2022年3月27日の説教要約  「主の山に、備えあり」

2022年3月27日の説教要約

           「主の山に、備えあり」  中道善次牧師

                                             ≪創世記 22章14節≫ 

 

今日、覚えていただきたいヘブライ語は、ヤーウエ・イルエです。

 

1、アドナイ・エレからヤーウエ・イルエ

ヤーウエ・イルエという言葉が語られるに至った聖書の物語を紹介いたします。

これは創世記22章で、アブラハムが、神様から「独子イサクを献げよ!」と命じられ、それに従って行動した直後に語られた言葉です。そのところをお読みします。

創 22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子(イサク)を屠ろうとした。

創 22:11 そのとき、天からの主の御使いが、「アブラハムアブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

創 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

創 22:13 アブラハムが目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

創 22:14 アブラハムはその場所をヤーウエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

聖書を物語として読んでいると、はらはらどきどきです。アブラハムにとって絶体絶命の試練です。そう思っているのに、神様の側ではちゃんと、結論を用意しておられた。献げる雄羊を備えておられたのです。

神様は、この試練を通して、アブラハムをじっと見ておられたのです。その信仰をテストしておられたのです。

この言葉は、これまで出されてきた聖書を見ると、違ったカタカナ表記で記されています。

文語訳では、エホバ・エレでした。私たちは神様のお名前は今ではエホバではなく、ヤハウエ、ヤーウエであると知っています。しかし文語訳の時代は、エホバと表記しておりました。

次に口語訳ですが、アドナイ・エレとなっております。

エレは同じですが、アドナイは? アドナイとは、「ヤーウエ」という神の名を口に出してユダヤ人が発音しなかったのです。その代わりに、わが主と言い換えたヘブライ語であります。

後半のカタカナ表記が変わったのは新改訳聖書からです

新改訳も新改訳2017も、アドナイ・イルエ

新共同訳では、ヤーウエ・イルエ

エレを、よりヘブライ語に近いカタカナ表記に変えました。それがイルエであります。

イルエには、二つの意味があります。新改訳2017を見ますと、主が備えて下さる、主が見て下さる。この二通りの意味が書かれています。

しかしどの聖書も、創世記22:14を、カタカタのヘブライ語で書いたのです。聖書が、当時使われていた原文をそのまま表記している場合、これをそのまま覚えてほしい大切な言葉としている現れなのです。

私たちの祈りの中で、主よ、見ていて下さい。主よ、必要を備えて下さい。

見たもう神、備えたもう神という代わりに、ヤーウエ・イルエ。そのように唱える口に出す価値のある言葉です。

 

2、見たもう神

イルエというヘブライ語の原型はラアーです。

ラアーは、見るという意味であります。ラアーという言葉から派生した言葉であります。

神様、あなたは見ていてくださる御方です。

第二ポイントでは、ヤハウエ・イルエは、見たもう神、としてメッセージを受け止めたいのです。

創世記は、神様がアブラハムを見ておられただけでなく、ハガルも見ておられたと告げるのです。ハガルという女性が出てくるのは創世記16章です。

ハガルはエジプトで得た女性の奴隷です。奥さんのサラに仕える人でした。

アブラハム夫妻は愚かな決断をしました。子どものいない自分たちに子どもをもうけるためにハガルを通して、イシュマエルという子どもをもうけたのです。

16章で、ハガルが妊娠したことが分かったのです。するとハガルは女主人サラを見下すようになった。サラはそのことが我慢ならない。そして女奴隷ハガルを追い出すのです

ハガルは行く当てもなく荒野をさまようのです。ところが主の使いが現れて、女主人のもとに帰りなさい。そう言われ、へりくだってサラに再び仕えるのです。そしてイシュマエルが生まれるのです。

ハガルは、女主人から見捨てられ、逃げているときに、自分のことを、見ておられる神に助けられる経験したのです。

それがヘブライ語になって書かれているのです。

「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)」創世記16:13

ロイは直訳では「見る方」です。ラアー(見る)という動詞が語尾変化しているのです。

ところが、新共同訳は「私を顧みられる神」と訳しております。それは心配して見ている。見守っているという意味です。

神様は、ハガルだけでなく、ハガルから生まれたイシュマエルをも心配しておられることが21章を見ると分かります。私はここに、公平な神様を見いだすのです。

 

3、備えたもう神

イルエは、ラアーの変形であると申し上げました。

ずいぶん昔に、このことはヘブライ語の辞書をあちらこちら引きながら学びました。

「見る」という言葉がもとになっています。それと備えるがどうして関わるのでしょうか。

神様の見つめ方があります。それは、愛の眼差しです。どうなるかと心配しながら見つめることであります。そのように見つめていると、その子のために何かを備えてやらなければならないと気づくことがあるのです。それがイルエを、見るだけでなく「備える」と訳す要因ではないかと思うのです。

それはちょうど、歩き始めた子どもを親が見つめるようなことに似ています。一人で歩いて欲しいので、後からじっと見るのです。しかし転ばないだろかと心にかけるのです。あるいはもし邪魔なものが行き先にあるとすれば、それを先回りして取り除く。そのような配慮をしながら、一人で歩いて行けるように見守る。そのような愛の眼差しであります。

神様はアブラハムをじっと見ておられたのです。神様も、どうなることかとはらはらしておられたかもしれません。しかしアブラハムはやってくれると信頼していたのです。その信頼の証が、備えてあった雄羊です。

あなたの人生をじっと見ていてくださる神様が、あなたに必要なものを備えてくださるのです。いつも優しい愛の眼差しを向けてくださるのです。

2022年3月20日の説教要約 「来て、見なさい」

2022年3月20日の説教要約

                「来て、見なさい」  中道由子牧師

 

《イエスは、「来なさい、そうすれば分かる。」と言われた。そこで、彼らはついて

行って、どこにイエスが泊っておられるかを見た。》

ヨハネによる福音書1章35~51節)

  

 最初にイエス様について行った弟子たちのことをお話しします。

 

