2020年3月8日の説教要約  「さすらいの人生」

2020年3月8日の説教要約

                             「さすらいの人生」 中道由子牧師

 

≪カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。≫ 

                                                                               (創世記4章1~16節)

≪怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるので、怒ったままではいけません。≫ 

                     (エフェソの信徒への手紙4章26節)

 

十戒で「あなたは殺してはならない。」と唱えました。しかし、兄弟で殺人事件が起こったのです。

人類最初の殺人事件です。アダムとエバの最初の子供はカインとアベルでした。

 アベルは羊を飼うものとなり、カインは土を耕すものとなった、とあります。同じ両親から生まれても、その子によって性質も才能、適性は異なります。神様が言われた、「すべての生き物を支配せよ。」と、「そこを耕させ、またそこを守らせた。」というそれぞれの任務に就いたので、職業に優劣があるわけではありません。ただ、その生き方が違ったのです。

 

1、カインの怒り

カインとアベルが仕事をするようになってしばらくの期間が経過した時、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持ってきました。「ささげ物」とは、主がそれぞれの仕事を守り祝福してくださったことに対して、その一部を主にささげることです。でも、ここで、主はアベルのささげ物には目を留められましたが、カインのささげ物には目を留められなかったのです。

神様は、なぜカインのささげ物に目を留めなかったのでしょうか?

カインの捧げものは穀物で、アベルの捧げものは、動物だったからでしょうか?でもそれでは、職業事態に、優劣があることになります。主は、捧げものに目を留められるよりも以前に、ささげている人自身に関心を持っておられることが分かります。

カインは土地の実りのものを持ってきた、と単純に書いてあります。収穫の一部を持ってきました。それは、主のために特別な思い、感謝と犠牲の思いが感じられなかったのです。

アベルはどうでしょうか?「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」と書かれています。主の前に、最上のものを献げたのです。心から、喜んで、信仰を持って献げたのです。

へブライ人への手紙11章4節

「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」

 神様が見られたのは、カインの信仰、アベルの信仰でした。

カインはアベルのささげ物を神様が喜んでおられることを知ってどうしたでしょうか?

5節「カインは激しく怒って顔を伏せた。」

カインは、ひどく怒ったのです。つまり、自分が無視されたことと、アベルが認められたことで彼のプライドが傷つけられたからです。神様の顧みを受けられない理由は自分自身の中にあるのですから、カインはそれを認めるべきでしょう。神様に「どうして、私のささげ物は喜んでいただけないのですか?どうしてアベルのささげ物を好まれるのですか?」と聞いたらいいのです。

しかし、彼は神の前に顔を伏せていました。自分の怒りが神に見られないように隠すために、また自分の中に閉じ込めるためでした。私たちも、自分のプライドが傷つけられる時に怒りますけれど、それを周囲の人に悟られるのは恥ずかしいと思います。それで、その怒りを表面に出さず、それを巧妙に隠そうとします。主はカインの怒りを見抜いておられます。心に罪を持ったままで悔い改めないと、ついに罪によって支配されて罪を犯してしまいます。神様はカインになんと言っておられるか。

7節「罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」

怒りに打ち勝て!怒りを治めよ!と言われたのです。

 

2、怒りを治めよ

 カインはどうしたでしょうか?カインはアベルに話しかけ、アベルを野原にいこうと呼び出しました。心の中にある怒りや嫉妬、殺意を押し殺して、アベルを誘い出し、何の疑いもなく、抵抗もしないアベルに襲いかかって弟を殺してしまったのです。サスペンスドラマに出てくるような兄弟の殺人事件が、聖書の初めに書かれています。これが、罪の結果です。神様の警告を無視して、心の中にある罪を悔い改めないでいると、その罪は増大して、具体的な罪の行動を産むようになります。

 

 「なぜ、人を殺してはいけないのですか」という本があります。ヒュー・ブラウンという、日本を愛した在住の宣教師の自叙伝です。彼はアイルランド人で、少年期にイギリスとアイルランドの闘争を経験します。当時、彼は喧嘩が強かったこともあり、テロ組織に入って、半殺しの目に会います。

