2018年7月22日の説教要約 「神様の御心」

2018年7月22日の説教要約
「神様の御心」  村岡貞海牧師
ヨハネ第7章14〜24>

中心聖句 16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。

1、神様の御言葉を基準とする。14-16節
仮庵祭についての説明が長くなりましたが、イエス・キリストはその仮庵祭も半ばに達していた頃に、神殿の境内に上って行って、教え始められました(14節)。
そしてそれを聞いていたユダヤ人たちが驚いたというのです。(15節)。
イエス・キリストの教えは、多くの人々を動揺させました。
「どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。この「知っている」というのも、ただ聖書学者たちがよく勉強して「知っている」というのとは、質的に違った何かがありました。 マタイ福音書には、山上の説教と呼ばれる一連のイエス・キリストの教えが記されていますが、その一番最後にマタイはこう記しています。
「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群集はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マタイ7:28〜29)。
この仮庵祭の時も、イエス・キリストは「権威ある者として」お話になったと思います。
イエス・キリストご自身は、その秘密についてこう説明されます。16節
エスはご自分の考えを人々に伝えていたのではなく、自分を送ってくださった、神様の御心を伝えておられました。
律法学者たちも(旧約)聖書の解釈が自分勝手なものにならないように、神様の御心を探るために、一生懸命勉強したと思います。しかし、イエス様のような権威ある教えをする事が出来ませんでした。
彼らは勉強すればするほど、人々を見下していました。多くの教育を受けたエリートのように振る舞っていました。彼らは言葉では正しいことを言いますが、行いはそうではありませんでした。そのため、権威ある教えとなることが出来ませんでした。人間は自分の力では正しい行いが出来ません。ローマ3:23では、次のように言っています。 「すなわち、全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」
エスは彼らに答えて言われた「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」神様の御心は権威ある教えとなります。
それによって、私たちもイエスキリストの教えを基準にするとき、神様の御心を伝えることが出来ます。

2、イエス様は神様の栄光を求める。17-19節
仮庵の祭りの半ばです。イエス様は神殿に集まっている多くの人々にご自分を表しています。「わたしは 神の教えを教えています。 わたしは 神のみこころを行います。 わたしは 神の栄光を求めます。  わたしは 真実で偽りがありません。」 
と ご自分を語っています。
仮庵の祭りは、出エジプトの恵み、荒野の生活での恵みを思い返し、覚えながら、これから来られるイエスキリスト、救い主(メシア)を待ち望む時でした。
今日の御言葉は来るべき救い主(メシア)が、イエスご自身であることを、大勢の人々の前で話しています。仮庵の祭りの間に、毎日読まれる預言の中に示されるメシアが、わたしであると公に示されています。神殿で集まって、毎日読んでいる旧約聖書のメシアはわたしであると話されています。
今、メシアが来られました。命の水となるイエスキリストが永遠に渇くことのない水を与えます。神様のみこころを行っています。
旧約聖書で預言されたメシアが来られました。その預言の言葉をお読みします。
エゼキエル書47章 1 、ゼカリヤ書14章 8 です。
エスキリストは私たちに命の水、渇くことがない水を与えてくださると大きな声で叫びます。ヨハネ7:37祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
自分の栄光を求める律法学者たちのうわべの姿を見ることが出来ます。19節
律法学者は聖書を理解することができずに、イエスキリストの良き行いを非難して裁きます。律法学者は自分の考え、自分の偏見を持って、自分の知識が正しいと思う心を持っています。律法学者はイエス様の働きを理解することも出来ないまま、非難するようになりました。神様の教えを聞かない、神様の御心を思わない、神様の道を行わない姿です。
自分の考え、自分の偏見を持って、自分の知識が正しいと思う心によって、私たちは律法学者たちと同じく、他人の良き行いを理解できず、知らずに裁いたりします。
自分の思いが正しいと信じることで、聖書を正しく理解できず、道を離れることがあります。 イエスキリストが私たちを救う為にこの世に来られました。神様のみこころを教え、示し、行い、恵みを与えて下さっています。
ここで、私は神様のみこころを行うイエスキリストを思いつつ、律法学者たちと同じようにうわべだけの姿を悔い改めていたのかもしれないと思わせられました。
本当に隣の人の救いを喜び、感謝して、行っているのでしょうか。わたしの利益、わたしの判断、わたしの裁きに身を委ねているのではないかと自らを省みましょう。
私たちの心が謙虚になって、自分の過ち、自分の罪を認める時、悔い改める時、神様の救いの働きが始まり神様のみこころを悟るようにしてくださいます。

3、うわべよりイエスキリストの愛に生きる。19-24節
 5章のところで、イエス・キリストは、やはりエルサレムへ来ておられ、エルサレムのベテスダの池のほとりで、38年間病気で苦しんでいた人の病気をいやしてあげました。そしてそれが安息日であったのです。
そのことを取り上げて、ユダヤ人たちはイエス・キリストを非難しておりました。
「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」(5:16)。
イエス・キリストは、そのことで自分が非難されているのを知っておられて、割礼の話を持ち出されました。赤ちゃんが生まれた日が安息日であれば、(安息日であろうとなかろうと、赤ちゃんが生まれるのを止めることはできません)、八日目も安息日になります。ユダヤ人たちは、安息日であっても八日目に割礼を施すことは、きちんと守らなければならないと考えました(レビ記12:2〜3)。彼らは安息日にも、大きな仕事をしていたわけです。
彼らは、いずれにしろ安息日より優先する事柄を設けていました。
主イエスはそのことを前提にしながら、こう語られます。
モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか」(23節)。
 「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」(24節)。
これは、そこに「愛」があるかどうかということであるように思います。
イエス・キリストは字面を重んじることで、主客転倒が起こること、律法を大事にしているようであって、御心から逸れていく可能性を指摘されたのです。
 17〜18節に記されていることも、よくわかる気がいたします。
「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」。
自分の栄光を求めるか、神様の栄光を求めるか。
一見、神様に栄光を帰しているように見えながら、巧みに自分自身の栄光を求めているということが、しばしばあるのではないでしょうか。
エス様が、字面ではなく本質、うわべではなく愛に基づいて、行動なさったことを見ることが出来ます。私たち自身も御心を行う者になっていきたいと思います。
神は私たちの中心を見ています。イエスは、私たちの中心をすべてご存じです。
だから表面的なことを考えて仕事をするのではなく、心をこめて仕事することが大切です。神は愛です。神様の救いの御業を喜び、感謝して歩む日々を祈ります。