2019年12月1日の説教要約 「ダビデの系図」

2019年12月1日の説教要約

        「ダビデ系図」   中道由子牧師

 

≪女たちはナオミに言った、「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任ある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。≫ 

                     (ルツ記4章1~22節)

                         

 1、買戻しの権利の放棄

神様は、姑ナオミのために働くルツをはからずも近い親戚であるボアズの畑で働かせます。そして、ルツの方から、自分はエリメレク族のものであることを名乗り、ボアズに求婚をします。ナオミが予想した通り、ボアズは早速行動を開始しました。彼はベツレヘムの町の門に行き、そこに座りました。「門」の内側の前は広場になっていて、そこで取引の契約を交わしたり、裁判を行ったりしていました。すると、ちょうどそこに、ボアズが言っていた買戻しの権利のある親類の人が通りかかったのです。その人の名前は明らかにされていませんが、ボアズはその人に話し合いの席に座ってくれるように頼みました。それからボアズは、町の長老10人を招いて、そこに座ってもらいました。この話し合いの証人となってもらうためです。そこでボアズは、買戻しの権利のある人と話し合いを始めました。その人はボアズよりもナオミの夫エリメレクに近い親類でした。ボアズよりも買戻しの権利を優先する人でした。

ボアズはその人に、モアブの野から帰ってきたナオミが夫エリメレクの畑を売ろうとしていることを告げて、その畑を買い戻すつもりなら、民の長老たちの前で買い戻すと言ってほしい、もし買い戻さないのなら、そのように言ってほしい、と提案しました。すると彼は、「私が買い戻しましょう。」と自分の意思をはっきり表明したのです。けれど、彼はナオミの土地を買うつもりではあっても、嫁のルツをも買って妻とし、生まれた子供にその土地を与えて、ルツの夫マフロンの名を残すことは、全く考えていませんでした。ですから、ボアズからルツのことを言われた時、しり込みをしてしまったのです。それは自分の相続地を損なうことになるからです。彼は、「あなたが私に代わって買い戻してください。」と自分の権利をボアズに譲りました。

土地だけに限って考えれば、ナオミは働き手がなかったので、土地を維持できなかったと思われます。それにまとまったお金が必要だったのかもしれません。だから、亡き夫の土地を買い戻してくれる人がいれば、助かるわけです。それも、見知らぬ第三者に売る前に、親類の者が買い戻す方がよいでしょう。当時、そのような習慣になっていました。土地は一族の所有として残り、しかも土地を高く買ってくれるからです。それにこの土地を売っても、次のヨベルの年には戻ってくるのです。また、買戻しの権利のある人の立場から考えても、土地だけならば、ナオミからそれを買っても、それほどの負担はない、いや、お金を払っても、耕作して、収穫を得ることができるので、損にはならないと考えたことでしょう。そして、ナオミが死んで、やがてルツも死んだら、この土地を相続する者がいないのだから、エリメレクに最も近い親類である彼のものとなるのです(民数記27章8~11節)。

しかし、ルツを一緒に買うとなると話は別です。そこには何のメリットもない。金を払って土地を買戻し、ルツを妻とし、子供ができたら、その子に亡き夫の名を継がせ、土地を返してやることになる。そのうえ、年をとった姑の世話をしなければならない。イスラエルにおいては、やもめを重んじ、世話をしなければならないと主が命じておられるからです(出エジプト22章22~24節)。この人が身を引いたのも無理はないと思われます。

 

2、買戻しの権利の譲渡

こうして、ボアズよりも近い買戻しの権利のある親類の人が、その権利をボアズに譲ったため、ボアズが正式に権利を有することになりました。そのためには、権利の譲渡を有効にする習慣を執り行う必要があったのです。それが7節に書いてある、一方が自分の履物を脱いで、それを相手に渡す行為です。この買戻しの権利のある人はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分の履物を脱いだ。そこでボアズは、長老たちと門にいたすべての民の前で、彼が、今日、ナオミの手からエリメレクと二人の息子のすべてものを買い取ったこと、更に、死んだ者の名前をその相続地に興すために、彼はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、自分の妻としたことを宣言したのです。「あなたがたはその証人です」とそこにいる人たちに言いました。

門にいた人々と長老たちは、望んでいた通りの結果になったので、みな喜んで、「私たちは証人です」と同意し、ボアズとルツによって作られる新しい家庭を祝福して言いました。

11節「あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。」

創世記で、ラケルとレアはヤコブの妻として12人の息子を産みました。だから、ラケルとレアが、アブラハムに始まるイスラエル民族を12部族として確立したことになります。そして、彼らの子孫が天の星のように増え広がったのです。

