2020年3月29日 礼拝説教 「ヤベツの祈り」

2020年3月29日 礼拝説教

          歴代志上 4章10節 「ヤベツの祈り」  中道善次牧師

 

イントロ:おはようございます。コロナウイルスによる外出自粛要請が出ました。茅ヶ崎教会のホームページへの音源のアップと共にこの説教原稿を必要な方に読んでいただきます。

今日は、歴代上4章10節の「ヤベツの祈り」から共に学びます。特に、ヤベツの祈りに最後の部分「主の御手がともにあり、災いを遠ざけ、苦しむことがないように」をいつも以上に私たちの祈りとしたいと思います。聖句引用は、新改訳となっております。ご了解下さい。

二つのポイントでお話しします。①ヤベツの祈りとの出会いから17年、②ヤベツの祈りが与える励まし

 

①ヤベツの祈りとの出会いから17年

「ヤベツの祈り」という120ページほどの小さな本があります。著者はブルース・ウイルキンソンです。

お読みになった方もおられると思います。この本は「いのちのことば社」から2001年11月に出されました。英語の出版は2000年ですから、すぐに日本語に翻訳されたようです。

どなたがこの本を紹介してくださったかは覚えていないのですが、私がこの本を手にしたのは、2001年11月24日、萩園教会の献堂式の一日前でした。

私は、この本を読んで、すぐに祈祷会で少しずつ紹介し、学びました。そして2002年の元旦礼拝で、「この1年の御言葉です」と掲げました。

私が、ヤベツの祈りをお勧めしたのは三つの理由からでした。

第一の理由。「祝福して下さい」と「地境を広げてください」という祈りは、第三者が、それらが達成されたかどうかを判断することが難しいことなので、気持ちが楽です。

父祖ヤコブは子どもたちの祝福を祈りました。創世記49章です。その言葉は、次のように締めくくられているのです。

創 49:28 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。

神様は、それぞれにふさわしい形の祝福を、広がりを、与えなさるのです。

私に与えられた祝福と隣の人の祝福を比較する必要は無いのです。私たちはそれぞれふさわしい祝福を神様からいただいているのです。

第二の理由は、ヤベツの祈りは、実行可能だからです。ヤベツの祈りを祈ることは、無理な要求をしているのではないのです。たった15秒ほどで出来る祈りです。

著者ウイルキンソンは次のように記します。私はヤベツの祈りに出会ってから、毎日一字一句祈っています。そして30年がたちました。いまだにその祈りを止めていません。

そして次のように勧めています。毎朝ヤベツの祈りを祈ってください。家族や友人、教会のためにもヤベツの祈りを祈り始めてください。

私は、ヤベツの祈りに出会ってから、これなら実践できると思って始めました。子どもたちのために毎朝祈って学校に送り出すときにヤベツの祈りを祈りました。今は学校に送り出す子どもがいませんが、個人の祈りで祈ります。そして教会のための祈りでも実践してきました。私は祝祷の時には、「私を祝福して下さい」を「私たち」に変え、「私の地境」から「私たちの国境」に変えて、祈ります。そして、父と子と聖霊の祝福を祈ります。

祝祷とは、祝福の祈りです。父と子と聖霊は伝統的な祈りです。しかしその前に「祝福」という言葉が入るヤベツの祈りを祈ります。ヤベツの祝福を祈ると、祝福が会衆に届くように思われるのです。

気がついてみると私がヤベツの祈りを続けてから19年がたちました。私は、毎日この祈りを祈り、教会の祝祷でも毎週、祈り続けてきました。

第三の理由。それは、希望がわいてくるからです。私たちの信じるキリスト教信仰は、真面目で、足りないところを指摘され、改善してゆかなければならない。そのようなマイナス点を補ってゆく傾向が強いのです。

しかし、私を祝福して下さい。私の領域を広げて下さい。災いを遠ざけ、苦しみに遭わないようにして下さい。この祈りは前向きです。自己中心と言われるかも知れませんが、この祈りを祈ると楽しいのです。気持ちが楽になるのです。だから続けられるのだと思います。

