちが思っているよりも、もっと多く救われている。

言葉を換えると、私たちは自分が理解しているよりも、もっと大きく、深く救われているのです。

今日の聖書朗読の箇所は、十字架を誇りとする、であります。

ガラテヤの教会では、十字架だけではなく、それと共に、旧約聖書の儀式である割礼を受けることが大切なのだと主張しました。そのような人々に対して、パウロは、十字架だけで十分なのだと言いました。そして彼は言ったのです。私にとって、誇りとするものは十字架以外にない、と。

 

③血を流す十字架

車田秋次先生は、十字架で一番大切なことは、血を流すことであると言われました。

だから他の死刑方法ではいけなかった。他にもローマでは残酷な死刑方法があったようです。しかし血を流す死刑は十字架でありました。

血を流す大切さは、旧約聖書出エジプトの救いと繋がるのです。出エジプトの時、小羊が殺されて、その血が入り口の両脇の柱と鴨居に塗られ、イスラエルがエジプトから脱出したように、私たち人類が、罪から解放されるためには、神の小羊であるイエスの血が流されなければならなかった。

旧約聖書では、年に一回の「贖いの日」が記されています。レビ記16章です。それは動物が殺され、その血を大祭司が、至聖所と言われる、神殿の奥に入って、契約の箱の上の部分に血を注いで、人々の罪の赦しを祈る儀式であります。

十字架にかかられたイエス様は、旧約聖書の贖いの日の儀式を、一人二役で成し遂げられたのです。

一つ目の役割は、イエスは十字架で殺されて血を流されたことです。

二つ目の役割は、大祭司が動物の血を携えて至聖所に入り、契約の箱の上に血を注ぎかけて、贖いの祈りをしたように、イエスは、ご自分が流された血を携えて、天の至聖所に入られ、そこで永遠の贖いを成し遂げられたのです。

聖書では、血を流すことの意味を次のように言うのです。

血は命であるから贖うことが出来る。血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない。

聖書は告げます。

ヘブ 9:13 雄山羊や若い雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖別し、その身を清めるとすれば、

ヘブ 9:14 ましてや、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。

動物の血でさえも、清める力がある。人間の献血でさえも、人を生かす力がある。

ましてや、イエスの血は、私たちを救い、清め、生ける神に仕える者とする力があるのです。

このイエスの血の力を受け取るために、イエスの血潮の力を賛美することが大切です。

2021年3月14日の説教要約 「イエスの受けた苦しみ」

2021年3月14日の説教要約

 

    使徒信条 「イエスの受けた苦しみ」  中道善次牧師

 

今日は、使徒信条の中の「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という告白を学びます。

 

①ピラトの名前を出す意味

ポンテオとは総督という意味です。ですから総督ピラトという表現も数多く出来ます。

使徒言行録の中には、パウロの裁判に関わった総督が二人います。ペリクスとフェストです。総督ペリクスという表現がありますが、ポンテオという表現はありません。

聖書の中でポンテオという表現があるのは、以下の3カ所。協会共同訳ではポンティオです。

テモ1 6:13 万物を生かす神の前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で・・・

ルカ 3:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、・・・

使徒 4:27 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、・・・聖なる僕イエスに逆らい、

ローマの委託を受けて、ユダヤの治安維持を命じられたのが総督ピラトでした。

 しかし聖書を読んでいると、使徒信条でピラトがキリストを殺した張本人のように言われることは、ちょっと違うのではないかと感じることがあります。ある教会の方は、毎週、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と繰り返し言われるのは、かわいそうだ。そう言ったそうです。

 総督ピラトは、ユダヤ人から「十字架につけろ」と迫られて、やむにやまれず、決断した。福音書を見ると、そのように読むことが出来ます。

マタイ福音書27章18~19節、23~24節を御覧下さい。

またヨハネ福音書では、三度もピラトは、「イエスに罪を認めない」と言っております。

そしてピラトは恩赦をイエスに与えようとしましたが、ユダヤ人はそれを拒否して、バラバを許せと叫んだのです。福音書の記事を読む限りでは、ピラトは心を痛めながら、イエスを十字架に付けた、付けさせられたと理解することが出来ます。

 しかしヨセフスという歴史家によりますと、ピラトは優柔不断な男ではなく、ピラトは権力欲の強い、残忍な人物だったようであります。

 こういうエピソードがあります。ピラトは自分が総督として着任するとき、軍旗を掲げて行進しました。それは支配国ローマの旗であります。そのことでユダヤ人の非常に強い反感を買いました。ユダヤ人は、抗議行動として、座りこんで5日間のデモを行いました。それに対してピラトは激怒して、みなの首をはねると言いました。実際に兵士達が首をはねようとしました。ピラトの考えの中には、そのような脅しをすれば、みんな恐れて引っ込むだろうと考えていました。一人や二人殺せば、恐れをなすと思っていました。ところがユダヤ人は誰一人、びくともしないで首を差し出したというのです。そこでピラトは、ユダヤ人に恐れをなし、強行政策を引っ込めてしまったのです。