1、二人の弟子を手放すヨハネ 

 この記事の前の節に書かれているのは、バプテスマのヨハネについてです。

彼の使命は、自分で何か大きなわざを行うことではなく、ユダヤ人たちにイエスが神の御子であることを告げ、この方について証しすることでした。

証しというのは、見たことや体験したことを語ることですが、彼は以前にイエスと会ったことがありませんでした。

彼の証しの根拠は、驚いたことに、父なる神から聞いた言葉でした。

彼は、神から直接聞いた通り、イエス様のことを、「世の罪を取り除く神の小羊」、「聖霊によって洗礼を授ける人」、「神の子である」と証しします。

日々、神と親しい交わりをする人は、神の御声を聞き分け、イエス様のことを証しすることができます。

 そして、本日の聖書箇所35節「その翌日」とあります。

バプテスマのヨハネがイエス様と初めて会って洗礼を授けた、その翌日です。

彼が二人の弟子といるとイエス様が歩いておられた。彼がイエス様のことを「見よ、神の小羊だ。」と二人の弟子たちに言うと、彼らはイエス様に従って行った、というのです。

バプテスマのヨハネは、弟子たちに自分よりもすぐれたイエス様を紹介し、それを聞いてイエスについて行った二人の弟子を手放しました。

二人の弟子の一人はアンデレで、もう一人は一般的に名前を告げず、“イエスの愛される弟子”と表現するヨハネ福音書の著者であると理解されています。

アンデレはペテロを主に導き、もう一人の弟子はヨハネ福音書を私たちに残しました。

もしバプテスマのヨハネがこの二人を手放してイエスにささげていなかったら、歴史が変わっていたことでしょう。

 

2、わたしたちはキリストに出会った

  最初にイエス様をメシアと確信したアンデレは、ただちに自分の兄弟シモン・ペテロを探し出し、「わたしたちはメシアに出会った。」と証しをします。

そのアンデレに連れてこられたシモンにイエス様は目を留め、「ケパ(岩の意)」という新しい名前をお与えになったのです。彼らは、まったく無名のガリラヤの一漁師でした。

しかし、イエス様は彼らの内に、信仰にすぐに応じる素直な性格と奉仕の能力を見抜かれたのです。ここから福音のリレーが始まります。

バプテスマのヨハネが自分の二人の弟子であったアンデレとヨハネにイエス様を紹介しました。アンデレは兄弟のシモン・ペテロにイエス様を紹介し、ヨハネはこの福音書を書くことによって世界の人にイエスを紹介したのです。

さらに、43節からは、その翌日イエス様はフィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と言って、お召しになります。

そのフィリポはナタナエルに出会って、イエス様を紹介する、ここにまた別の証しの輪が繋がります。フィリポは、旧約聖書が預言していた約束のお方に出会ったと告げます。

しかし、ナタナエルはナザレからメシヤが出るなどとはとても考えられないと、偏見のかたまりでありました。

でも、フィリポは自信を持って、「来て、見なさい」とナタナエルに言います。

ナタナエルの偏見を打ち破るにはイエス様ご自身に会わせる以外はないと、ぶれることなくイエス様を紹介します。

 福音のリレー、つまりイエス様に会って人生が変えられた人が、隣の人にイエス様を紹介しています。これはイエス様に会ったばかりの人の方が紹介しやすいのです。

皆さんがこうして教会に来て、クリスチャンとなるまでのストーリーをそれぞれが持っていると思います。一人でやってきて自分で求めたという人は少ないと思います。

誰かに誘われ、またずっと祈られて、イエス様に出会ったのです。

  

3、どうしてわたしをご存じなのですか

 ナタナエルは旧約聖書をたくさん研究した人だったようです。

エス様は、ナタナエルのうちに偽りのない真のイスラエルをご覧になりました。

47節「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

ナタナエルは、イエス様が事前に自分のことを知っていて、深いところにある信仰的な願いまで洞察しておられることに少なからず驚きました。

自分が馬鹿にして笑った人から感動的な賞賛を受けたのです。

エス様は、48節で「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」と言われます。

会堂のない小さな田舎町でトーラー(律法)を学ぶのに適した場所はいちじくの木の下でした。ナタナエルは、律法を黙想しつつ救いを求めていたのです。

ナタナエルの真理を求める姿をイエスは尊敬すると言われました。

この言葉によってナタナエルの偏見、ガリラヤ地方から預言者は出ないという偏見が打ち砕かれ、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」という信仰告白に導かれたのです。

このように、イエス様は律法を知っている人には、その人にぴったりあった導き方をされます。ナタナエルだけではない、イエス様と出会う前の私たちがどこで何をしていて、どのような者であるか、全部ご存じなのです。

2022年3月13日の説教要約 「初めに言があった」

2022年3月13日の説教要約

                         「初めに言があった」 中道由子牧師

                《初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。》

                                                       (ヨハネによる福音書1章1~5、14節)

  

 1、言は行い     

 ヨハネによる福音書では言葉が「言」の一字で現されています。

これはどこにでもある言葉というのではない、固有名詞です。ギリシャ語ではロゴスという語ですが、これは神の独り子であるイエス・キリストご自身をあらわしています。

ギリシャ語からの翻訳の折、ルターは「はじめに言があった」と翻訳したそうですが、英文学で有名なゲーテが書いた「ファウスト」という劇で、博士ファウストがこのヨハネ福音書のこの箇所をどう翻訳しようか悩むところがあって、ファウストはどうしてもルターの「はじめに言があった」のこの訳が気に入らず、いろいろと言い換えていくうちに「はじめに行いがあった」という翻訳に到達します。言葉と行いではずいぶん違う、しかしロゴスという言葉は普通に使う薄っぺらなものではないということです。

創世記1章においても神様は言葉によって天地をお造りになられました。

言葉によってすべての物ができる、創造の力が伴う、命をもたらすのです。

よく申命記に出てくる「聴け、イスラエル!」という言葉の「聴け」の中にはただ聞くだけでなく、「聞いて従う」という意味が入っていると言われます。

同じようにこの「言」には「行いを伴う言葉」の意味合いがあるように思います。

よく「言っていることと、やっていることが違う」ということを聞きます。

わたしたちはどうでしょうか?私たちのお金の管理、仕事の仕方、家庭生活の在り方は神様の前に言行一致しているでしょうか?

