2020年5月17日 礼拝説教 「イエスの昇天」

2020年5月17日 礼拝説教

                「イエスの昇天」     中道善次牧師 

                                                <使徒行伝 1章9~11節>

 

イントロ:おはようございます。今朝もご一緒に礼拝を守れる恵みを感謝いたします。

オンライン礼拝は、当初は音源だけでしたが、途中から、愛実がアメリカの授業の課題としたいと言うことで、映像を映すようになりました。スマホの電源が途中で切れたりして、うまく行かない日もあるのですが、映像が映るようになって気になっていることは、散髪に行けなくて、髪の毛が伸びていることでした。

ようやくこの録音の二日前に散髪に行けました。いつも行っているところが、営業を再開してくれたのです。鵠沼教会のIさんも、二ヶ月ぶりに行きつけの床屋に行ったとおっしゃっていました。

髪の毛を切ってくれたらどこでも良いというのではなく、はやり行きつけの場所がいいのです。教会もまた、そうではないでしょうか。今の時代、多くの教会の礼拝をインターネットで見ることが出来ます。それでも私たちは、通い慣れた教会で早く礼拝を持ちたいと思うのです。

さて今日は、教会暦でいうと1週間早いのですが、「イエスの昇天」について学びたいのです。教会暦では来主日がイエスの昇天、31日がペンテコステであります。聖書によりますと、イエスさまは復活後40日して天国に帰られました。今年のカレンダーで言うなら5月22日でございます。今日は、イエスが天に帰られたという出来事から、三つのポイントでメッセージを聞き取ってまいりたいと思います。 ① 再臨の約束、 ② 執り成しの祈り、③ 主権者である主への信頼

 

①再臨の約束

エスさまの昇天の物語から聞き取る第一のメッセージは、目に見える再臨を信じ、待ち望むことであります。イエスさまは、再び同じ姿でこの地上に来られると聖書が言っているからです。

それが使徒行伝1章11節に記されています。

行 1:11 言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。

昇天の様子を、宗教改革をしたカルヴァンによりますと、次のようであります。イエスは両手を挙げて祝祷をしておられた。その祝祷の声がだんだん小さくなって行く。あれっと思って、弟子たちが、ふと目を上げるとイエスが目の前におられない。そして周囲を見渡すと、天に昇ってゆかれるイエスの姿があった。

それはカルヴァンが想像した物語ではないのです。ルカが書きました第一巻、ルカによる福音書の終わりにはそのように書かれているのです。

ルカ 24:50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。

ルカ 24:51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕

弟子たちを祝福しておられる姿で天に上げられた。

同じ姿で戻ってこられるのですから、手を挙げて、私たちを祝福するお姿でイエスさまがお戻りになるのではないでしょうか。

私たちを祝福するお姿で、イエスさまは再びこの地上にやって来られる。素晴らしいことではないでしょうか。

私たちは、そして、私たちの属するホーリネス教会は、目に見える再臨を信じております。

神学の分野では「実現した終末論」という考えもあります。聖霊によってイエスさまが側におられる事も、イエスの来臨(お出でになる)であると言われるのです。

それは5月3日の説教の中の「臨在の訓練」でお話ししたことでもあります。私たちは、聖霊さまの臨在でありながら、「イエスさま」と呼ぶのです。そのようにして臨在されるイエスさまを慕っているのです。

しかし主の臨在があるから、目に見える再臨はなくてもよいと私たちは言いません。

かつて一人の方をお導きしておりました。毎週のように礼拝に来られました。その頃、教会で礼拝後に行っていた、聖歌隊の練習にも加わっておられました。個人的な聖書の学びも行っておりました。

しかしその方はおっしゃったのです。

僕には、キリスト教の教えの中で、どうしても信じられないことがある。それは、イエス・キリストが目に見える姿で再び地上に来られる。それを再臨というのですね。それが受け入れられないのです。

