2020年5月31日 説教内容 「全地は一つのことばだった」

2020年5月31日 説教内容

                             「全地は一つのことばだった」 中道善次牧師

                                        <創世記11章1~9節>

  

エスの復活後、50日目に五旬節というお祭りがエルサレムでありました。これは春の収穫感謝祭です。大勢の人がエルサレムに集まっていた時、聖霊が降りました。たくさんの外国からの巡礼者がいた中、祈っていた人たちは外国の言葉で話し出した。この出来事が使徒言行録2章に書かれています。これがペンテコステであります。

世界には五千以上の言語があります。実際的な世界の言葉もそうですが、私たちイエスキリストを信じている者には、同じ言葉が分かる、と言われます。教会に来ると、「神の恵み」、「救い」という言葉を使います。アメリカにいた時に、クリスチャンの奥さんが、「私はイエス様によって救われたのよ。」と言うと、ご主人が「なにを言っているんだ。君は僕によって救われているんだよ。」と言ったという話があります。

やがて、このご主人は、イエス様を信じて、奥さんが話している「神の恵み」「救い」という言葉が本当にわかるようになりました。

3つのポイントでお話します。1、ハムの子孫 2天に届く塔 3、言語の混乱 

 

1、ハムの子孫

創世記11章の前の10章はノアの3人の子供たちの子孫の系図が書かれています。

セム、ハム、ヤフェトです。洪水の後、彼らに息子が生まれた、とあります。

創世記10章と11章は、大きな関連があります。

11章1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」

洪水後に生じた新しい人類は、一つのことばで通じる統一共同体でした。

そして、11章2節を見ますと、「東の方から移動してきた人々は、シヌアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」と書かれています。このシヌアルの地は10章にも出てきます。どの子孫がシヌアルの地に住んだのか、6節~10節で明らかにされています。皆さんの聖書をご覧ください。シヌアルとは、バビロンのことであります。

6節に「ハムの子孫は、」とあり、10節「彼の王国の主な町は、バベル、(ここに出てきます)、ウルクアッカドであり、それらはすべてシヌアルの地にあった。」

ハムの子孫が、シムアルの地に住んでいことがわかります。

ハムの子孫はだいたいがエジプトとメソポタミア南部に移住していました。

そのうちクシュの子ニムロデが特に有名です。彼は「地上で最初の権力者となった」(8節)と書かれています。カナンはのろわれてセムヤペテのしもべとなると言われている。 

しかし、その子孫から「力ある者」が生まれてきた。彼はどのようにして、権力者となったのだろうか。「彼は主のおかげで、力ある猟師になった」(9節)と言われていますが、これはどういう意味でしょうか。これは単に彼が猟師の能力があって成功者となったということではありません。彼は弓と矢をもって他の人を征服し、権力を握っていったに違いありません。

それでは「主のおかげで」と言われているのは、どういう意味でしょうか。確かに、彼は、主から与えられた能力によって狩猟において成功し、経済力や政治力を得たのでしょう。彼は主から与えられたものを、自分の権力を得るために用いたのです。そしてこのことがのちの人々に言い伝えられたわけであります。

彼の支配は最初はバベル(バビロン)とエレク(ウルク)とアカデ(アッカド)でした。これらの地はすべてシヌアル(バビロニヤ)にあったのです。その後彼は勢力を伸ばし、アシュル(アッシリア)に進出し、そこにニネベをはじめとする町々を建てたのです。

11章のバベルの記事がニムロデのバベルを意味しているなら、ニムロデの権力は本質的に神に逆らうものでありました。また、彼が建てたバベルの塔は自分の権力の拡大をはかったことになります。ノアの時代の洪水による神の新しい試みも根本的には解決していない人間の罪の拡大を意味していました。ノア以後、人類が再び生まれ、増えて、地に散らばって生きることが、神様の命令でした。ところが彼らは散らばることを拒否して、シヌアルの地に定着しました。11章3節で「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。」彼らが発明したれんがはアスファルトとあります。すごい技術文明です。しかし、彼らがれんがで町と塔を建てようとした動機は、神の御心に関係なく、人類が自由を強く主張して、自治社会を作ろうという試みでした。どんな社会、どんな町だったでしょうか?そのことを第二ポイントで話します。

 

2、 天に届く塔

創世記11章4節を見てください、「彼らは『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」

 彼らは建築の面でも技術を向上させました。「れんが」を造れるようになったのです。メソポタミヤ地方では、石は多く産出しないので、彼らは石の代わりに「れんが」を発明し、そのことによって以前よりも頑丈な建物を建てることが出来るようになったのです。やがてしっくいのかわりに、アスファルトを用いるようになりました。それによって、更に高い建物を建てることが可能になって行ったわけです。

 このような文化、技術の発達自体は悪いことではありません。ただ、その文明の発達、化学の発達が何を目的としているかが大きな問題なのです。この人々は、神の栄光よりも自分の栄光を求めるようになっていきました。4節の「天に届く塔」に注目して下さい。

