2019年4月14日の説教要約
「イエスの行かれた道」 村岡貞海牧師
受難週となりました。この一週間は受難を受けるイエスの行かれた道をたどり思う時です。十字架の重さと痛みを通して与えられた救いに感謝と喜びの時を持ちたいと思います。
ヴィア・ドロローサと言う言葉を聞いたことがありますか、ヴィアとは道と言う意味で、ドロローサ悲しみと言う意味です。それで悲しみの道と言います。イエス様が十字架を背負い行かれた道をヴィア・ドロローサと呼んでいます。
ヨハネによる福音書18章からはイエスの受難のことが書かれています。
キドロンの園で祈り終わると、一部隊の兵士と祭司長たちとファリサイ派の人々によって、捕らえられて、アンナスの所に連れられて行きます。その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからです。そこでイエスを殺すことを決意されました。しかし裁判による死刑をくだせるのは、ローマの裁判でのみ赦されることでしたので、ローマの総督であるピラトの所、すなわち総督管邸に連れて行きました。
あり得ない裁判が行われていきます。その時間は早朝3時から6時頃です。
騒ぎ立てて集まる人々はイエスを死刑にするようにと叫び続けていました。
判決を下すことが出来るのはローマ総督ピラトです。ピラトはイエスに質問します。そして、イエスは神の国の話を、ご自身がユダヤの王として生まれ、神の子として来られ、真理について証しをするために生まれたと話します。
ローマ総督のピラトとイエスの会話が続きます。
ローマ総督ピラトはその国で起こっていることを知って治めなければなりません。
イエスのことを調べると38年間病んでいた人を癒したり、海を歩いたり、5000人に食事を与えたり、死んだラザロを生き返らせた、不思議な力を持っていて、多くの人々が支持して従っていました。
それは政治的な圧力になる可能性があることですから、ピラトはイエスを恐れていました。
それで、イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と質問したのです。
ヨハネ18章33節のピラトの質問に、34節でイエスは答えます。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
ピラトはイエスについて知りたいとは思いませんでした。彼に関心があったのは、政治的な自分の地位を保つ事ばかり気にしています。
イエスはそれで「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と質問したのです。
ピラトは言い返しました。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」(35節)
イエスが目の前にいて、イエスのことを知っていましたが、イエスと会話をしていても、真理について何も感じないのです。自分の地位を守ること以外は関心がありませんでした。
そんな中でも、ピラトはイエスには罪が無いと3回も無罪を宣言します。
次に、何故人々はそれを無視して十字架につけろ、と叫んでいたのでしょうか。原因を考えて見ます。
その1)人の本質的な罪の故です。人には神様から背き、イエスを迫害し、十字架につけようとする罪の本質があります。私たちは神様を喜んで信じることが出来ない罪びとです。
その2)彼らは間違っている宗教心を持っていました。律法の犠牲者でした。それは間違った正義感を持つことになります。私たちの正義感は正しいのでしょうか?
その3)衝突的な大衆心理があったからです。正しいのか間違っているのかを考えずに、現代には皆やっているからといじめは起こったりします。論理的な思考ができず、イエスを十字架につけろ、と叫んでいます。
ピラトとイエスの対話に戻ります。
36節 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
37節 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
イエスは「わたしの国=真理」について話しされます。ピラトが考えている祝福と権力は、イエスが考えている祝福と権力とは違います。この二つの考えの狭間にいれば、絶えない葛藤が生じます。
イエスキリストの祝福が私たちの祝福となることを祈ります。
次に、この道(ヴィア・ドロローサ)をイエスの十字架を共に背負わされ歩いたクレネ人シモンに注目したいのです。シモンの家族が変えられて行きます。(マルコ福音書15章21節)
リビングライフのエッセイに書いてあった話を紹介します。
「四国で集会を開き、十字架行進をしている時に、ある牧師が息子のことで心配して暗い顔をしていたそうです。集会にその息子である青年を集会に誘いました。集会に参加した青年は暫く十字架を見つめていたそうです。
十字架を背負ってもいいですかと青年が申し出ていて、30キロ歩いた時に彼は泣き出して、歩き続けて最後の祈りの時間に証したそうです。ぼくは今までイエス様が僕のために負われた十字架がこんなに重いとは知りませんでした。これは断とうとしても断ち切れない僕の罪の重さだと思います。十字架で僕が払うべき罪の対価をイエス様が払い、罪の問題を解決してくださったのです。と話したそうです。」