私は、ホーリネス教会が大切にしている四重の福音についてお話ししました。

新生、聖化、神癒、再臨。この4つです。

エスさまを信じて救われるという大きな神の救いのプログラムの完成が「再臨」であります。そして私たちの側でいうなら、この肉体が、栄光の体に変えられることであります。

これは私たちの救いにとって大切なことですと申し上げました。

受け入れていただけないことは、とても残念でした。

もう一度11節をお読みします。

私たちは、聖書が語っていることを文字通り信じているのです。

目に見えるお姿でイエス様が再臨される。その希望と信仰を共に確かめたいと思います。

 

②執り成しの祈り

ある教会の洗礼準備会では、次のような質問があります。

イエス・キリストは今どこにおられますか?地上ですか?天ですか?

もちろん、天にお帰りになって、今も天におられるのです。

毎週唱えている信徒信条の中にも、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」とあります。

では天に帰られたイエス様は、今何をしておられるのか?

神の右の座に着かれた、とあります。やれやれ、大きな仕事が終わった。そして、神の右の座に座って休んでおられるのではありません。

ローマ8章34節には、次のように書かれております。

ローマ 8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

エスさまは、天に帰られて、私たちのために執り成しの祈りをしていてくださるのです。

その執り成しの祈りとは何でしょうか?

第一は、罪の赦しの為の祈りであります

ローマ8:34の「誰が私たちを罪に定めるのか。誰もいない。何故ならイエスが執り成しておられるからだ」という聖書の言葉と共に、ヨハネ第一の手紙2章1節でも、イエスが天で私たちの罪の赦しを祈っておられる事がわかります。

ヨハ1 2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

エスさまは、十字架の上で「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と祈られましたが、それと同じように、今も、天で私たちの罪の赦しのために祈っておられるのです。

第二の祈りは、試練から助け出される為の祈りであります。

ヘブ 4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。

ヘブ 4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。

ヘブ 4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

ここでは、厳しい試練と経済的な苦しみのゆえに、イエスを信じることを止めてしまう誘惑に駆られていた人々がいるのです。その人々を励ますために書かれたのが、ヘブル4:14~16であります。

エスさまが天で祈っておられる。それはただ上から目線で祈っているのではない。私たちと同じように試練に遭われたので、私たちの弱さを理解することが出来る。その上で、私たちが罪を犯さないように守り祈って下さるというのです。

この祈りの助けが、日々私たちに注がれているのです。

第三の執り成しは、私たちの不完全な祈りを、御心に適う祈りに変えて、父なる神さまに持って行って下さることです。それを私たちは「イエスの名によって」祈るという言葉の中に見出すのです。

ヨハ 14:13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。

ヨハ 14:14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

ヨハ 16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。

「イエスさまのお名前によって祈る」。そのように私たちは祈りの最後にいいます。

これは教えられたら、幼い子どもでも、信仰を持っていなくても、リピートすることが出来ます。

しかしここでイエスさまがおっしゃっている「私に名によって」とは、おきまりの言葉ではないのです。私たちの祈りが、イエスさまの執り成しの祈りを経由して、父なる神に届くことを意味しているのであります。私たちの祈りは、自己中心であったり、視野が狭く、物事の全体像が見えていなかったり、きよめられなければならないところがたくさんあるのです。イエスさまは、「イエスの名によって」父なる神に献げた私たちの祈りを、執り成して下さり、修正して下さり、清めて下さり、御心にかなうように父に届けてくださるのです。

このようなイエスの執り成しが、今も天においてなされていることを感謝したいのです。

 

③主権者である主への信頼

天に帰られたイエスさまが、今何をしておられるのか。

執り成しの祈りの次のことは、支配であります。神の右にお座りになられたのです。

それは主権者として、支配者として、天の御座に着座されたのです。

言葉を換えると、イエスさまは、父なる神さまと一緒に、全てのことを支配しておられるのです。

それをよりよく表現している言葉はローマ8章28節であります。

ローマ 8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

万事という言葉の中には、迫害が含まれているのです。どうしてこのような目に遭わなければならないのだろう。そのような理不尽な、理解する事も難しいことでさえも、神様は全てのことを支配されて、万事を益となるようにして下さる。