私たちの霊的生活に世の中との妥協があれば、このくらいは誰でもやっているという罠にかかりやすいです。また「言うは易し、行うは難し」、「誰でも言うことは簡単に言えるけれど、実際行うことは難しい」です。

エス様もマタイによる福音書の中で「あなたがたは天を指しても、地を指しても、神殿を指しても誓ってはならない」と言っておられます。

私たちはその点において不完全なのです。

神様は私たちに口先だけでなく、行いと真実が伴う生き方を求めておられるのではないでしょうか。

 

2、言は知恵

このヨハネ福音書1章の言の翻訳でまたたいへん興味深い解釈をした方がおられます。

ずいぶん前に三浦綾子さんが書かれた「海嶺」という小説が映画になりました。

紀州の宝順丸船が1832年に遭難して漂流した結果、日本人の岩吉、久吉、音吉はアメリカ西海岸フラッタリー岬にたどり着きます。そして、彼らはいろいろのつらい体験をして世界を周って英国からマカオに連れて来られ、日本に帰ろうとしますが鎖国が解けていない時代で日本を目前にして断腸の思いで、諦め、引き返していく物語です。

1835年この三人をマカオで迎えたのは、マカオで伝道に励んでいたギョツラフというドイツ人の宣教師でした。言葉の才能に恵まれていた方で、この三人にたいへん関心を持って、彼らから日本語を学び、ヨハネによる福音書ヨハネの手紙を翻訳しました。

彼はこのヨハネによる福音書の最初を「はじまりにかしこいものござる。このかしこいもの、ごくらくとともにござる。」と訳したのです。

特に14節の「言は肉となって、私たちの間に宿った。」は「賢い者は人間になられ、私どもとともにおった」と訳されています。

言なるイエスキリストを賢いものと訳させているところが大変優れていると言われています。私たちは賢い知恵ある言葉を語りたい者です。

しかし私たちは言葉において過ちを犯しやすいものです。

箴言の中の多くは知恵者であるソロモンが書いたと言われます。

そしてそこにはたくさんの言葉に関する注意事項が書かれている人生の処方箋でもあります。知恵ある言葉の遣い方として(15;23)「人は口から出る好ましい言葉によって喜びを得る。時にかなった言葉は、いかにもよいものだ。」

あの時、あの人に声をかけてもらった言葉が忘れられないことがそれぞれにあると思いますが、それ以上に、イエス様の言葉には心を癒す力があります。

コロナ下の中ですが、み言葉に深く根差した日々を大切にしましょう。

 

3、言なるキリスト

 ヨハネはキリストを言なるお方として受け止めました。

主は、ヨハネによる福音書にでてくる人たち、真理を求めているニコデモに夜会い、諭してくださり、心傷ついているサマリヤの女に近づいて声をかけられた。

病気の人に「治りたいのか?」と声をかけられ、肉親を亡くしたものに「私を信じるものはたとい死んでも生きる」と宣言されました。

また、ヨハネは「言葉」という文字もよく使っています。

ヨハネはイエス様が語られた言葉を大切に記録しております。「私の愛のうちにとどまりなさい。」と言われたイエスさまは「あなた方は互いに愛し合いなさい」と命じられ、それはどういうことなのかを示すように自ら弟子たちの足を洗われ、罪の身代わりとして十字架にかかり、愛を示してくださいました。

ですから「その友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と語られたイエス様の言葉は、ヨハネ自身の信念となり信仰となって、ヨハネ第一の手紙3:16において自ら「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」と訴えかけております。

この言なるキリストに私たちもとどまり、生かしていただきましょう。

2022年3月6日の説教要約 「聖なる、聖なるお方」

2022年3月6日の説教要約

                           「聖なる、聖なるお方」  中道善次牧師

               ≪イザヤ 6章1~6節≫ 

 

今日とりあげますヘブライ語は、カドーシュです。これは「聖」「聖なる」という意味であります。

それが語られているのが、イザヤ6:3であります。

この箇所で、聖なる(カドーシュ)と言う言葉が三回繰り返されています。

三つの繰り返しには、二通りの理解があります。

一つは、三位一体の神を表す。父なる神、御子なる神、聖霊なる神のお三方をそれぞれ聖なる御方として賛美することであります。

もう一つは、カドーシュと言う言葉を三つ重ねることで、聖である神ご自身を表すという理解です。

旧約聖書で、神様のお住まいの場所を「聖所」と言います。これは、ヘブライ語でカドーシュです。

さらに聖所を垂れ幕で区分して、垂れ幕の奥に契約の箱を置きました。英語では、holy of holy と呼びます。日本語では至聖所であります。それがヘブライ語では、カドーシュ、ハ・カドーシュです。契約の箱が置いてある至聖所に神が住んでおられる。聖なる場所です。

そしてカドーシュを三つ並べる。英語で言うなら、good,better,bestの最上級になります。それは最も聖なるお方、神ご自身を指すのです。

イザヤが、神様を見たというのはそういうことです。カドーシュ、カドーシュ、カドーシュとは、神様ご自身を表す言葉であります。

 

1、輝く栄光の中に住む神

イザヤがここで見た幻は、「聖なる神」のお姿でありました。

そこに登場して「聖なる、聖なる、聖なる」と賛美する天使はセラフィムです。

セラフィムには6つの翼があり、それぞれの翼で、顔を覆い、脚を覆い、二つの翼で飛んでいたとあります。

顔を覆いとは、輝く神のお顔を見ることがないようにする姿です。

「聖なる、聖なる、聖なる」に続いて出てくる言葉は、「栄光」という言葉です。

栄光を表すヘブライ語はカーボードです。神の栄光が現れるときに、輝きが起こる。それをシェキーナーの栄光と呼びます。

シェキーナーは、臨在という意味です。シェキーナーという言葉そのものは聖書には出てこないのですが、神様の臨在が現れるとき、シェキーナーの栄光が現れる。聖書の中には、輝きにうたれたという記事がいくつも出てきます。

