2019年4月28日の説教要約 「復活の証人として」

2019428日の説教要約

     「復活の証人として」    中道由子牧師

 

≪それから、イエスは言われた、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」≫   (マルコによる福音書16章9~20節)

 

説教のポイント

1、          復活を伝える 2、復活を信じる、3、信じた者の使命

 

1、          復活を伝える

1)     マグダラのマリヤ

ガリラヤ湖の西のマグダラの出身、家は町の人々も知る良家で、彼女は資産も持っていたとある書物には書かれています。だから、イエス様のお世話が出来たのだと思います。

この女性がどんな7つの悪霊をもっていたか、はあまり書かれていません。ひとつには、これは神経系の病気であったとも言われています。そうであれば、いまでも精神や神経を患っている人は多いですし、すっきり簡単に治る病でもありません。当時の人々は目に見えない悪霊が存在していて、それが人の精神を乱したり、病気を起こすのだと信じていました。イエス様にこの悪霊たちを追い出していただいたマリヤは感謝にあふれ、自分と同じように病気を癒やされた女性たちと一緒に主と弟子たちに奉仕しました。彼女には人と生きていく協調性があり、リーダーとしての賜物が備えられていた人と考えられます。

かつてはゆう鬱な病人でしたが、イエス様に出会って見違えるように晴れ晴れと健康で、有能な女性になったのです。イエス様によって変えられたのです。彼女は感謝にあふれ、我が身と資産とを献げて、主に仕える物になりました。彼女の奉仕はイエス様の評判が悪くても、いえ、悪くなれば一層心を込めて仕えたのです。イエス様が着ておられた縫い目のない見事な衣は、マグダラのマリヤの配慮による物かと感じられます。

弟子たちでさえも、イエス様は支配国ローマから自分たちを解放してくれる救い主かもしれないと思っていました。だから、十字架上で主が無残な死に方をされた時、がっかりしたのです、失望したのです。しかし、マグダラのマリヤにとっては、主がお亡くなりになっても全く変わらない、彼女の人生を暗黒から光へ救って下さった救い主に変わりはなかったのです。彼女の中には全く打算がなかった。本当の魂の救いを経験していたのです。

 主が墓に葬られたのは、受難日の夕刻、あるいは夜でした。マグダラのマリヤは他の女性とこれを見届けて、一週の最初の日朝早く主の墓に行きました。ヨハネによる福音書では主は彼女に個人的に会っておられます。主の亡骸が盗まれたと思って泣いている彼女に、主は「マリヤ」とお声をかけておられます。復活のイエス様からお声をかけていただけるなんて羨ましいですね。私たちも、個人的にお声をかけていただくことがないでしょうか?

 

2)クレオパと妻

ルカによる福音書では、エマオに行く道で、二人が話をしているところに途中からイエス様が加わってくる形です。12弟子ではないが、彼らも弟子の中に入っていた人たちで、クレオパという夫婦ではなかったかと言われています。エマオの村で、何らかの形でイエス様を知るようになり、イエス様の言葉に心引かれるようになった。過ぎ越の祭りの時、おそらく深い期待を抱いてイエス様にお会いするためにエルサレムに行ったのです。そして、おもいがけなく、イエス様の死に出会ってしまった。しかも、それだけではなく、イエス様が、蘇りになられたことを聞いて、自分たちの村に帰っていく途中でした。

エス様を慕っていたに違いない、この夫婦が、自分の村に帰って行く時には、

ルカによる福音書24章17節「二人は暗い顔をして」いたのです。

二人が「イエスという御方が十字架にかかって死なれたけれど、蘇られたらしい」、という話をしている途中に、イエス様も一緒に加わっていた、っておもしろい情景です。しかも主は「わたしのことを話しているのかね。」とも言わないで、

17節で「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」と彼らに尋ねるのです。そして、二人は「エルサレムに滞在していたのに、この数日そこで起こったことを、

あなたは知らないんですか。」とイエス様に向かって言う、主は、「どんなことですか。」

そんな会話をしながら、歩きながら、27節「モーセとすべての預言者からはじめて、全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明してくれた」のです。

その話がおもしろかったのでしょうね。エマオに近づいて「一緒にお泊まりください。」とイエス様を無理に引き留めた、そして、食事をしようとして、イエス様が賛美してお祈りして、パンを割かれたら、急に二人の霊の目が開けて、あーイエス様だとわかったんです。分かったとたんに主の姿は、消えていなくなってしまった。

彼らは、急いで出発をしてエルサレムに行き、弟子たちに知らせたのです。

どうして、彼らをしてそうさせたか、彼らが復活のイエス様に出会ったからでしょう。

しかし、それ以上にルカによる福音書24章32節「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

もう暗い、悲しい顔ではない、聖書の言葉がただの言葉ではなく、自分の中で生きた希望の言葉となり、心が燃やされていく、という経験が皆さんにもないでしょうか。

それは、人を変えるのです。静かだけれども、穏やかに、いつまでも燃えている火を心にともしてくれるのです。

 

弟子たちは、マグダラのマリヤから、クレオパとその妻から主の復活の事実を聞いて信じたでしょうか?

 

2、復活を信じる

11節、13節「信じなかった。」と書かれています。

エス様は11人の弟子たちが人の言葉を聞いて、主の復活を信じるようになることを願われていました。彼らの心がかたくなで、硬い石のようで、人の言葉を信じることが出来なくなっていました。主はそのかたくなな心をおとがめになった、と書かれています。

主がお叱りになったのです。ヨハネによる福音書20章29節ではトマスに対して、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われた。

信仰が目で見ることに左右されるなら、それはまことの信仰ではありません。信仰は御言葉への信頼であります。私たちも皆、主を見て信じたわけではありません。しかし、御言葉が私たちの魂を救う、救いに導く力を持っています。この生ける御言葉を宣べ伝える使命を弟子たちに与えようとする時、復活を伝えてくれたその人の言葉を信じられない、としたら致命的です。だから、主はお叱りになった。

ヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

そして、この信仰がなければ神に喜ばれることがないのです。

頭で納得して信じるタイプの人もいます。けれど、信仰は見えない神様を信じ、御言葉にかけていく人生なのです。

 

3、信じた者の使命

 信じた者にはすべきことがあります。

15節「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」です。

エルサレムから始まったこの福音、主の業が全世界へと伝えられなければならない。そのために弟子たちは遣わされて行ったのです。信じてバプテスマを受ける者は救われる。この恵みに預かる方々が次々に起こされていくように祈りましょう。

信じない者は滅びの宣告を受ける、とはまことに厳しい言葉です。しかし、弟子たち自身が信じられない者たちでした。ですから、この御言葉を語るごとに、信じて主の者となることこそ幸いであることを語るのです。

彼らは聖霊を受けて、文字通り悪霊を追い出し、新しい言葉を語るようになりました。蛇をつかんだり、毒を飲んでも何も起こらなかった。病人に手を置けば治る。私たちも神癒を信じております。今でも奇跡は起こります。

神様は医者や薬を用いられます。同時に神ご自身の癒しも約束されています。

聖霊を受けた弟子たちは出かけていって、至る所で宣教しました。

でも、彼らは自分の力で頑張らなくても良かったのです。

エス様は、天に上げられました。今神の右の座に着いて、私たちのために執り成してくださいます。そして、共に働いてくださる。弟子たちが語る言葉が、私たちが語る言葉が、本当に真実であることを私たちの生活を通して明らかにしてくださるのです。