12節「どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレヅの家のように、ご家庭が恵まれるように。」

タマルは、ユダの息子たちによって子孫を残せず、遊女に変装して、舅のユダによって、ペレヅを産みました。しかし、このような罪深い結果生まれたぺレヅをも主は祝福されたので、ボアズの先祖となったのです。彼らと同じように、ボアズとルツの新家庭が祝されたので、大勢の子供たちが生まれるように、と祝福したのです。このようにして、ボアズとルツは結ばれました。ボアズは、ルツに好意を示し、ルツも彼の愛を受け止め、ベツレヘムの友人たちの期待通りの結果となりました。

 ここで、私たちはボアズのとった態度から学びたいと思います。

キリスト者として私たちは、結婚は始めから終わりまで、主の導きによるものと承知しています。しかし、一般的には、実際にはなかなかそのようには考えられない。

ぜひその人と結婚したいと願うようになると、あれこれと先走ったり行動にでたり、焦ったりするものでしょう。夏目漱石の『こころ』の「先生」は、自分に恋を打ち明けた親友を裏切って、その恋人を奪ったが、その結果、その親友が自殺をしたことによって、両親の呵責に悩まされる。その親友から、胸の内を打ち明けられた時、「先生」も恋人に対する思いを打ち明けていたならば、結果はずいぶん違ったものになったのではないか。

そのような時も人間的な交錯に出ないで、最善をなして下さる主への信頼が必要です。

何よりもまず、二人が互いにとってふさわしい相手がどうか祈り求め、そして、なすべき努力も含めて、一切を主にお委ねすることです。ボアズはそのように行動しました。彼よりも近い、買戻しの権利のある親類がいわばライバルですが、彼に最初に選択権を与え、その結果を主に任せています。そして、道が開かれて結婚することができたのです。

 

3、神様の買戻し

 こうして、ボアズはルツをめとり、彼女は妻となりました。

主は彼女を身ごもらせたので、彼女は一人の男の子を産みます。子供が生まれるまでは、エリメレク家の問題は依然として未解決のままでした、ルツに子供が生まれて初めて、エリメレクーマフロン、キルヨンの相続地にその名を残すことが可能になります。だからこそ、ベツレヘムの女たちは、ナオミに男の子の誕生を祝福し、主をほめたたえたのです。ルツに生まれた子はナオミにとってイスラエルでその名が伝えられるような、文字通り「買い戻す者」となりました。

女たちは、その子はナオミを元気づけ、彼女の老後をみとるであろうと言いました。

それは、ナオミを愛し、亡くなった息子にも勝る嫁のルツが孫を産んだからです。ルツががナオミに尽くす姿を見るその子が、祖母のナオミを大事にしないはずはありません。

こうして、ルツによって生まれた子が、ナオミの将来に光を与えたのです。

彼女はその子を取り、胸に抱いて、養い育てた。その子は、オベド(仕える者)と名付けられました。歳をとったおばあさんが赤ちゃんを育てる、孫育てをしたのです。

ナオミが、ルツの産んだ幼いオベドを育て、やがてオベドがナオミの面倒を見るという姿は、嫁と姑の問題や老後の世話の問題に対する一つの解決法を示唆しているのではないでしょうか。

それは偶然そうなったのではなく、主のみこころを求めつつ、相手のことをまず第一に考えた結果であります。言葉を換えれば、姑、息子、嫁の関係がそれぞれ「自立」しているということですね。

相手のことをまず先に考える事から、家族関係は改善されていくように思われます。

ルツ記は、最後の5節を費やしてペレヅからダビデに至る家系を記して、その書を閉じます。こうして、この結婚は、当時者だけではなく、救いの歴史にとって非常に意義深いことでありました。ダビデの祖父を産むという、ルツが想像もできなかった使命を果たす者となったのです。

マタイはキリストの系図にボアズとルツ、オベドの名を掲げています。

マタイによる福音書1章5、6節

「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」

マタイによる福音書1章16節

ヤコブはマリヤの夫ヨセフをもうけた。このマリヤからメシヤと呼ばれるイエスがお生まれになった。」

メシアが現れることになっていたダビデの家系に、異邦人の血が入っていることをはっきり記して、救い主の誕生を明らかにしたのです。

 そして、救い主イエス・キリストは、ご自分の命を持って、罪に死んでいた私たちを生かしてくださいました。私たちに永遠の命という「相続」を買い戻してくださるために、十字架の上で尊い血潮を流されました。そのために生まれてくださったのです。

主のご降誕を心から喜び、ほめたたえましょう!