シェキーナーの栄光が意味する内容は、「輝きを放つ」ことです。

その一つの事例が、使徒言行録9章です。ダマスコに行く途上で、パウロが光り輝く主イエスに出会って、倒れた姿であります。パウロは強い光に当てられて三日間、目が見えなくなったのです。パウロがシェキーナーの栄光に触れたのです。

もう一つの事例は、変貌山の出来事です。イエスのお姿が、この地上に来る以前の栄光の包まれた姿に一瞬ですが戻ったのです。

マコ 9:3 衣は真っ白に輝いた。この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった。

衣の白さ、顔の輝き、これらはシェキーナーの栄光と呼ばれるのであります。

セラフィムは、足も覆っていました。ここから思い起こすのはモーセが神様に出会ったときであります。

シナイ山で、燃えているのになくならない火をモーセは見たのです。

それは聖なる神様の臨在に触れた瞬間です。

その時、モーセは神様から命じられたのです。ここは聖なる土地だ。足から靴を脱ぎなさい。

同じ事をモーセの後継者であるヨシュアも経験しました。ヨシュア5:13~15です。

ヨシ 5:15 主の軍勢の長はヨシュアに答えた。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。

私たちがカドーシュという言葉から受け止めたいことは、神様は聖なる御方。私たちが近づくことが出来ない御方であります。しかしそれは単なる恐怖体験ではないのです。

神様の聖さを認める大切さを私たちに教えるのです。

では、聖い神様私たちが近づくことは許されないのでしょうか。イザヤは述べています。

イザ 57:15 高みにおられ、崇められ、永遠におられる、その名が聖である方がこう言われる。

私は高く、聖なる所に住み、打ち砕かれた人、低められた人と共にいて

低められた人の霊を生き返らせ 打ち砕かれた人の心を生き返らせる。

聖く、高い所に住む神様ですが、私たちが、謙るなら、一緒にいて下さる。私たちに命を吹き込んで下さるのです。神様を畏れ敬い、へりくだる心を持つことが大切です。

そのような心を持つ者に、優しい神様が一緒にいて下さるのであります。

 

2、主に聖なる者

カドーシュで、出エジプトの説教の時にも紹介しました。

それは大祭司の姿です。その額には金のプレートがあり、カドーシュ・ロー・ヤハウエとあります。

カドーシュは聖、ローは、~に向かって、ヤハウエは、主です。

「主に聖なる者」であります。

東京聖書学院のチャペルに行きますと正面の壁に、左から右に、Holiness Unto the Lordという文字が大きな英語で書かれています。

大祭司アロンのターバンのところに金のプレートを巻く。その文字が、そうなのです。

主に仕える者の姿は、カドーシュ・ロー・ヤハウエであるのです。

聖とは、「分けられる」という意味があるのです。ここでは、神のために分かたれる。神様に仕えるために区別される。旧約の祭司が、献身者が奉仕のために分かたれた者であるのと同じなのです。

それは神様の働きのために選び分かたれ、神様の働きに専念する「聖別」であります。

教職者でなくても、主から託していただいた奉仕のために、私を聖めてください。真心を込めて行わせて下さい。そのような祈りが、大切であります。

 

3、あなたの家族は聖い

聖は、神のものとなることだと申しました。

私はコリント人への第一の手紙を読みながら、不思議に思った事がありました。

パウロは、コリント教会の人々に、結婚について次のように書いています。

コリ1 7:10 さらに、既婚者に命じます。妻は、夫と別れてはいけません。こう命じるのは、私ではなく、主です。

コリ1 7:13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に暮らすことを望んでいる場合も、離縁してはいけません。

コリ1 7:21 召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい。

ここから理解することが出来るのは、奴隷という立場からの解放を求めた人々がいたことであります。そしてもう一つの可能性は、クリスチャンになった女性には、ある願いがあったようです。

未信者の夫を持っている妻から、「あなた、私と離婚して下さい。あなたとはもう関係を持ちたくありません。汚れますから」。そのようなことを願ったことが、今読んだ1コリント7章10節と13節の言葉から想像することが出来ます。

それに対するパウロの言葉を聞いて下さい。

コリ1 7:14 信者でない夫は、妻によって聖なる者とされ、また、信者でない妻は、夫によって聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。

ここでパウロが述べている、夫が聖なる者となり、妻が聖なる者となり、子どもが聖なる者となるというのは、どのような意味でしょうか。

調べてみて驚きました。聖なる者と言う言葉は、ギリシャ語のハギオスで、ヘブライ語のカドーシュであります。

「聖なる者」という言葉は、「神さまのものである」という意味であります。

パウロは凄いことを、思い切ったことを言うのです。

そこには契約と言うことが関係していると思います。

神様を信じることは、神様の契約を結ぶことであります。

そして夫婦となると言うことも契約を結ぶことであります。

ですから次のようなことが言えるのです。

夫婦であるなら、一方が、神様のものになれば、パートナーである者も、契約を結んだものであるが故に、神様のものとなる。

そして彼らから生まれる子ども達もまた、聖なる者、つまり、神様のものになるのです。

神様が許された夫婦の関係の中では、一方がクリスチャンであるなら、パートナーや子ども達は、神様の恵みと祝福のもとにおかれるというのです。

素晴らしいメッセージであります。

それは、神様の視点を言っているのです。神様は、広い意味での契約関係に入ったので、「聖なる者」だと私たちのことを見て下さるのです。

「あなたの夫も救われる」という題の書物があります。そこで著者が書いていることは、早くパートナーにクリスチャンになってもらいたいと焦って、相手を強いるようなことをしてはならない。

夫が救われる前に大切なことがあると述べるのです。ノンクリスチャンの夫が、クリスチャンの妻であるあなたを認めていることです。そして一緒に生活することを喜んでいるのです。当時の女性は結婚すると、夫に隷属するような立場におかれた。そのことに対する反発があったようです。離婚して夫の支配から自由になる。解放される。そのことでより聖く生きることが出来ると思っていたようであります。

それに対するパウロの言葉を聞いて下さい。

コリ1 7:14 信者でない夫は、妻によって聖なる者とされ、また、信者でない妻は、夫によって聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。