これから語ることは、結果から振り返ることです。そこには多くの教会に属する人々の祈り、共に働いた牧師先生や宣教師の協力があったことを知っています。ヤベツの祈りだけが祝福の要因でなく、他の信仰の要素、祝福の要素があったことも確かです。これらは神様の祝福であり、神様だけが栄光をお受けになったら良いことです。それらを前置きしながら、ヤベツの祈りの祝福を申しあげます。

茅ヶ崎教会でのミニストリーの幾つかを紹介します。

2002年1月にヤベツの祈りをスタートしました。

2002年11月から秦野開拓を始めました。2008年に会堂を建て、2009年に献堂式を行うことが出来ました。

2006年3月からミヤンマー宣教を始めました。多くの青年たちがツアーに参加しました。参加した若者のほとんどが、神学校で勉強しました。今、それぞれの場所で主に仕えています。

2006年10月からJロッジ・カフェがオープンしました。10名ほどの大学生が洗礼を受けました。

2013年10月に、茅ヶ崎教会は、新しい場所(会堂)に移ることが出来ました。

皆様にお勧めしたいのです。ヤベツの祈りを毎日祈って下さい。

個人のこととして祈って下さい。そして教会のためにも、この祈りの言葉をもって祈って下さい。

 

②ヤベツの祈りが与える励まし

ブルース・ウイルキンソンの著書では、この祈りは4つのセンテンスに分けられるというのです。

著書では、新改訳聖書を使っています。そして、d.の後半「苦しむことがないように」は、災いから遠ざけるという祈りの中に含んでおります。以下のようになります。

a.私を大いに祝福し、

b.私の地境を広げてくださいますように。

c.御手が私とともにあり

d.わざわいから遠ざけてくださいますように。

では、この4つを見てまいりましょう。

a.私を大いに祝福し

私たち日本人のキリスト教信仰は、真面目であると申しました。その一つが、新聖歌196番の♪祈れ己のことよりむしろ、人を執り成す身となるまでは♪の歌詞にあるように、祈りは自己中心ではいけない。自分のことだけ祈るのではない。むしろ他者の祝福を祈るのだと賛美でも教えられてきました。

英語でもbless me(ブレッス・ミー、私を祝福して下さい)の祈りはいけないというのです。

しかしヤベツの祈りは、私を祝福してくださいから始まるのです。

いかがでしょう。このように勧められて、素直に「私を祝福して下さい」と祈れるでしょうか?

アーメンとおっしゃる方、感謝です。しかし、私たちの中にある低い自己イメージを持つ方がいます。自分は何をやってもうまく行かないという方。自分はかわいそうだという自己憐憫、消極的で引っ込み思案な方。そのような方々にチャレンジを与えるのです。自分の殻を破る祈りとなるのです。

ヤベツの名前は、「痛み」や「悲しみ」です。このような名前を子どもに付ける人がいるでしょうか。

Ⅰ代 4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。

原因が何であれ、いやがる名前をつけられて、ヤベツは育ったのです。名前だけでいじめに遭ったのです。親から望まれないで生まれてきたのではないかと自分の名前から思ったかもしれません。

聖書では名前がその人の将来を決定すると言われます。「悲しみ・痛み」という名前は、彼の人生そのもののようになって行く可能性があったのです。しかしそこを打ち破る、そこから解放される祈り、それが「私を祝福してください」だったのです。

自分の人生は「痛み・悲しみ」だという重くて暗い自己イメージを払拭したのです。自分は親から望まれないで生まれてきた。自分はかわいそうだという思いから解放されたのです。

ヤベツは、アブラハムの祝福を受け継ぐ者となったのです。ヤベツは祝福の存在になったのです。

b.私の地境を広げてくださいますように

この地境とは、働きの領域であると本にも書かれており、私もそうだと思っていました。

かつてここから語ったメッセージは、「私をもっと豊かに用いてください」でした。それはヤベツの祈りに出会う前の祈りでした。次のような祈りでした。私を、遣わされている教会だけでなく、神奈川教区でも、教団でも、さらに教団教派を超えても、そして日系人教会でも用いてください、と。

その小さな始まりは、シオン教会の浅海先生からの電話でした。祈りはじめて1ヶ月もしないうちに電話がかかってきました。それは私の誕生日でした。神様からの誕生日プレゼントのようにして、祈りが答えられたのです。夏のシオン教会の中高生キャンプでメッセージを語ってくださいという依頼でした。1993年のことです。この体験がありましたので、第二の地境を広げてくださいという祈りは、あなたの用いられる領域が広がりますというふうに受け止めていました。