益とは、「利益」と言うように、私たちに都合のよいこととして考えてしまいます。

しかしここでは「善」という言葉であります。

God is good といわれますが、神様はよいお方で使われる goodであります。

神様は善にして善をなされると詩篇に書かれています。

神様のなさる一番の「善」は、救いであります。

どのような辛い出来事であっても、神様はそれさえも御手の中で変えることが出来る。救いをもたらすことが出来るのです。

ファニー・クロスビーという讃美歌作者がいます。曲を作るほうではなく、作詞者であります。

私たちの知っている歌で言うなら、新聖歌340番♪救い主イエスと共に行く身は♪、新聖歌266番♪罪とがをゆるされ♪などがあります。新聖歌の中には、24曲もクロスビーが作詞した歌があります。

クロスビーは、目が見えませんでした。盲目の賛美歌作者でした。

クロスビーが、讃美歌作者として有名になったあとで、一人の看護師であったか、子守さんがクロスビーのもとを訪ねました。そして彼女に謝罪しました。

クロスビーさん、あなたが失明したのは、赤ちゃんのあなたを見ていた私のミスでした。

間違った薬を目にさしたか、何かのミスで、クロスビーは赤ちゃんの時に失明したのです。本当に申し訳ありませんでした。

その謝罪に対して、クロスビーは、優しく微笑んで、次のような言葉をかけました。

もう過去の事を気にしないで下さい。人間には失敗はあります。しかし神には失敗はありません。クロスビーは、神を信じ、そして盲人として、讃美歌作者として生きてきた自分の人生を振り返って、神様はすばらしいことをなさった。よいことをなさった。何よりも自分はイエスの救いに預かった。そのような自覚と感謝があったので、神様には失敗はありません。私の人生はこれでよかったのです。私は素晴らしい人生を送ってきたのですと謝罪に来た人に告げたのです。

人間は失敗することがあります。しかし私たちの人生の失敗でさえ、神は美しく変えられる。クロスビーは、その神の恵みを知っていたのです。そして彼女の作った賛美歌の中にも、新聖歌340番の1節で、♪救い主イエスと共に行く身は♪・・・、♪ものごとすべてをよきになしたもう♪と歌っているのです。

クロスビーは自分の人生になされたことはローマ8:28そのものだ。「物事全てをよきに変えたもう」神様を賛美する曲を作ったのであります。

私個人の経験を少し申し上げさせて下さい。私は大学受験の時に、ある教会に泊めていただきました。牧師先生も教会にお住まいでありました。今から思えば厚かましいことですが、もし受験に合格したら、その先生の教会に通いたいと思っていました。

受験に出かける朝、早天祈祷会の前ですがお弁当まで用意して下さり、兄弟、一言祈ろうと言って下さいました。その祈りの言葉を私は今でも覚えています。「最善以下をなさらない神様、どうか兄弟の人生にあなたの最善を成してください」と祈って下さいました。

単純な私は、最善以下をなさらないのだから、合格に決まっている。そう思いました。しかし結果は不合格でした。1年予備校に通った後の不合格です。しかしその時、私は既に献身を決意しておりました。大学を出てから聖書学院に行くことを考えておりました。不合格となり、私はすぐに聖書学院に入りました。大学に不合格になって行くところがないから聖書学院に行ったと批判が遠いところから聞こえてきました。それでも私は、最善以下をなさらない神の導きがこれだと信じたのです。続きがあります。神様は、聖書学院で学んだ後、アメリカの神学校で学ばせていただくという道まで用意して下さいました。

私たちは神様の最善を短絡的に考えてしまいますが、神様の最善は、回り道をするようなことがあります。時間がかかることがあります。しかし神様よいお方です。すべてを支配しておられます。そして私たちにいつもよいことをしてくださるのです。

コロナウイルス感染の中でも、私たちは主の支配を、主権を信じております。そして、そのお方が、この試練の中でも良いものを生み出してくださる事を信じたいのです。

祈りましょう。