ここでパウロが述べている、夫が聖なる者となり、妻が聖なる者となり、子どもが聖なる者となるというのは、どのような意味でしょうか。

調べてみて驚きました。聖なる者と言う言葉は、ギリシャ語のハギオスで、ヘブライ語のカドーシュであります。

「聖なる者」という言葉は、「神さまのものである」という意味であります。

パウロは凄いことを、思い切ったことを言うのです。

そこには契約と言うことが関係していると思います。

神様を信じることは、神様の契約を結ぶことであります。

そして夫婦となると言うことも契約を結ぶことであります。

ですから次のようなことが言えるのです。

夫婦であるなら、一方が、神様のものになれば、パートナーである者も、契約を結んだものであるが故に、神様のものとなる。

そして彼らから生まれる子ども達もまた、聖なる者、つまり、神様のものになるのです。

神様が許された夫婦の関係の中では、一方がクリスチャンであるなら、パートナーや子ども達は、神様の恵みと祝福のもとにおかれるというのです。

素晴らしいメッセージであります。

それは、神様の視点を言っているのです。神様は、広い意味での契約関係に入ったので、「聖なる者」だと私たちのことを見て下さるのです。

しかしながらパウロ先生、個人的な信仰の告白はどうなるのでしょうか?

その点についてパウロは、「共にいることを喜んでいる場合には」というのです。本人が信仰の告白をする前の段階として大切なことは、クリスチャンになった人生にパートナーと一緒に暮らすことを喜んでいるかどうか。認めているかどうかなのです。

私たちの母教会に、祈り深い方、敬虔な女性がいました。

ご主人は、なかなかクリスチャンにはなりませんでした。しかしご主人が、奥さんのことを次のように言っていたと聞いたことがあります。「うちの嫁はんは、イエス様みたいな人や。」

このご主人は、奥さんと一緒にいることを喜び、尊敬しておられました。「聖なる者」とされていたのです。そしてご主人は、洗礼を受けて、天国に行かれたとご家族の方からうかがいました。

神の「聖さ」を意識して歩みたいと思います。

また家族が「聖なる者」とされることを祈りたいと思います。

2022年2月27日の説教要約 「主はわたしの義」

2022年2月27日の説教要約

                              「主はわたしの義」 中道善次牧師  

                                               ≪エレミヤ 23章6節≫

 

ラリー・リー著「一時間でも祈っていることが出来ないのか」という本がありました。彼は、「主の祈り」の祈りの順序に基づき、祈りのガイドを紹介しております。

そのガイドによりますと、主をあがめます。御名を崇めさせたまえ。その祈りから始めるのです。

主を崇める第一の言葉が、ヘブライ語の「ヤハウエ・ツァディーキーヌー」です。その意味は、主はわたしの義です。ラリー・リーは、まず、主はわたしの義と宣言して、私たちを罪から救われた主を崇めるところから主を賛美する祈りを始めるように勧めるのです。

ヤハウエ・ツァディーキーヌ。この言葉はエレミヤ23:6から取られたものです。

エレ 23:6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。より正確に言うと、主は我々の義であります。

今日のヘブライ語は、ツァデーキーヌーの原型であるヘブライ語「ツァディーク」(義)であります。

ツァディークという聞き慣れないヘブライ語には違和感があるかもしれません。

しかしツァディークを名前に持つ人は聖書に多く登場します。ゼデクと発音することも多いのです。

まず創世記14章に出てくるメルキゼデクです。

次に、ゼデキヤという王様がいます。ゼデキヤのヤは、主です。最初のゼデキがツァディークです。

 

1、主は義の源

まず義と言うことについて考えたいのです。

新約聖書の言葉で有名なマタイ6:33があります。神の国と神の義を求める。どういうことでしょう。いつも正しくなければならない。そういうことでしょうか?それでは、肩に力が入るクリスチャンになります。

義とは、ギリシャ語ではディカイオスという言葉ですが、ギリシャ語からの説明によると、義は基準という意味であります。それは「ものさし」「定規」を意味する「真っ直ぐ」という基準であります。

加えて、義とは関係、人間関係と共に神との関係を表す言葉です。

あなたと私の関係が「義」である。それは真っ直ぐで良好な関係であります。

つまり、神の義を求めるとは、神様と良好な関係、真っ直ぐな関係を持つことであります。

それを旧約聖書で表現している言葉があります。

箴 11:5 誠実な人の正義は、その道をまっすぐにし

ここには、正義、ツァディーク。そして真っ直ぐは、タミームが使われております。

ミームというヘブライ語については、いずれ詳しくお話ししますが、愚直なほどに真っ直ぐ。あるいは一途であると理解できる言葉であります。

また神の義とは、ご自分一人だけが「義」なのではなく、自分と関わる人を義としてしまう義であります。

ヘブライ語には、受け身形容詞があると少し前の説教で申しました。

義もまた受け身形容詞であります。つまり、義の源が主である。あらゆる義は、主から出ている。

あの人は正しい、義とされた。それは神様から義を受けたということであります。

私が正しいのではない。私の中に「義」があるのではない。私たちの中には、罪や自己中心しかないのです。しかし主が私たちの義となられたのです。イエス様が十字架にかかり、身代わりとなって下さった。救い主イエス様を信じる者には、主が私たちの義となられるのです。

 

2、サドカイ人のルーツ

次に学びたいツァディークが名前に付いている人物は、ダビデに仕えた祭司の一人ツァドクであります。ヘブライ語では、ZDKの三つの子音で表記します。

義は「真っ直ぐ」であると語りましたが、ツァドクは、文字通り真っ直ぐな人でした。

ツァドクはどこまでもダビデ王様に対して忠実であった。真実であったのです。

それがよく現されているのが、ダビデが息子アブシャロムから、反逆されたときです。

このままではダビデ王に身の危険が及ぶということで、ダビデ一行は都エルサレムから逃げたのです。ダビデと一緒に、神の箱を担いでついて行こうとしたのが祭司ツァドクです。

ところが、ダビデはツァドクを制するのです。おまえは来るな。都に留まり、神の箱を守れ。そして都で起こっている事柄を、息子を通して私に知らせてくれ。そう言われたら、「ハイ」と従うのです。

