2019年3月10日の説教要約
「愛の香り」 中道由子牧師
≪はっきり言っておく。世界中のどこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人がしたことも記念として語り伝えられるだろう。≫
(マタイによる福音書26章1~16節)
イエス様の時代、香油は何に使われていたのでしょうか?
ナルドの香油は、少しカビ臭い香りが、死の旅路に向かう人への手向けに使用され、亡くなる人、亡くなった方に塗られていたそうです。ですから、香りも強かったそうです。
ベタニヤ村の女性が十字架を目前にしたイエス様に注いだのは、このナルドから取れる香油です。
1、イエスを殺そうとする人々 2、イエスの埋葬の用意をする女
3、イエスを裏切ろうとするユダ
1、 イエスを殺そうとする人々
1節に「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」とあります。
イエス様は、地上で語らなければならなかったことを全部お語りになった。語ることは終わった、完成したのです。あとは、十字架につけられるということだけが残ったのです。
ですから、弟子たちに2節で「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は十字架につけられるために引き渡される。」とおっしゃいました。二日後の過越祭には、自分は人類のための贖いのいけにえになるという計画を語られます。
その過越の日のあとに、種入れぬパンの祭りというのが続きます。除酵祭とも言います。
これもやはり、出エジプトの時にパン種を入れないパンを、ユダヤの人々が神の命令で作って食べて脱出したところからきています。
5節に「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と祭司長、民の長老、大祭司カイアファはイエスを殺す計画を立てます。
種入れぬパンの祭りが終わるまで、8日から一週間はかかるのです。祭りの間は、たくさんの人々が集まる、少なくとも200万人くらいの人が集まるそうです。そんな大勢の人が集まる時にとんでもない騒動が起こったら、自分たちはその騒動の責任を問われるかもしれない。民衆が帰ってしまってから落ち着いた時にイエスをひそかに捕えて殺そうと考えたのです。
しかし、イエスは、「二日後には過越の祭りになるが、その時人の子は十字架につけられるために、引き渡される」と言われた。当時の指導者たちの企てに逆らうように、二日後に私は引き渡される、と言われたのです。予言の通りであります。
この「引き渡される」はギリシャ語では「裏切られる」とも訳せる言葉だそうです。
二日のちには、ユダに裏切られ、弟子たちにも裏切られると予告なさったのです。
祭司長や民の長老たちの企てによらず、神の計画によってです。
そのきっかけになったのが、ご自分の弟子ユダの裏切りでした。
なぜこの時にユダの裏切りが起こったのか?
ユダが裏切りをする引き金となったのが、ひとりの女性がイエス様に自分の持っている香油を全部注ぎだしてしまうという出来事だったのです。
しかも、イエス様の死は、民衆の騒動になってしまうほどの大混乱にはならなかった。
やった、うまくいった!という思いを抱きつつ、イエス様を処刑できたのです。
神は、思いもかけない出来事を用いて、すべてのことを働かせて益としてくださるのです。
2、 イエスの埋葬を用意する女
エルサレムからわずかに離れたベタニヤは、イエス様にとっては本当に心の休まる憩いの場でありました。
イエス様が重い皮膚病に侵され、癒されたシモンの家に入られた、とあります。
彼は、イエス様によって病が癒されて、今はイエス様をもてなすことを喜びとしていたのでしょう。シモンの家を主は、地上の生涯の最後の静かなひとときを過ごすための宿となさったのです。
そこに、一人の女性が高価な香油を持ってきて、イエス様の頭に注ぎかけたのです。
この香油はマルコ14章5節によると、300デナリ以上に売れる高価なものでした。
弟子たちは、この香油の価値を知っていたので、もったいないと言って憤慨しました。
その香油を売って貧しい人々に施した方がよかったと。
ヨハネによる福音書12章の平行記事ではここを、ベタニヤのマリヤとはっきり名前を記しています。この女マリヤが、イエス様に注いだ香油は、当時の労働者の一年分の賃金に相当します。ヨハネによる福音書11章で弟ラザロが生き返ります。マリヤは、主がどんなに自分たちを愛してくださっているか身に染みてわかっていました。両親を失っている三人兄弟にとっては両親の遺産のような、まさに全財産でありました。また、このナルドの香油は、結婚資金にもなるものでありました。それを惜しげもなく捧げたのです。
おそらく石膏の壷の首の部分が細いのでそこを割って壷の中の香油を全部注いだのです。
家中が、この良き香りでいっぱいになりました。
イエス様は、この女性は立派なことをしたのだとほめておられる。
主は決して貧しい人に施しをしなくてもいい、とは言われません。それは、必要で価値がある。でも、今でなくても別の機会がある。しかし、イエス様に、油を注ぐのは、この機会を逃したら二度と来ないのです。ユダヤにおいては、死者を埋葬する時には、死体に香油を塗る習慣がありました。彼女は、イエス様の死を察していたのでしょうか?聖書にはそれは書かれていません。ただ、彼女は、その時を捉えたのです。
コヘレトの言葉3章1節(口語訳)「すべてのわざには時がある。」のです。
弟子たちはその「時」に気づいてなかった。だからいつでもできる施しのことを出して、この女性をとがめるのです。この女性は数日後に迫っていたイエス様の死のために、打算を超えた純粋な献身のわざを決行しました。
かゆい所に手が届く、といいますが、今主がしてほしいこと、主が最も望んでいたことをこの女性は行ったのです。
この女性は、愛の行為として、イエス様の葬りの準備をしたのに、宗教指導者たちは、この香油注ぎを、メシヤとしての油注ぎと誤解してしまった。もう待ってはおれないと、イエス殺害に及んだのです。人の計画はならず、神の預言通りになっていきます。
3、 イエスを裏切ろうとするユダ
この女性が、こんな無駄使いをしなければ、ユダがこの時主を裏切ることを決行しなかった、この女性の愛の行為が、ユダにとっては引き金となってしまったのです。
ああ、もったいない!ユダにとっては、カチンとくる出来事になったわけです。
この女性が300デナリの香油を割って、主の頭から注いだのに対し、ユダは銀貨30枚120デナリ、たった4カ月の労賃で主イエス様を祭司長に売り渡してしまうのです。
そして、その時を狙うようになります。
あのことさえなければ、あの人のあの一言がなければ、と私たちは悲惨なことが起こると思ってしまいます。
でも、ユダがイエス様を引き渡したのは、この女性のせいでしょうか?
もともとユダの中にあった罪です。ユダは、お金に弱かった。弟子の中でお金を任されていた人でした。
私は8節のみ言葉を読むと腑に落ちない気持ちになります。
「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。(もちろんユダも入っているでしょう)
『なぜ、こんな無駄使いをするのか。』」
弟子たちのものであれば、弟子の誰かが無駄な使い方をしたら、言うかもしれません。
でも、誰のものでもない、この女性の香油です。この女性マリヤの家族のマルタやラザロが文句を言うのならまだわかりますが、何の権利があって憤慨するのでしょう。
香油はわずかだけ注ぐものですが、彼女は全部ぶちまけるほど主に注ぎました。
もしこの女性の行為が、主が亡くなってからなされたなら、主の遺体に注いだなら、彼女をとがめる弟子はいなかったでしょう。その人が死んでからするよりも、生きているときにそうする方がどんなによいか。
弟子たちには無駄に見えたかもしれない。しかし、主の十字架の死の価値に比べると、小さなものでしょう。
主が十字架で流された血潮は、ユダのためにも流されました。もし、悔い改めれば、彼でさえ、その血のゆえに赦されたに違いありません。その尊い血をユダは無駄にしたのです。