少し紹介したいと思います。「わたしもかつては復讐心に燃えていました。わたしと弟の膝を撃ち抜いた相手を、絶対に殺してやろうと思っていました。ひたすらそのチャンスを狙っていました。それぐらいわたしは、あの非人道的な残虐な行為をした相手が赦せなかったのです。結局、わたしは逮捕され、刑務所の中でクリスチャンになったために、そのチャンスは永遠に失われたわけです。人を殺す大罪を犯さずにすみました。

人間の心は基本的に悪の部分を抱えています。つまり、誰でも自己中心的に、自分が好きなように自分勝手に行きたいと思っている。それをどんどん推し進めていくと、最後には『人を殺してもいい』というような、究極のところまで行きついてしまいます。悪魔的な存在になる。その可能性を誰もが持っていますが、そうならないように踏みとどまらせるのが、家族の愛情であったり、人と人とのつながり、人間の命の尊さです。自分が幸せになるためには、他人の幸せも大切にしなければならない。」

人間は神のかたちである、霊的な部分を持っているのですから、他の動物とは違います。あなたがそうであるように、あなたの家族も、隣のあの人も、かけがえのない人間の一人です。神のかたちをいただいている人間なのです。だから、人を殺してはいけないのです。

ただ、ブラウン先生は、ここで殺す根っこになっている罪を取り扱っています。

『クリスチャンなら赦さなければならない。だが、どうやったら、あんなにひどいことをした相手を赦せるんだろうか』わたしは真剣に考えました。 たとえクリスチャンになったとしても、神様がわたしの記憶の中から、わたしの都合に合わせて部分的に記憶を消して下さることは絶対にないのです。だから、いくら時間が経っても、いつまでも忘れられないのです。かといって、忘れられないから赦せない、ということではありません。忘れられないけれども、赦せるということがわかったのです。

思い出す度にそういう気持ちになるのなら、思い出さないようにすればいいのではないか、と気がつきました。それでも、何かのきっかけで、たまたま思い出してしまうこともあります。そうして、また復讐を考え始めている自分に気がついたら、その瞬間、それ以上考えないように自分の意志でコントロールするように努力しました。復讐心や憎しみの心が浮かんだ時に、自分の意志でストップする訓練を繰り返すのです。苦しくとも忘れようと心に命じるのです。そうすれば、相手に対する憎しみや恨みが、自分の心にやどることも少なくなります。日に何度も思い出すのなら、同じ回数だけ自らの内面をコントロールする試みを続けてください。さらに、続けていけば、時間の経過とともに思い出す回数も減っていきます。そしてやがて相手を赦せるようになるのです。相手を赦すためには、自分も努力しなければなりません。いつの間にか、自然に消え去っていることは、残念ながらないのです。『ひどいことをされた被害者である自分が、なぜ加害者をゆるすために努力しなければならないのか。』私自身もそう考えました。そのときに大事なことは、『これは相手のためにするのではなくて、自分のためなのだ。』と考えることです。復讐の呪縛に打ち勝つことが、自分の心と戦う本当の意味での強さです。それができなければ、自分の心は必ず憎しみや恨みなどで埋め尽くされ支配されてしまいます。」

カインの場合、アベルに対する嫉妬と怒りでした。神様は、その怒りを治めよ、とおっしゃる。思い出さない、忘れる努力と訓練です。聖霊は私たちに自制の実を宿らせるように助けてくださいます。

 

3、カインのしるし 

  カインは罪に負けて、弟を殺してしまいました。土地はすでに呪われていましたが、アベルの血を受けたので、カインにとっては二重の意味で、呪われてしまいました。その結果、カインが土地を耕しても作物がとれなくなりました。彼は、もうひとつ所に住んで安定した生活を送ることができなくなりました。地上をさすらう、さすらい人となってしまいます。帰る家もなく、何の保証もない生活。そして、自分の罪はもう重くて負いきれない。地上をさまよい、さすらううちに、誰でもわたしを殺すでしょう、と嘆くのです。弟アベルを殺したのに、自分が殺されることを恐れているのです。

そのカインに対して、主は「いや、カインを殺す者は、だれであれ7倍の復讐を受けるであろう。」

と約束して下さり、出会う者が彼を殺すことができないような、しるしをカインにつけられたのです。

カインは、ノドというさすらいの地に住み、保護されました。

カインの重くて負いきれない罪は、どうなったのでしょうか?私たちは知っています。その罪を負って身代わりに死んでくださったお方、イエス様を私たちのために神が備えてくださったことを。