やがて形勢が逆転しました。ダビデ軍が反撃して、アブシャロムは、戦で死んだのです。

ダビデ軍にとっては勝利です。その勝利の知らせをダビデにいち早く届けたい。そう思ったのが、ツァドクの息子アヒマアツでした。

ツァドクの息子アヒマアツもまた、愚直なほど真っ直ぐな心でダビデに仕えた人でした。

このように真実に、真っ直ぐな心でダビデに仕えた祭司ツァドクの子孫を神様は祝福されたのです。

それがエゼキエル書に書かれているのです。

エゼ 44:15 イスラエルの子らが私から迷い出たとき、私の聖所の務めを果たしたツァドクの子孫であるレビ人の祭司たちは、私に近づき、仕えることができる。・・・

エゼ 48:11 これはツァドクの子孫である聖別された祭司たちのものである。イスラエルの子らが迷ったとき、彼らが私のつとめを果たし、レビ人が迷ったようには迷わなかった。

私は、ツァドクの子孫が祝福されるのは、世の終わりのことであるのかと思っておりました。

しかし、そうではないのです。

祝福を受けるツァドクの子孫は、代々、大祭司と祭司の職を受け継いでいったのです。

そのグループが、イエス様の時代のサドカイ人、サドカイ派の人々でありました。

サドカイとツァディーク、ZDKが同じであります。

しかしこの祝福ある立場、大祭司としてのつとめを受け継いだ子孫が、いつの間にか変質してしまった。

新約聖書に出てくるサドカイ人の記事を見ると、がっかりすることばかりです。

サドカイ派は、ユダヤ教のグループを構成する人数としては多くなかったのですが、ツァドクの子孫です。サドカイ派が、ユダヤ教の宗教を支配していたのです。権力を持っていたのです。サドカイ派からユダヤを支配する大祭司が出たのです。

エス在世当時の大祭司は、世的な権力を握る人でした。

エスを十字架につける判決を最終的にしたのは大祭司でした。マルコ14:53~63参照。

「変質する」という言葉があります。最初は良かったのに。熱心だったのに。でもいつの間にか、歪んでしまった。変わってしまった。それはツァドクの子孫、サドカイ人でした。

サドカイ人には高ぶりが入ってきたのです。そして、真っ直ぐな心を歪めてしまったのです。私たちは、変わらない心で、真っ直ぐに主に仕えたいのです。

 

 

3、正しい人となったザアカイ

ザアカイはツァディークから出ていると思い込んでいました。

何故ならザアカイの名前の意味は、正しい人と言われていたからです。

ところが違いました。ザアカイの基になったヘブライ語は、ザキーという言葉で、その意味は、ピュアー、意味は道徳的に清いのです。ザアカイは、正しい人、純粋な人という意味であります。

そしてザアカイの基になったヘブライ語のザキーは、ザカリアの短縮形だというのです。

ザカリアは、主に覚えられる人です。「覚える」と「正しい」は結びつかない。そう思っていました。

しかし洗礼者ヨハネの父ザカリア、また、ヨアシュ王に殺された祭司ゼカルヤ、いずれも真っ直ぐな人でした。神に覚えられた人々は、純粋な、正しい人だったのです。

しかしザアカイは、名前とは逆の人でした。人からお金をだまし取る収税人でした。

しかしそのザアカイを、イエス様は覚えられたのです。ザアカイと呼びかけられて、イエス様を自分の家にお迎えしたのです。そして今までの生き方をあらためたのです。そして文字通り、正しい人になりました。

新約聖書の中で、名前が出てくる登場人物は少ないのです。しかしザアカイは名前が出てきます。彼は初代教会で有名な人物だったのです。二つの可能性があります。

一つはカイザリヤの司教となった。

もう一つの可能性は、もしかしたら、ザアカイは、ユダの後任として12使徒の一人に選ばれたにマッテヤかもしれない。そのような絵があるのです。ストラスブールにあるノートルダム美術館に貯蔵されるハンス・バルドゥングが16世紀に書いたザアカイ=マッテヤの絵です。

そのザアカイの絵を見ると、彼が真っ直ぐな人になったことがよく描かれているのです。

私たちも純粋で、真っ直ぐに主に仕えたいと思います。

2022年2月20日の説教要約  「神の顔を見る」

2022年2月20日の説教要約

                       「神の顔を見る」  中道善次牧師

          ≪創世記 32章23~31節≫ 

 

今日、取り上げますヘブライ語はペニーであります。創世記32章のペヌエルとは、「神の顔」であります。ペニーが「顔」、エルが「神」です。

またペヌエルは、地名でもあります。ヤボク川の渡し場所であります。ガリラヤ湖から死海に流れるヨルダン川の中間地点から東に流れるヤボク川があります。

またペヌエルは、ホーリネスを掲げる教派の教会では、聖めの経験を指す代名詞ともなっております

修養会や聖会で、神様の前に出て、神さまのお顔を見るような経験をする。ヤコブがここで神様のお顔を見る経験をしました。それは人を押しのけるヤコブの本性が示され、彼の自我が砕かれ、杖をつかなければ歩くことができなくなった。そのように、自分の力ではなく、一歩一歩神様により頼むような歩みをするようになる。それがペヌエルの経験であります。

今日は、顔、それは「神様のお顔」のことでありますが、今日は、ペニーという言葉を取り上げて、三つことを学びたいと思います。

 

1、神と人の前に顔を上げる

ペヌエルが出てくるヘブライ語の聖書を紹介します。

創 32:31 ヤコブは、「私は顔と顔をあわせて神を見たが、命は救われた」と言って、その場所をペヌエルと名付けた。

ヘブライ語では、顔という表現をパニーム、そして、エルという神の言葉を加えて「ペヌエール」となります。

神の顔を見るというヤコブの経験は、人の前に顔を上げるという事と深く関係があります。

人の前に顔を上げる。それはある人に顔向けが出来なかったのに、顔を上げてもらう。赦し、和解です。

ヤコブは双子の兄をだまして、長男の特権と親からの祝福を奪い取りました。兄が激怒したので、ヤコブは怒りを避けるために逃げました。それ以来、ヤコブは兄エサウに顔向けが出来なくなったのです。そしてそれが20年も続きました。

