2018年2月25日の説教要約 「イエスは神殿を清める」

〇2018年2月25日の説教要約 「イエスは神殿を清める」   村岡貞海牧師
ヨハネによる福音書2:13〜25

中心聖句 2:22節 「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、
エスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」

使徒ヨハネ福音書を書いた理由の全ては、「あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」ヨハネ20:31

エスが神様の子であると常に強調しています。イエスの行い、働き、奇跡、言葉が神様であることを証しします。水をぶどう酒に変える奇跡を2章の始めで見ました。小さな町で起きた喜びの奇跡でした。何日か経って、大きな町のエルサレムでイエスの聖(きよ)い、怒りによる奇跡が起こります。


1.過越しの祭りの神殿の中。(13−14節)

13節の過越祭とは 430年のエジプトの奴隷生活から救ってくださった、神様を覚えて感謝の礼拝をする祭りの時を言います。イスラエルの人々が苦しんでいる時、死から命を得た、その日を覚えて行っていました。

それでイスラエルの人々は毎年この時期になるとエルサレムに向かいます。そこにある神殿の中で礼拝をするためです。エルサレムの住民は何十万人ですが、過ぎ越しの祭りの間は、何百万人が集まったと言います。過越祭が近づいたとき、イエスエルサレムに上りました。

14節に「そして牛、羊、鳩を売る者や両替する者などが宮の庭にすわりこんでいるのをごらんになって」と書いてあります。大勢の人々がいて、神殿の外や庭の中で、牛、羊、鳩が売買され、多額のお金を両替しており、群衆の争いを防ぐ為に、ローマ兵が高いところで見降ろして監視している状況でした。
 イエスは神殿で祈り、礼拝をする為に行かれましたが、
神殿の状況は、騒々しく言葉にならない程の嘆かわしい、情ない事が起こっていたのです。なぜこんな事が起きているのでしょうか。

一、一つの原因は神様の配慮して下さった、利便性が、人々の欲へと変わる。

申命記14:24−26 ただし、その道があまりに遠く、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が、非常に遠く離れていて、あなたの神、主があなたを恵まれるとき、それを携えて行くことができないならば、あなたはその物を金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行き、その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。すなわち牛、羊、・・・・・あなたの欲する物に換え、その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。

神様は遠くから礼拝に来る人のために便宜を図って下さいました。遠くから礼拝に参加する人々への、神様の配慮を見ることができます。

ガリラヤ地域やエジプトなど遠い地域の人々が供物を率いて来ることが出来ないので、お金を持ってきて、神様の許された供物を買って、神の前にささげ、家族と一緒に食べ、飲んで喜びなさいと配慮されたのです。神様は人々の力に及ばないことをさせる方ではないのです。

しかしイエス様の当時は、このような利便性が悪用されて、堕落していました。それによって、神様の配慮された喜びが無くなっています。

 その理由は、供え物の動物が、売買人たちによって高値が付けられ、買わされていました。
お金も当時は、三つの通貨が使用されていて、ローマ帝国の経済圏で流通していた通貨は、ローマの銀貨、ギリシャの銀貨、ツロでの銀貨です。この3つのお金が使われていたので、一つの通貨に両替をする必要がありました。神殿祭司たちは両替する者を通して、多額の手数料を受け取って、その仕事をさせました。最初、両替する者は神殿外にいました。ところが、徐々に宮の中まで入ってくるようになったのです。14節のように神殿の中でまで両替する者が座っていたのです。その場面は何を意味するのでしょうか。

気を付けなければ、人は神様の配慮を超えて、自分の欲を出してしまいます。

 例えて言いますと、人は自然に利便性を求めるので、走る人は歩いていたい、歩く人は横になりたい、横になった人は寝ていたいと思うのです。

配慮された利便性でありましたが、人間の心はより一層、快適な事ばかりを求めて、神様の言葉を越えて、自分の考えや思いは神殿の中に、庭に入り込んで行くのです。
貪欲な祭司たちは、神殿の礼拝に来る人の利便性を高め、人々が多く来られると言いますが、それは形だけを繕うとする偽り、欺(あざむ)きでした。

神様と会う時、自分の心の中にある利便性を見つけた場合は、最終的に気をつけないままでいると、信仰と教会が腐敗することになります。
 これが私たちの信仰生活で危険な利便性と便利主義と思います。神様の御言葉を行えなくなります。

二、商売人の目的は利益であるが、神殿は祈りの家です。(15−17節)

大祭司、レビ人たちがいましたが、誰も防げなかった、問題にもしていなかったのです。
 宗教指導者たちは、人々を助けているようにして、利便性を提供していましたが、神殿を清めることは考えてもいませんでした。
 神殿は、神様がその民の祈りを聞き、出会ってくださる場所ですが、神殿で商売する人は、神に礼拝する場所ではなく、金儲けをするところと思っていました。

