2019年7月7日の説教要約
「みなが一つになるために」 中道由子牧師
≪同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。≫ (フィリピの信徒への手紙2章1~11節)
1、 一つの心で
パウロとフィリピ教会の信徒たちは、離れていても主イエスの聖霊なる神によって一つとされています。一緒に苦難を乗り越えています。
しかし、フィリピ教会の内情はなかなかむずかしかったのです。
3節、4節にはなかなか一致できない理由が書かれています。
私たちは、教会という箱舟の中で、みなで人生を分かち合い、主のために教会を建て上げていきます。そんな中で、主のために仕えて生きているのにどうしても気があわない人に出くわしたりします。
フィリピ4章2節「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」
この二人の女性はどうやらフィリピ教会の中でリーダーであったようです。
しかし、うまく協力できなかったことがわかります。パウロにとっては、大切な女性信徒であり、二人は本当に主のために一生懸命仕えていました。
熱心な二人の熱心さが不一致を産んだのです。自分の熱心が主の熱心と同じではないのです。パウロは教会がここまで成長してきたことを喜びながらも、二人に自分の姿に気づいてほしい、学んでほしいことがあると願っています。
一致できない理由は何でしょうか?
3節によると「利己心」と「虚栄」です。
「利己心」は、新改訳では「自己中心」となっています。
私が愛読していますシスター鈴木秀子先生の「逆風の時こそ高く飛べる」という本があります。
「ある日本人シスターがイタリア・ローマのカトリック教会に『黙想の行』のために赴きました。ところが、ローマに着くと、暴走族の群れがものすごい爆音をまき散らしながら、街の静けさと平和を打ち破っています。『明日から沈黙の行があるというのに・・・』シスターは眉をひそめました。『こんなにうるさいんじゃ、修行なんてできないわ』すると、
スペインからきたシスターが、こんなことを口にしました。『でも、あの暴走族のリーダーがあなたの弟だったらどう思います?』それを聞いた日本人シスターは、ハッと思いました、『沈黙の行に入る自分が正しく、うるさい暴走族は悪い』。そう決めつけている自分に気がついたのです。
同じような経験をわたしもしています。わたしが暮らす修道院は地下鉄の駅に近く、ある時真夜中に地下鉄工事が始まりました。深夜に目を覚ましてしまうほどの雑音です。わたしはつい、不満を漏らしてしまいました。『昨夜はうるさかったよね、おかげで眠れなかったわ。』そうしたら、シスターの一人がこう言います。『あの人たちはみんなが寝静まる真夜中に地下に潜って仕事してるのよね』その瞬間、わたしは自分の主観にこだわるあまり不満を募らせている自分がいることに気づかされました。と同時に、視点が突然ひっくり帰り、事態を俯瞰(ふかん)する自分が、そこにいたのです。『あの人たちのおかげで、みんなが安心して地下鉄に乗れるんだ、ありがたい、ありがたい・・・』。」
人はみな自己中心です。私もこの本を読む度に反省します。
次に「虚栄」です。これは、自分は本当は大したことがないのに大きく見せる事です。
根拠のない誇りだったり、メンツばかりを気にして見栄をはる生き方のことです。人がしてくれたことを自分がしたことのように話したり、自分の境遇を偽ってみたり。それらは本当に空しいものです。教会の中で偽りの自分を生きることは必要がないことです。
そして、この「虚栄」は、「党派心」とも訳せます。
コリントの教会には「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」
「わたしはキリストに」と言って争っていたと書かれています。
利己心と虚栄の中に生きているクリスチャン生活には、決して自由も平安もありません。
自分が良くないものをまいていることに気づかないで主のために生きているとしたら、なんと不自由なことでしょう。イエス様はそこから私たちを解放して下さいます。
パウロは同じ3節に「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考えなさい」、4節に「他人のことにも注意を払いなさい。」と書かれています。
これが一致できる要素です。
しかし、それはもともと私たちの中には見いだせない要素なのです。
2、 キリスト・イエスの心
イエス様の中にしか見いだせない要素、ここに皆が立つことができれば一致できます。。
6節には、イエス様が神の御子の権利を捨てたことが書かれています。
マタイ5章38~41節から権利を放棄することを見てみましょう。
38節「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」
目をやられたら、目を傷つけるだけで終わるでしょうか?
歯をやられたら歯で傷つけるだけでは収まらないのが人間の本性です。
旧聖書では自分が受けた分だけ復讐せよと制限しているのです。
39節「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
頬を打たれるというのは、尊厳と人権が踏みにじられる事です。特に右の頬を打たれるとは、右利きの人が右手で打つと言う事で、それはユダヤのラビたちの場合、二重の侮辱を意味します。「左の頬を差し出しなさい」、とは侮辱を受けることがあっても、敢えて人権を放棄する行為です。
40節「あなたを訴えて下着を取ろうとするものには、上着をも与えなさい。」
下着はキトンと呼ばれる木綿や麻で織った一枚の筒のようなものらしいです。でも、上着は昼は上着、夜は毛布として使われていたんです。だから、ユダヤ人の法律でも、下着は抵当に取れても、上着は、どんな理由でも抵当に取れないようになっていました(出エ22:26~27)。
それを与えよというのは、生きる権利を放棄し、命を与えるほどのことです。
41節「もしだれかがあなたをしいて一マイル行かせるなら、その人と共に二マイル行きなさい。」
当時は法の乱用によって、労働を強いることで、人の自由や権利を剥奪することがありました。ローマの権力者たちは、ある場所から他の場所へものを運んだり、郵便物を配達する時も、人を選んで強制的に一マイル運ばせたりしました。
イエス様が十字架を終えなくなったとき、ローマ兵が近くにいたクレネ人シモンを無理やり選び出して十字架を負わせたのは、この法によるものだったそうです。
私は41節のみ言葉が心に重かった時期があります。
母を家で介護していた時です。母はだんだん歩けなくなっていましたし、認知症も進んでいました。あまり話をしない人でしたが、目でものを言うというのでしょうか。私にはいつも母が私に「どこにも行かないでほしい」「傍にいてほしい」という声に出さない訴えを感じていました、そのためどこにいても、母のことを考えるようになっていました。
ある時、母を家において、教会の英会話教室に出ていました。何にも頭に入らず、母のことしか考えられません。今から考えると介護疲れだったと思いますが、もっとしてあげなければならないのにしてあげられない自分を責めていました。そして、母が自分に依存していることが重くのしかかっていました。英会話の教師に来週から英会話教室に出られないことを伝えようとしたところ、突然涙がばーっと出てきて止まらなくなってしまいました。自分自身に限界が来ていることにやっと気づかされました。
自分の権利を放棄してまで、母に仕えることができなかったのです。
その後、母は入院しました。そして、今でもイエス様は、母のベッドの傍にいてくださいます。わたしの弱さも、母の弱さも受け止めてくださっています。
フィリピ2章7節で、 無になったイエス様は、人となり、制限のあるこの体に自らを閉じ込めることで、すべて神としての権利を放棄なさいました。
そしてわたしたちすべての人のことをわかってくださるのです。
イエス様は、この自らに死ぬというこの生き方によって父なる神の聖名が崇められることに徹したのです。
私たちもまたそのお姿に1ミリでも近づけば、一つになることができるのではないでしょうか。