人に顔向けが出来ない。その原点は、人間の罪にあります。アダムとエバが、神の命令に背き禁断の木の実を食べました。そのあとアダムとエバが取った態度は、神の顔を避けたことです。

創 3:8 ・・・そこで、人とその妻は、神である主の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

人は罪を犯すと、神様に対して顔向けが出来ない。そう思って、神の顔を避けてしまったのです。

同じ事が人に対しても言えるのです。

ヤコブは、兄エサウに顔を向けることが出来なかったのです。

そこでヤコブは、兄の顔を再び見ることができるように努力をするのです。

創 32:21 『あなたの僕ヤコブも私たちの後から参ります。』」ヤコブは贈り物を先に行かせて、エサウ(原文:彼の顔)をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく赦してくれる(原文:私の顔を受け入れてくれる)と考えたのである。

ヤコブは、贈り物を送る作戦を立てました。しかしそれだけでは安心できなかったのです。

ヤボクの渡し場で悶々としていると、一人の人が近づいてきたのです。ヤコブは、敵だと思って、その御方と一晩中格闘しました。これは「祈り」です。その結果、ヤコブはペヌーエール、神の顔を見たのです。

兄の顔を見る前に、神と顔と顔を合わせて見たのです。そのことが大切だったのです。

そして兄エサウの顔を見ることは、創世記32:21にあるように「赦し」を意味しました。

創 32:21 『あなたの僕ヤコブも私たちの後から参ります。』」ヤコブは贈り物を先に行かせて、エサウをなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく赦してくれるだろうと考えたのである。

兄の顔をまともに見ることが出来なかったヤコブ。兄から赦してもらう前に、ヤコブは、神の顔を見て、取り扱われる必要があったのです。まず神に赦してもらい、祝福してもらう必要があったのです。

その結果、ヤコブエサウと顔を合わせることが出来たのです。

人間関係は、神との関係の鏡のようだと言われますが、まさにそのことをこの記事は現しています。

毎日、神さまのお顔を見ることは大切であります。そこで大切な人間関係の基本が出来るのです。

そのようにするなら、私たちが接する難しい人に対しても、笑顔で接することができるのです。

 

2、御顔の光を求める

 聖書の中には、御顔の光を求める、御顔の光が照らされるという言葉が、しばしば出てきます。

詩篇67:2には、「神が私たちを憐れみ、祝福し、その顔を私たちに輝かせてくださいますように」とあります。

ここには、神様のお顔=神様の祝福と並列に表記されているのです。

同じ事が、民数記6章に出てくる大祭司アロンの祝福の祈りにも見られます。

民 6:24 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

民 6:25 主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

民 6:26 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜わるように。

詩編67:2と同じように、アロンの祝福の祈りにも、御顔の光という言葉と神様の祝福という言葉が並行して述べられている。御顔の光と祝福は交換可能な言葉、同じ意味を持つ言葉として使われているのです。

「御顔の光を照らす」という表現は、簡単に言うと、神様が私たちに微笑みかけて下さることです。神様の笑顔が私たちに向けられている事は、神様から祝福されていることに他なりません。

それは私たちが誰かに笑顔を向けることと同じであります。

私たちは好意を持つ人に対して笑顔を向けます。祝福を笑顔で示すのです。

神様からの笑顔が、私に向けられるように。これが旧約聖書の人々の祈りでした。

それがはっきりと現されているのが、旧約聖書の犠牲でありました。

旧約聖書の犠牲は、肉と小麦です。ステーキの香りです。クッキーやパンが焼ける香りです。

神が献げ物の香をかいで、良いお気持ちになられる。お心が和み、笑顔を人間に向けてくださる。それこそ神様からいただく祝福でありました。

神の民は、そのようにして、神様からの神の好意的な眼差し、ほほえみを感じ取ろうとしたのです。

それが御顔の光を照らしてくださいという祈りであり、願いでありました。

私たちも、日々の祈りの中で、神様のみ顔を求めたいのです。

 

3、神の顔を前に置いて歩む

出エジプトからの説教を。2020年の茅ヶ崎教会の礼拝で語りました。

出 20:3 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。

直訳は、私の顔の前に、他に何も神としてはならない

文語訳聖書では、「汝、わが「かお」の前にわれのほか何ものをも神とすべからず」となっております。

「私をおいてほかに」というのは、私の面(かお)の前でという言葉であります。

旧約学者の関根正雄先生は、「私の面前で、他の神々を持ってはならない」と訳されるのです。

そこには、信仰者がいつも神の御前に立っている。

神の顔の前にいることが、大切な前提となっております。

もう一カ所、神様のお顔が出てくる箇所を紹介します

出 33:14 すると主は言われた。「私自身がともに歩み、あなたに安息を与える。」

2021年の新年の茅ヶ崎教会の礼拝では、この箇所からメッセージを語りました。

出エジプト33章は、モーセが、イスラエルが金の子牛を拝んだ罪の赦しの祈りに引き続き、二度目の執り成しをしている箇所です。

金の子牛を拝んだイスラエルとは一緒に行かないと、神様はご機嫌ななめであり、そのようにおっしゃったのです。それをモーセはなだめるように、必死になって祈ったのです。

そしてその祈りは、顔と顔を合わせての祈りでした。

出 33:11 主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。

そしてついに、モーセの執り成しの祈りに心動かされて、神様がおっしゃったのです。

出エジ 33:14 「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」(協会共同訳)

新改訳2017では、私の臨在が共に行く。新改訳2017の注を見ますと、興味深いコメントが載っています。「臨在」という箇所のコメントです。直訳は「顔」とあるのです。私の顔が一緒に行く。

関根正雄先生は、「私の顔が共に行く」とストレートに訳されるのです。

その顔とは、もちろん、怒った顔ではありません。機嫌の悪い顔ではありません。

にこにこしている笑顔であります。顔と顔を合わせて祈ったモーセが、神様の笑顔を引き出したのです。

神様の笑顔が、私たちと共にある。それがペヌエルから聞き取るメッセージであります。

2022年2月13日の説教要約  「極めてよかった」

2022年2月13日の説教要約

      「極めてよかった」  中道善次牧師

                                        ≪創世記1章26~31節≫

 