それによって神殿では、多くの動物たちの鳴き声と、駆け引きする人の騒がしい声が往来していた市場のように、より多くの動物を売って利益を残すのみです。
 サタンがイエスを試みる時も、サタンは神殿の頂上から飛び降りろとしました、私の能力を発揮するための場として、神殿を利用するように要求されたのです。神殿は祈りの家です。神を礼拝するところで、自分の力を発揮する場所にしてはいけないです。

神様の前に、遜(へりくだ)り仕える人々によって、礼拝は神様に向かい捧(ささ)げられます。
 人の自分の賞賛を受けることを、どれだけ減らすことができるか。それが私たちの戦いです。
今、ヨハネ2章の、エルサレムの神殿にいた人の戦いも、それでありました。どれだけ私の利便性を減らし、私の利益を減らし、私の欲を減らすことができるか、イエスは私の父の家、礼拝する家を商売の家としてはいけないと話しました。そしてその汚された神殿を清めました。

エスは多くの人々が喜んで好む利便性の不義にむちを打ちました。

エスはこの世のどんな人より、柔和な方ですが、どんなに良く見せかけても、聖さを踏みつけることには怒りました。15節を見ると「なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、鳩を売る人々に「これらのものを持ってここから出て行け」といっています。続けて、「私の父の家を商売の家とするな」といっています。17節 人々の残す利益より神様にささげる栄光を、熱く愛しておられたので、ダビデ詩篇69篇 「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだからです。」弟子たちは、イエス様の神殿での怒りを見て、この言葉を思い出したのです。
 ダビデの熱心と、イエスの熱心は同一化されました。詩篇69編9節で、「あなたの家を思う熱心が」神様への熱い愛が、あまりにも切実な、唯一つの心を持っていました。

弟子たちは聖霊の導きの中で、この言葉は権威あるイエス・キリストの姿であると悟ります。

そして、悪人たちが神様に向けて行っている、すべての欺きを受けて、わたしを食いつくされると告白しています。18節以降を見ると、私たちもこれが何を意味するのか、わかります。

利益を受けていた神殿の祭司たちは、イエスを敵対して行きます。

2.聖書とイエスの言葉とを信じた。18−22節 

18節で、ユダヤ人たちは、神殿の清めるイエスを見てしるしを見せるようにと要求します。

それは聖書の約束されたメシヤが来られる時は、しるしを見せると言われていたからです。

聖霊の働きは、キリストの言葉だけではなく、旧約の預言も成就され、正しく理解できるようにして下さいます。

マラキ3:1−3 1 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。2 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。3 彼は精錬する者、銀を清める者として座しレビの子らを清め金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。

しかし、しるしを見せるようにと言う神殿の祭司たちは、最も重要なしるしである、イエス・キリストが現れ、行なうことを全く理解できませんでした。

弟子たちも、この時は知りませんでした。

礼拝する為に神殿に来ているのに、イエス様が傍に来られても気が付かないのです。

エスの弟子たちもその時はまだ、理解できませんでした。後に主が復活した後、すべてを理解しました。神殿はあくまでシンボルでした。キリストを指し示すシンボルです。

ヨハネ2:19「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちに、それを起こすであろう。」はイエスの復活を意味します。

弟子たちは、当時は悟ることができませんでした。根拠ないように思えて、その時は理解することが出来ませんでした。時になって、イエスの教えて下さる言葉を聴き、悟り、実を結びます。

わたしたちは今、御言葉が確実に悟れなくても、失望することではないのです。

そして御言葉に気がつかないと、無視することもないと思います。

弟子たちはイエス様が神殿で行ったことを見ました。そして、旧約聖書の預言であることを悟りました。

 その日以降も聖書を通して、イエスのなさったことや教えを続けて聞き、見て、比較していく中で時間が経ち信仰の成長を経験することが出来たのです。

エスが神殿であって、神殿がイエスのしるしであると信じました。

弟子たちはイエス・キリストが復活した後、今も神と民の出会いは、エルサレムの神殿ではなく、イエス様を通してのみ可能であることを悟ったのです。

私たちにも、弟子たちと同じく御言葉を通して、その教えの中で時間が経ち信仰の成長を経験することができます。今も私たちに、神様は驚くべき恵みの道を用意してくださっています。

前で私たちは、イエスがなぜ神殿清めをしなければならなかったのか見ました。

神様の豊かな配慮の線を超えて、人々は利便性と利益中心の信仰は腐敗して、利益を求める手段とします。神殿を46年の間、建設され華やかに見えたが、イエス様を受け入れられませんでした。しかし、イエスが約束どおり神殿に現れて、清められるのを見ました。
また、便利を装った貪欲がどのように神の前に裁きを受けるべきなのかを知りました。
 礼拝を清めたものだけでなく、イエス自身が神殿の子羊として、神殿にささげられ、神殿回復のためにささげられる子羊であるとヨハネ福音書で示しています。
 私たちがどんなに礼拝を捧げていたとしても、イエス様を求めていないなら、イエス様が近く来られても気が付くことが出来ません。

自分の利益だけを求めた者は、イエスの行動を理解することが出来ません。

神殿を清めた神様の怒りのなかにある愛を、正義と慈愛を慕い求める、私たちになることを祈ります。