ヤベツの祈りを祈ってからの19年を振り返り、神様は文字通り、私の働きの領域を広げてくださいました。また地境は、国境とも訳せます。旧約聖書の時代には、自分たちの所有する地所や土地が広がるということを意味していたのです。ヤベツの祈りに出会った頃、私の中には、土地が広がるというような理解も認識もありませんでした。

しかし文字通り、領域が広がったのです。かつての茅ヶ崎教会は、路地の突き当たりで、わかりにくい。駐車場もない。でも駅からは近いので、移転しなかったのです。その代わりに、開拓しよう。子どもの教会を生み出そう。そのようにしてやってきました。

しかし由子牧師は、茅ヶ崎の新会堂のために祈りました。宣教のために献げて、教会を生み出してきた茅ヶ崎教会を祝福してください。報いを与えてください。そこには、こつこつ続けたプレイヤー・ウオーク(祈りの歩行)がありました。そしてOMSの祈りのチームが来てくれました。多くの方々の協力があり、献げ物がありました。文字通り汗を流して掃除して、ペンキを塗って、働きました。

振り返ると、私たちの地境が広げられたのです。会堂の広さが、土地の広さが今までの4倍に広がったのです。

c.御手が私とともにあり

私はこの祈りは、後半につながると理解していました。それは神さまの守りの御手です。守りの御手があり、災いを遠さけ、苦しみに遭わないようにしてくださる。

ところがもう一度、本を読み直してみると、次のように書かれていました。

「ここで、神の御手がともにありますようにと言うのは、ヤベツの最初の祈りでなかったことに注目してください。祈り始める時点では、ヤベツはその必要を感じていなかったのです。物事はまだ自分の手で出来る範囲にありました。彼が負うリスク、そしてそれに伴う恐れは最小限でした。しかし、地境が広げられ、神のご計画による御国サイズの仕事が与えられるようになり、ヤベツは自分の上に神の御手が臨むことが必要であると分かったのです。神の御手があなたの上に置かれることは「偉大さに触れる」事です。神の力強い御手に依存するようになるのです。」

茅ヶ崎の会堂が移るとき、私は「神様無理です」。そう何度も祈りました。自分では担えない。自分たちの力量を超えている。

しかし振り返ってみて分かることがあるのです。神様の御手がともにあったのです。自分たちがとても出来ないと思う、不可能だと思う領域の広がりを神様が与えられたのです。

d.わざわいから遠ざけてくださいますように。

後半の部分で、次のような翻訳があります。

「苦しみに遭うことがないように」の「苦しみ」とは「痛み」で、ヘブル語ではヤベツの名前の発音と同じ言葉であります。

ヤベツは、人生で苦しんできた。痛んできた。だから、もう痛みを受けることがないように。

正直な祈りです。私たちは、祈りの中で「よい子」にならなくてもいいのです。正直に、辛いことはごめんですと祈ればいいのです。

災いを遠ざけてください。これは主の祈りの「われらを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」と同じであります。誘惑に遭わないようにしてください。悪というのは、人格をもった悪、つまり、悪魔、サタンのことです。悪魔が私たちを攻撃してくることがないように。誘惑してくることがないように、守ってください。そのような祈りです。

そう言っても、苦しいことがあります。痛みがあります。どうしてこんな目に遭い、こんな思いをしなければ、ならないのかと思うことが、ヤベツの祈りをしていても、あります。

そう言って神様に訴えたこともあります。

しかし、神の御手がともにあるのです。試練の中での守りの御手が、痛みの中で支えてくださる神の御手があるのです。今、私たちが直面しているコロナウイルス感染拡大についても「災いを遠ざけ、苦しむことがないように」という祈りを献げたいのです。

最後に注目していただきたい言葉があります。

Ⅰ代 4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。

Ⅰ代 4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私ととともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

「重んじられた」、これは、神様がヤベツを気に入られたということです。厚かましい求めをしたヤベツですが、神様はヤベツを気に入られたのです。そして、その求めるところをゆるされた。それは祈りが許可されたというのではなく、願ったことがかなえられたのです。

祈りましょう。