 

今日、礼拝で取り上げたいヘブライ語は、トーブです。

聖地イスラエルでは、英語が通じますが、公用語ヘブライ語です。イスラエルに行きましてよく耳にする言葉の一つが、トーブです。

旅行者用に簡単に覚えられるヘブル語の一つが、ボーケル・トーブです。これはおはようございます。英語で言うとグットモーニング、そのグッドに当たる言葉が、トーブであります。

また現地の人が、会話の中でトーブと言っているのを耳にしました。英語で言えば、グッド、うん、それでいいよ。よかった。そのような言葉遣いであります。

 

1、神は満足された

アメリカの神学校で旧約聖書を学んだ時、教授が言っていた言葉を印象深くおぼえております。

神は天地を作られ、人間を作られ、そしてその度におっしゃった言葉がある。それはヘブライ語のトーブ、英語ではgoodであります。それを見てまいりましょう。

創 1:4 神は光を見て良しとされた(トーブ)。  第一の日

  ヘブライ語では、キー トーブ。 日本語の意味は「実に、良かった」

創 1:10 神は乾いたところを地と呼び、水の集まったところを海と呼ばれた。神は見て良しとされた(トーブ)。

創 1:12 地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた(トーブ)。  第三の日

創 1:18 昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた(トーブ)。  第四の日

創 1:21 神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた(トーブ)。  第五の日

創 1:25 神は地の獣とそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた(トーブ)。 第六の日

2日目を除いて、神はご自分が作られたものを見て、「よし」とされた。そこには、美しい、調和がとれている、神が見て満足されたという意味が含まれているのです。

6日目には、動物を造り、最後に人間を作られた。天地創造が完成したのです。そして神はおっしゃったのです。31節で ヒンネー トーブ メオード。 見よ、極めて良かった

英語では、very good、日本語では、とてもよかった。極めてよかった。メオードとは、辞書を見ると、ベリ-、パワー、ハイエスト・ディグリー。この上もなく。最高!

神様が、私たちを見て、とても満足されたのです。

この言葉の中に、神によって造られた人間の祝福の原点があるのです。

神は、人を造ったあと、人を祝福したと28節に書かれています。

ここに人間の原点があるのです。私たちは、神様から褒められて、祝福を受けて造られたのです。その姿は、ベリーグッドなのです。パーフェクトなのです。この上もなく素晴らしいのです。

第一のメッセージとして受け止めていただきたいことは、私たちはとてもよく造られた。ベリーグッドな存在であるのです。

 

 

2、God is good 神は善い方

♪God is so good♪という賛美があります。

他にも、God is good を繰り返す賛美がたくさんあります。日本語では♪主はよい御方♪であります。

では、God is good という言葉は聖書のどこに書かれているのでしょうか?

最初に思い出して、調べた箇所が詩編119:68です。

詩編119:68 あなたは善い方、善いことをなさる方 

ヘブライ語で調べました。トーブという言葉が、ここに2回使われています。

今から24年間、ホーリネス教団から出版された説教集「向こう岸の不思議」の中に、私の説教も一つ掲載させていただきました。証を中心とした説教ですが、説教題を『最善をなさる神』。そして聖書箇所を詩編119:68としました。

メッセージです。

他にもGod is goodが出てくる聖書箇所がたくさんあるのです。

詩編 34:9 The Lord is good  味わい、見よ。主の恵み深さを。

詩編 106:1と107:1 For he is good まことに、主は恵み深い。

詩編 145:9 The Lord is good to all 主はすべてのものに恵み深く

日本語の聖書では、恵み深いという言葉で表現しておりますが、ヘブライ語はトーブであります。

トーブ、神様がよい御方で、私たちによいことをして下さる。それは言葉を換えると、主は私たちにとって恵み深い御方なのです。私たちの人生に美しいことを、素晴らしいことをしてくださるのです。

 次に新約聖書に見られるGod is goodを見てまいりたいと思います。

マルコ10:17~18を見ますと、金持ちの役人がイエス様に永遠の命を得るためには、何をすればいいのでしょうか?と尋ねに来ます。

金持ちの役人は、次のような言葉でイエス様に呼びかけます

マルコ10:17 「善い先生」

その言葉に対して、イエス様はマルコ10:18で次のように言われました。

「なぜ私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。」

ここで使われている『善い』は、アガソスというギリシャ語であります。

私が使うギリシャ語の辞書には、この言葉はヘブライ語に直すとトーブであると書かれています。

ここでイエス様がおっしゃったのは、God is good だったのです。

善い先生と私のことを言うが、よい御方はただ一人、それは神なのだ。イエスはそこで、神が善い御方であり、私を善いと呼ぶなら、私が神であるのだと、金持ちの役人に告げておられるのです。

 

 

3、すべてを益に変える神

善い神様が、いつでも私たちによいことをしてくださる。

このメッセージを準備しているときに、神様が思い出させてくださった聖書の言葉があります。

ローマの信徒への手紙8:28です。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」

私たちの多くが一番心惹かれる「益となる」という言葉ですが、それは自分にとって都合がよい『益』ではないのです。

日本語で「益」と訳されているギリシャ語は、本当は、善と訳すべき言葉であります。ギリシャ語のアガソスです。ヘブライ語のトーブです。

この言葉を書いたのはパウロです。パウロはこの言葉を語っているときに、自分が受けている、また受けてきた迫害のことを思い起こしていただろうといわれるのです。

万事というのは、「どうして自分がこのような目に遭わなければいけないのか」ということが含まれるのです。それは試練であったり、病気であったり。しかし何よりも、迫害でした。クリスチャンになったのに、福音を伝えているのに、どうして迫害を受けるのか?

しかしパウロは続けて語るのです。

神様は、そこから善いことをしてくださる。善いものを作り出してくださる。トーブとは、調和がとれている、美しいこと、あるいは、恵み深いことであると申しました。

自分にとっての利益以上に素晴らしい、神が善いものを作り出して下さる。美しいことをして下さるとパウロはここで告白しているのです。