2018年9月9日の説教要約 「栄光の中のキリスト」

2018年9月9日の説教要約
  「栄光の中のキリスト」    中道由子牧師
≪イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。≫              マタイ福音書17章1~8節



人が皆同じように感じることができる神の「栄光」は、自然界を通して現される神の栄光です。自然界の美しさ、偉大さに触れるとき、人は神を思います。神は天地、自然界をも造り、ご自身の栄光を現しておられます。

1、救いの歴史に現れる神の栄光
 救いの歴史に現れる神の栄光の出発点は旧約聖書出エジプトです。
神は指導者モーセを立てて、イスラエルの民を奴隷の地エジプトから解放します。神はモーセシナイ山十戒を授け、そのあと神が住まわれる所、幕屋を建てさせるのです。神が住まわれる幕屋には、いつも聖なる神の臨在がありました。
 出エジプト40章34,35節「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。」
モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」
 荒野を40年間旅したイスラエルの民にとって幕屋はなくてはならない、神と出会う場所でした。幕屋で罪が赦され、幕屋に入ると神が行われたすべてのことを、感謝する気持ちになります。そこで、感謝の献げ物をし、神を礼拝し、賛美するのです。
 イスラエルの民は、旅の間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立ちました。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかったのです。昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていました。神の臨在があるところに、神の栄光がある。指導者モーセはこの栄光の雲を大切にし、自分の考えや自分の願いで動くことはしませんでした。
主の臨在がないところに自分勝手に動いていっても祝福がありません。主の臨在について行くとき、主は私たちにとって一番良いことをして下さいますし、その人生は主の栄光を現すことが出来るのです。
 次に旧約聖書で神の栄光が現れたのは、ソロモンによって神殿が完成し、契約の箱が神殿に置かれた時です。
列王記上8章10、11節「祭司たちが聖所を出ると、雲が主の神殿に満ちた。
その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。
主の栄光が主の神殿に満ちたからである。」 
 神は、ご自身の民の中にその栄光を現すことを願っておられます。
今日でも栄光の主は目には見えませんが、私たちの礼拝の場におられます。


2、イエス受肉における神の栄光
 ヨハネ福音書1章1節「初めに、言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
ここで言はイエス・キリストご自身です。そして、天地創造の最初から神と共におられたイエス・キリストは、17章で、弟子たちにご自身の本当の姿を現します。16章において主は十字架の予告をします。それを聞いて失望し、恐れる弟子たちに十字架の道は勝利であり、栄光に向かう道であることを示されます。
主は、ペトロ、ヤコブヨハネの3人を連れて高い山に登って行かれます。そこでイエス様の姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなったのです。主が変貌された。スーパーマンは誰だかわからないように変身します。ところが、目の前でイエス様の姿が変わったのです。弟子たちはどんなに驚いたことでしょうか?弟子たちはイエス様の正体を見たのです。それは受肉前の神の子の姿でした。神の子が本来持っている「輝きを放つ栄光」に包まれていました。
ヘブライ人への手紙1章3節「御子は、神の栄光の反映であり、」
新訳聖書では神の栄光が、イエス様を通して現されます。
ヨハネによる福音書1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」
ここで、「宿られる」という言葉は、あの旧約で使われた「幕屋を張った」というのと同じ意味だそうです。つまり、イエス様は肉体を幕屋とされて、神の御臨在を現し、神の栄光を現されたのです。私たち日本人と違ってパレスチナの人々は、テントを張って生活し、テントの中で仮住まいをしました。イエス様が私たちと同じ肉体をとって人間の世界に来られたというのは、ちょうど私たちがテントを張って、その中で生活をするように、イエス様は肉体という天幕を張って私たちの間においでになったのです。天のみくらを捨てて、その栄光を捨てておいでになって下さったのです。
その真理がまだわからないペトロでした。栄光の主のお姿を目にしたペトロは驚き混乱して、「ここに仮小屋を建てましょう。」と言い出すのです。テントのことです。なんのために、どうしてこんな時に小屋を、テントを建てるのでしょうか。ペトロにしてみれば、十字架予告なんて止めて、この素晴らしい栄光の中にずっと住みましょうよ、そのためにここに小屋を建てます、ということだったかもしれません。
この輝きを放つ栄光を「シェキーナ」と表現します。神ご自身がそこに住んで輝いているという意味です。肉体を宿して私たちの元に来て下さったイエスというお方は、普通の人間や存在とはちがって、神ご自身が持っているシェキーナ、輝きでご自分の生涯を全うされました。心開かれた人がイエスを見ますと、普通の人ではなく、あのイエス・キリストにおいて神の栄光が現されたと知るのです。イエス様を信じて救われると、イエス・キリストがただの偉人ではないことが分かります。
ペトロの第一手紙1章8節「あなたがたは、イエス・キリストを見たことがないのに、愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
今イエス様は私たちの目には見えません。でも礼拝の場におられるとわかっています。
それゆえ、私たちは賛美を献げ、このお方を礼拝するのです。
そして、主は私たちの賛美を住まいとしてくださいます。
詩篇22篇3節にこのようなみ言葉があります。「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
私たちの賛美をテントとして住んで下さる、喜んで下さる、愛して下さるのです。
 
3、イエスの十字架における神の栄光
 変貌山でイエス様のお姿が栄光の姿に変わったとき、現れた人たちがいます。
3節「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」
モーセは、神から律法を付与された人物であり、エリヤは預言者を代表する、回復の預言者でした。マタイによる福音書の中心は、律法と預言の成就です。
マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
律法と預言を完成する、その話し合いのために3人は集まったのです。そのために何をするのかと言えば、ルカによる福音書の並行記事にはこのように書かれています。
ルカ9章31節「二人は栄光に包まれ現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」
「イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期」についてです。
 英語の聖書では”his departure ,which he was accomplished at Jerusalem.”
「彼がエルサレムで成し遂げる出発」となっています。
その十字架に向かっていく時、イエス様とモーセとエリヤは救いの成就を語りあったのです。世の人々には敗北のように見える十字架。この十字架を通して、神の栄光が最高に現されたのです。雲の中から声が聞こえました。5節「これは私の愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」と。これは詩篇2篇の「王の即位の歌」あり、イザヤ42章1節の「苦難の僕の歌」にも出てきます。新訳聖書ではイエス様が洗礼をお受けになったとき、天から聞こえた神の声もまた、同じ言葉でした。「わたしの心に適う者」、これは神様のお気に入りということでしょう。わたしの喜びだと神様がおっしゃった。この主に従うように弟子たちに命じられます。この栄光を見せて下さったのは、イエスの十字架の死にも弟子たちが絶望せず、復活の主を望み見ることができるためです。ペトロは、この変貌山の出来事を決して忘れませんでした。
ペトロ第二の手紙1章16節で、主が再びおいでになる、再臨の主を待ち望む希望を書いています。現実は厳しいかも知れません。でもわたしたちは、恐れることなく、栄光の主を賛美し、待ち望みましょう。
最後に、栄光の姿を弟子たちに示された主が、怖がっている弟子たちに近づいて、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない。」と言われた。神の子として高い座に座して、「立て。」と言われたのではなく、主は私たちに近づき、身をかがめて手を置いて下さる。それが私たちが信じ、お慕いしている栄光の主であります。