2019年5月5日の説教要約
「わたしにしてくれたこと」 中道由子牧師
≪そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一
人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」≫
(マタイによる福音書25章31~46節)
1、 イエスに対する愛の業
今日のこの個所はタラントンのお話のすぐ後に位置しています。
つまり主がいらっしゃる時、再臨の時のことを語っているのです。
31節「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」
32節「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」と書かれています。
羊と山羊はよく似ていているので、普通、同じ群れの中に混じり合っていました。
しかし、必要な場合には、羊飼いは両者をより分ける。
世の終わりには、イエス様が裁きの座について、ある者を右に、ある者を左に、より分けると書かれています。
羊と山羊をより分ける基準となったのは、「イエスに対して行った愛の業」でありました。
神の国を継ぐ者として選ばれたのは、イエスが空腹であった時に食べ物を与え、渇いた時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、裸の時に着物を与え、病気であった時に見舞い、牢にいたときに訪問した、その人だと言います。けれど、イエス様にそう言われても、選ばれたものは少しもそれに気づかなかった。
「イエス様にそんな愛の業をしたかしら?」
愛の業をなす人の特徴は、自分のした愛の業を覚えていないことです。ですから、自分はこれだけのことをあの人たちにしてあげたのだ、と誇ることすらしない、できないのです、忘れているのですから。
皆さんにとっても忘れることができない有難いことが、きっとあると思います。
旧約聖書の創世記18章でアブラハムが知らずにもてなした三人の旅人がいました。
実はその人たちは、主と主の使いであったという出来事が書かれています。
その後、アブラハムは主から、妻のサラから男の子が生まれると告げられるのです。
アブラハムになさったように、主は良い知らせを伝えに来てくださった、ということがあるかもしれません。それなのに、通り過ぎてしまったとすれば、それほど残念なことはありません。この主が送って下さる最も小さい者とは誰でしょう。
2、 最も小さい者とは
トルストイの「靴屋のマルチン」の絵本の中に、「貧しい人 力のない人 病気の人や 家のない人の中にわたしは います。」という主の言葉が出てきます。それを読むと、もし主がわたしの所に送られてきたのに、もてなさなかったらどうしよう、と思ったりします。
かと言って私たちは一生の間に、たくさんの困った人に会います。通りを歩いても会うわけです。全員を助けるわけにもいきません。主は、私たちが神経質になって、やたら愛の大サービスをして、疲れ果ててしまうことを願っておられません。
誰に対して、という時、私たちは直接主に対してなら、万難を排してでも奉仕するでしょう。たとえば、イエス様が私たちの目の前に現れて、空腹なのでなにか食べさせてほしいと言ったら、自分の食べる分を減らしてでもイエス様に与えるでしょう。しかし、私たちと同じような兄弟、それも「最も小さい者」、取るに足りない、価値を認められないものに頼まれたらそうするでしょうか?
私たちはこの小さい者によくしてあげる私は、どこかで決して小さくはないと思ってはいないでしょうか。教会に来られる方の中で、問題を抱えておられる方がいます。大体の方は、その問題を牧師に話したり、祈ってもらったりします。しかし、自分が問題を抱えていることがみえないで、人の世話をすることに没頭する人がいます。牧師にとっては大変助かりますし、そのような方を頼りにもします。しかし、その方に取り扱われなければならない問題があり、癒されるべき傷があるゆえにいつも人のことに心を遣っている方がいます。自分の問題に直面したくない、できない。その方にとっては、自分が世話をしている人は、主が言われる「最も小さい者」です。が、自分自身が世話をされる「この最も小さい者」であることに気づいていない。私たちは、自分を大きな人物とは思わないにしても、人から世話されなければならない最も小さい者とは、なかなか認められないのです。
まあ、中くらい、人並みな方だ、自分でやっていける、と思っているふしがあります。
試練に会い、兄弟姉妹の祈りを身近に感じ自分が最も小さい者であることを知る。病気になって、人々からの愛を受けて自分が最も小さい者であることを知る、これは決して惨めなことではなく、神が与える恵みなのです。
マタイによる福音書10章42節「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
この小さい者は、弟子たちであり、主を信じている私たちなのです。
3、 与える幸い
ここでイエス様は、それほど多くを私たちに与えながら、ただそれを受けなさいとだけ言っておられない。主は、
使徒言行録20章35節「受けるより与える方が幸いである。」と言われました。
大きな賜物を私たちにお与えになりながら、ただ受けることだけに生きるのではなくて、むしろ、与えることに生きなさいと。
「少年H」という映画を見たことがあります。妹尾河童の自伝的小説が元になっています。当時の名前は「肇」だったので、セーターに書いてあったイニシャルから取ってあります。
父親は洋服の仕立て職人で、母親が熱心なクリスチャンです。戦争が始まって、その中、父親は、ナチス、ドイツから追われて日本に来ているユダヤ人たちの服を洗い、作り直してあげました。ユダヤ人たちがアフリカのケープタウンに出航していくのを見送ります。また、戦後貧しい中、倒れている人や隣の家が貧しいと、母親は田舎からの大切な白米のご飯をあげてしまいます。隣の家からは毎日のようにご飯を子供がもらいに来ます。肇少年が母親に「いい加減にせーよ。こんなんしてたらきりがないやん。」とあきれて抗議をすると、クリスチャンの母親は、「主は言われた、『受けるよりは与える方が幸いである』」この言葉を唱えながらご飯をあげます。
私たちは、どうでしょうか?与えることを喜びとしているでしょうか?
今年の教団年会に基督兄弟団の先生が年会講演で話してくださいました。
自分たちの教会のことだけを考えるのではなく、周りの教会を助けましょう、と。
奏楽者がいなくて、ヒムプレーヤを使っている教会を知って、自分の教会の奏楽者を送ったそうです。やがてその人がその教会に重荷を持ち、「転会させてください。」と願いを出され送り出されたそうです。送り出した教会には、また人が与えられます、と。
受けるより与える方が幸いな生き方を私たちの教会も、私たち自身も目指していこうではありませんか。