またもう一つの背景がありました。ピラトは、ローマ皇帝の一人の高官に取り入って、ユダヤ総督の地位を得たのです。ところが自分の友人である高官は、ローマ皇帝からその職を解かれた。だからユダヤ人から、カイザルに訴えるぞと言われると、自分もまた、職を失うかもしれないと思ったのです。

ピラトは、イエスを死刑にする理由がないことは、よくわかっていました。しかしユダヤ人を怒らせて、自分が得することは何もない。自分の総督としての地位を守るために、彼は、正しいと思ったことを貫かず、ユダヤ人が要求するままにイエスを死刑にしたのです。

そのピラトの姿の中に、私たちの姿が映し出されているのではないでしょうか?

エスを苦しめ、十字架に付けたのは、ポンテオ・ピラトと私たちは告白します。しかしピラトという人物の中にあった同じ罪が、私の内側にあることを、この告白の中で認めることが大切であります。

 

②受け身であったイエスの人生

使徒信条には、イエスはマリアから生まれて、すぐにポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられると告白します。使徒信条の中には、イエスの人生について触れられていないのです。

ハイデルベルク信仰問答の解説には、次のようにあります。イエスの一生が「苦しみ」という言葉に象徴されている。だから「苦しみ」という言葉がイエスの一生を表現しているのだというのです。

「苦しみを受け」と告白する信徒信条は、ラテン語で書かれました。ラテン語では、苦しみ、受難は「パッスス」という言葉であります。「パッスス」という言葉は、受け身の言葉であります。何かを被った。そのような受け身の体験を表す言葉であります。ですから、必ずしも苦しみだけを経験したという意味ではないのです。自分が受け身で巻き込まれてしまう全ての経験であります。その中には、喜ばしいことも含まれるのです。しかし、その多くは「苦しい」ことである。ですからパッススが、苦しみという意味になったと言われるのです。

現代であっても、親が決めた人生を、決められたとおりに従って歩む人がいます。そのような受け身の人生には、苦しみが伴うことがあります。

エス様もまた、受け身の人生を送られたのです。父ヨセフは早くになくなったと思われます。イエスは、大工の仕事をして、母や弟妹たちを養いました。30歳で宣教に立ち上がった後、家族から理解されず、周囲から受け入れられず、お前は一体どうしたのかと言われたのです。宣教に出かけてからも、人の子は、枕するところもない。孤独や貧しさを味わわれたのです。そして弟子の裏切りにあり、人々からあざけられ、十字架について、命をお捨てになられました。

受け身の人生、苦しみの人生を味わわれたのです。私は、イエス様が、受け身の人生を強いられてきた人々の身代わりとなって下さった。受け身の人生で苦しむ人々の身代わりとなられたと思うのです。

 

③主の僕を動かした情熱

苦しみはパッションである。受け身と共にもう一つの意味があります。それは情熱であります。

これもまた受け身であります。私たちは、「何かに突き動かされるように進んでゆく」という表現を使います。情熱というパッション、受け身でありながら、自分もそれを受け止めて、突き進んでゆく。

パッションという言葉は、受け身。苦しみであり、また情熱。そこには複雑に入り組んだものがあるのです。私が与えられた使命はこれだ。そこには苦しみが伴うことは分かっている。しかし私はそうしなければならない。それが私の喜びとするところである。

エス様にとって、十字架に向かって進んで行く事はまさにそうだったと思います。

エスの弟子の一人であるパウロも同じでした。パウロは、神様から与えられた情熱というパッションに動かされて、苦しみを受けることも厭わないで、進んでいったのです。

使徒言行録20章22~24節には次のような言葉があります。

使 20:22 そして今、私は霊に促されてエルサレムへ行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。

使 20:23 ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。

使 20:24 しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません。

パウロは、聖霊に情熱を、パッションを与えていただいたのです。それはミッション、使命と言っていいでしょう。情熱を込めて自分に与えられた使命を果たす。そのためには、苦しみが伴うのです。

パウロはこの言葉を言った後、多くの人から、エルサレムに行かないでほしいと引き留められた。苦しみが待っていると預言を受けたのです。パウロ愛する人々は涙を流して、引き留めたのです。

それでもパウロには、イエスのために動かされる情熱が強かったのです。彼らに言うのです。私の心をくじかないでください。私はイエスの名のためなら、エルサレムで死ぬことさえ覚悟しているのです。

神様から使命が与えられれば、情熱をもって取り組むことが出来るのです。それにともなう困難も乗り越えてゆけるのです。