2019年1月20日の説教要約 「私があなたを遣わす」

2019年1月20日の説教要約
         「私があなたを遣わす」  横浜いずみ教会 福島雅則牧師

≪わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。≫ 
                    (出エジプト記3章1〜12節)


モーセはヘブル人(イスラエルの民)の子として生まれ、かごに入れられてナイル川の葦の茂みに置かれているところをエジプトの王の娘が拾い上げ、エジプトの王家の一人として育てられ、当時の最高の教育を受け、武術や戦術なども習ったことでしょう。ところが、同族のイスラエル人はエジプトで奴隷として苦しい生活を強いられていました。
モーセが40歳の時にイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見て、モーセはそのエジプト人を撃ち殺してしまいました。モーセは自分の手を通してイスラエル人をエジプト人の手から救うのだと考えていたようです。40歳のモーセは王族という地位と、知力、体力、指導力すべてそろってベストな時であったでしょう。しかし、エジプト人を殺したことがパロ王に知られると、モーセはパロに殺されることを恐れてエジプトを逃げ出し、遠くミディアンの荒野で羊飼いとなり、40年を過ごしました。
モーセは自分の力でエジプト人からイスラエル人を助け出すことに失敗し、エジプトの王族から貧しい荒野の羊飼いに転落しました。人生で大きな失敗をして挫折を経験しました。モーセにとってはやり直しのきかない失敗で、きっと自分をダメ人間と思い、すっかり自信を喪失して40年間を過ごしたと考えられます。


もしかしたら、皆さんも心のどこかで、かつての失敗、挫折によって、自分はダメだと思い続け、自信を失ったまま、今まで生きてきた部分があるかもしれません。
また、かつては社会に於いて華々しい活躍をしていたけれど、今は落ちぶれて何の役にも立たないと心のどこかで思い込んでいる人もいるかもしれません。
わたしはモーセのように口が重くて、人前で話すのがダメで、漢字に弱く、青年時代はわたしの日本語はおかしいと笑われるような者でして、今でもたぶんコンプレックスが残っています。ですが最終的には弱さに聖霊が助けて下さると信じています。


今日の聖書の箇所はモーセに全能の神が現れ、モーセがエジプトへ行ってイスラエルの民を救う使命が与えられるところです。この時モーセは80才でした。後期高齢者です。
とは言いましても、今の80才の方々は元気な方が多い。頭も体力もさほど衰えない。よくモーセが80才の時に召命が与えられた理由として、40歳の時に持っていた地位、体力、知力、気力などのすべてを失った80才のよぼよぼのモーセは自分の力ではなく主に頼っていくことができるから召されたというような理解で説教されたりしますが、わたしはそのような理解を否定はしませんが、後期高齢者の方に失礼なような気がします。(もちろん、健康でいられる年齢も個人差がある)
いずみ教会ではここ毎年のように、教会の修養会で講師に元関東学院大学の教授の大島良雄先生という方をお迎えしています。先生は99才で、今もほとんど毎月説教されておられる。杖もつかずに普通に歩き、私よりも記憶力があります。大島先生を見ていてモーセに対するわたしの見方が少し変わりました。
ですからモーセは80才で昔に比べて衰えているとは限らないわけで、イスラエルの民を統率する力やシナイ山に登る力もあったのですから、弱々しい老人をイメージする必要はないと思うのです。むしろ長年、羊飼いをやって来て、体は鍛えられていたかもしれません。杖を持っていましたが、杖をつかないとよろけて歩けないというよりも、羊飼いの必需品であり、旅する人はだいたい持っていたようです。


しかし、モーセはかつての失敗で、すっかり自信を失い、神様がモーセをエジプトに遣わすと語られても、すぐには首を縦に振らないのですが、そうゆうモーセを神様は丸ごと全部知っていて、それでモーセを選ばれて、大切な使命を託されたのです。

全部ということは、かつて失敗して自分をダメ人間と思っているそのモーセを神は必要としておられるのです。荒野へ逃げて40年間羊飼いをしていたモーセを、神は必要とされているのです。自分でマイナスと思う、失敗、挫折、逃げ出したこと、そのすべても主は必要として下さるのです。
神様はあなたのここはいらないけど、ここは必要と言うような部分的な受け入れではないのです。あなた自身の全部を丸ごと知っていて、今のあなたを用いようとされているのです。


よく、もうちょっと自分が良くなってから、もう少しクリスチャンらしくなってからと考えやすいのです。それでは一生神様の召しには答えられません。ありのままの今のあなたを神様は必要とされて、あなたを神様は遣わそうとしているのです。もちろんモーセのようなスケールの大きな使命ではないかもしれません。もしかしたら、たった一人のために遣わされているかもしれませんが、神様に必要とされて遣わされているのです。
クリスチャンはイエス・キリストにあってそれぞれモーセのように、神がご計画を持って遣わす存在です。さまざまな人間関係へと遣わされています。職場、地域のこと、習い事、家庭など、教会もたまたま鵠沼教会へ来ているのではなくて、牧師だけではなく一人一人が神によって遣わされているのです。


わたしはよく礼拝の祈りの中で新しい1週間へと一人一人を遣わして下さいと祈ります。それは礼拝から一人一人がそれぞれの生活の場へと主に遣わされているからです。
今日お読みした聖書の箇所は、モーセの召命の記事ですが、ある意味ではモーセの礼拝です。神がモーセに呼びかけ、そこは聖なる場所だから靴を脱ぎなさいと言われ、モーセは靴を脱いで神の前に出るのですが、神の御前で靴を脱ぐとは象徴的なことです。世の中の事々(仕事や家事やもろもろ)を脱いで、神の前に出て神と交わる。そして神の言葉を聴いてそれぞれに遣わされるのが礼拝です。
先週は礼拝から遣わされて、それぞれどうだったでしょうか? いつもと変わらない1週間を過ごせたとか、不思議な神の導きがあったとか、パロのような頑なさと戦ったとか、いろいろですが、礼拝で心新たにされてまた新しい1週間へと遣わされてまいりましょう。


モーセがエジプトからイスラエルの民を導き出すために遣わされたことは、旧約に於いて特別な召命で、旧約の最大の事と言えるかもしれませんが、神がモーセを召して遣わしたように、私たち一人一人も同じように神がキリストにあって遣わしているのですから、12節で「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたを遣わしたしるしである」という約束はあなたに与えられています。
神は「遣わすから行って来い」と言って、あとは知らんぷりで放ったらかしではなく、ご自身が必ず共にいて使命を全うさせて下さるのです。