2020年3月15日の説教要約 「聖霊と私たちは決めた」

2020年3月15日の説教要約

                                「聖霊と私たちは決めた」  照内幸代牧師

                                                                    <使途言行録 15章28、29節>

導入

聖書の教えを守ることは大切なことです。神様が私たちに残してくださった大切な戒めです。しかし、律法主義者のように、なんでもかんでも守らなければならないというのでは、結局イエス様の十字架では人は救えなかったということになってしまいます。一体どのようにして、私たちは神様の教えを守りつつも、文化や状況に合わせて宣教の働きをすることができるのでしょうか。今日は初代教会が乗り越えたこの課題をもとにして、神様からの励ましをいただこうと思います。

 

本文

聖霊は決めた

結論から申し上げて、エルサレム会議が開かれた結果、ユダヤ人クリスチャンたちは異邦人クリスチャンに割礼を受けなくても良いという決定を出しました。それどころか、割礼だけにとどまらず、多くの律法というものを異邦人には求めないことに決めたのです。

この通達を出すときに、「聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました」と書かれています。

聖霊様は目に見えない、耳で聞こえない存在です。このパウロの時代であっても、いつも聖霊の声や姿が見えていたわけではありません。なぜパウロたちは「聖霊はこのように決めた」と言い切ることができるのでしょうか。それは、聖霊様が働かれたことを通してわかるというのがパウロたちの主張です。

 

会議の論争が激しくなって、このままでは決着もつかないかと思われたときに声をあげたのがなんとイエス様の一番弟子のペテロです。ペテロは使途言行録15章7節~11節と会議で語りました。

ローマ人の家に招かれたペテロは、そこでローマ人の一家が丸ごと救われたのを目の当たりにし、神様はユダヤ人だとか異邦人だとかいう分け隔てなく、人をお救いになるのだと確信するのです。こうして12節、ようやくユダヤ主義者たちもパウロバルナバの第一次伝道旅行の奇跡の数々に耳を傾けるようになりました。更にこの二人が話終わると、ヤコブが発言をしました。ヨセフとマリアの二番目の息子であり、イエス様のすぐ下の弟にあたるヤコブです。

13節―19節

 

この「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれるヤコブは、この時エルサレム教会のリーダーとなっていました。彼はパウロバルナバ、ペテロとは違って、異邦人の上に聖霊がくだって、神様に救われるようになったということは目撃していません。けれども彼はペテロやバルナバパウロたちの方を支持しました。その理由は、神が聖書にそう書いているからということに基づいています。旧約聖書で、異邦人が救われるということが約束されている。そして今そういう報告が上がってきた、それならば、異邦人が異邦人のままで救われるべきことを認めるべきではないかと発言したのです。

聖霊と私たちは決めたというところの、「聖霊が決めた」と断言できる根拠は、この二つにあるということです。すなわち、神様が救いの業を実際に起こしてくださったということと、聖書にその約束が書いてあるからということ、この二つに基づいています。聖書には勿論両方書いてあります。異邦人が主の会衆に加わってはならないと明記している箇所、そしてヤコブが引用したように、異邦人は救われるという箇所、両方存在しています。しかしそのときの時代や文化や状況を考えて、今異邦人が救われるという聖書の言葉が成就するときが来たのだとヤコブたちは判断したのです。

聖霊が決めた」というとき、単に私たちの願いがそうであるとか、客観的に見てその方がいいからとか、それだけでいうことはできません。聖書に書いてあるということと、実際に神様がお働きになっているわざが見えるという二つのことが大切です。私たちも教会として、何か新しいことを決めなくてはならない、やり方を変えなくてはならないというときがきっとあると思います。そのときに、いつも神様のわざと御言葉に立てる教会でありたいと思います。

 

私たちは決めた

二つ目に大切なことが、この「聖霊は決めた」ということと共に、「私たちは決めた」と書かれていることです。私たちは宣教するときにも、教会で何か重要な決定をするときにも、勿論神様の働きがあるかということと、聖書に基づいているかということを気にします。しかしそれと同時に、自分たちも決めたのだという責任をもたなくてはならないということです。教会が生まれ変わることによって、何か問題が出てきたら、「神様あなたの導きでしたのになぜ問題が出てくるのですか」と神様に文句を言うのではなくて、自分たちもその決定に同意したのだから、これは自分たちの問題として向き合わなければならないということです。

クリスチャンは確かに神様の導きによって救われました。神様の憐みで神の子になりました。でもそれは、自分でもクリスチャンであることが喜びであるし、自分も神の子となりたいと思ったからなったのではないでしょうか。中には無理やり親からクリスチャンにされたり、厳しい教会に通ってクリスチャンにならざるを得なかったという人もいます。やっぱりそういう方々は深く傷ついた気持ちを持っていて、教会に通うのが難しくなってしまう方々も多いです。

神様のお導きと憐みはあったけれども、自分の自由な意志決定によって、自分はクリスチャンになったのではないでしょうか。だから、私たちが日曜日の時間を神様におささげすることも、10分の一の献金をささげることも、教会で奉仕をすることも、自分で選んだ自分の喜びの一つなのではないでしょうか。礼拝をささげること、奉仕をすることによって発生してくるある種の困難や、苦労ということも、「これは神様のせいでこうなった」というのではなく、「自分でもこれを選んだ」という気持ちが必要になります。

25節~27節と書いてあります。聖霊と教会とでこの決定をしたのですが、教会は教会も決めたという決意をもっていました。新しい決定の通達をするために、大切な教師であったパウロバルナバを、地方に送ることを決めました。聖霊も決めたけれども、教会も決めた。だからこのことに関しては、教会も責任をもつことになったのです。

 

まとめ

私たちは教会として新しい決定をするとき、意見が割れつつも決めたとき、そして自分の日々の生活においても、人生の一大決意にしても、どうしたら神様の心に背かずに、何かを決定していくことができるのでしょうか。それはやはり、神様の御言葉を読むこと、聖書に何が書いてあるのか日々蓄えること、そして、神様のお働きがあるという確信に立つこと、そして決めたならば、それを自分でも決めたという気持ちをもつことが大切なのではないでしょうか。私たちは今週一週間も神様の子供として歩みます。今週を歩む中で、神様の御心はどこにあるのだろうと悩むときもあるかもしれません。そんなとき、パウロやペテロのように、聖霊と私たちは決めましたという心で日々を歩めますように願います。