ここで、彼らが建てた塔とは、多くの学者が認めているように、「ジッグラト」のようなものであったというのです。つまり、それは宗教的な建造物であり、「天と地の合う所」、神と人との交流の場と考えられていました。このような考えは、神を引きおろし、人を引き上げようとするもので、人間の高慢を表わすものです。

「われわれが全地に散らされるといけないから」(4節)とあるように、塔の建設は神への反逆でありました。人が神と離れる時、神との交わりを失います。神との一体感も喪失してしまうのです。その結果、人は互いに神を基盤にして交わることができなくなり、神から分離してしまうだけでなく、人からも分離し、孤独になるのではないでしょうか。しかし、人は神のかたちに造られたものとして、一人で生きていくことはできません。それで、人は互いに離れ離れにならないように、神を抜きにした一体感を求めていきます。その場合、人は神の代わりに、権力や知識、さらに偶像を神として、それらの中に一体の基盤を見出そうとします。このバベルの塔建設の動機はまさに、神を抜きにした一体感の追及でした。

また、この塔の建設は明らかに「地に満ちよ」との神の命令に反するものでした。

神から離れた人間は、「全地に散らされる」ことによって一体感を失うことを恐れ、神を抜きにした一体感の追及の結果として、この「塔」を建てたのです。

5節をご覧ください、「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。」人間のこのような企てに対して神は無関心ではおられなかった。神の介入は人間の救いであり、希望なのです。

私たちの人生にも神は介入されます。全くこんなはずではなかったのに、と思えることが起きてきます。2012年の1月に母の介護をするようになり、その頃は礼拝に出席し、時々奏楽奉仕とアッサシャーをするだけで、私は午後からの行事には出られませんでした。その生活が一変したのは、茅ケ崎教会の新会堂が与えられてからです。今度は、新しいビルの清掃やペンキ塗りを夕方までするようになり、帰ってみると真っ暗な中に母がじっと座っている申し訳ない状態となりました。それ以後は忙しくなってきました。でも、ずっと祈ってきていた特別養護老人施設に入所できたのです。本当にほっとして、この施設で楽しく過ごしてもらいたいと思っていました。しかし、1カ月少しで熱を出し、食べられなくなり、結局病院での長い入院生活となりました。こんなはずではなかったと思いました。

やがて鵠沼教会の兼牧が始まり、母が入院していた病院は辻堂にありましたから、茅ケ崎から鵠沼に行く時や帰る時、病院に寄りました。私たちの計画通りではなかったのですが、母の顔を毎日見ながら、兼牧が可能になって行ったわけです。それを思う時、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(伝道の書3章11節)のです。

神はこの聖書の個所でどのようにしてこの人間の企てに介入されたでしょうか。

 

3、言語の混乱 

 ここで「人間」と訳されている言葉は、「アダムの子ら」、つまり、もろい人間を意味しています。れんがを用いて「堅い」「永続的な」建物を建てようとした人間自身が「もろい」「一時的な」存在なのです。そして「主は・・・降りてこられた」とありますが、これは何という皮肉でしょうか。人間は、「天に届く塔を建てよう」としていたのに、神の側からご覧になると、それは神が降りてこなければならないほど低く小さいものだったのです。人間がどんなに自分の知識や力の限りを尽くして神に反抗し、「バベルの塔」を築こうとも、神の目にはそれはまことに小さく、取るに足らないものでしかない。

詩編2篇2〜4節「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方にさからうのか。『我らは、枷(かせ)をはずし縄を切って投げ捨てよう』と。天を王座とする方は笑い、、」

 主は御自身で考えられたのです、「人が神への反逆において一つ心になり、このようにして神に反逆する文明を築き偶像礼拝を追行していくならば、それはやがて手の付けられないものとなり、人類の最終的な破滅に至るであろう」と。

そこで主はこのような方法をとってこれを止めさせたのです。人間のことばを混乱させ、互いに意思の疎通ができないようにされたのです。これによって人間は一致して神に反逆することができなくなったのです。

神が人の言葉を混乱させた結果

  • 互いに意思の疎通(コミュニケーション)を持つことが難しくなった。
  • 神への共同の反逆がとどめられた。→8節「彼らはこの町の建設をやめた。」
  • 全地に散らされた。

これらのことは確かに神の裁きです。しかし同時に、神の備えでもあります。

なぜなら、神はこのように人を地の全面に散らすことによって、人を地に満たされたのです。神は人の罪にもかかわらず、神の本来の御心を行われます。そして人が互いにコミュニケーションに困難を覚え、互いに散らされることによって、偽りの一体感ではなく、真の一体感を求めるようにされたのです。

 現在、全世界には76億の人々が住み、159の国家が国連に加盟し、ウィクリフ聖書翻訳協会によれば、約五千の言語が話されていると言われます。それぞれの国が自分たちのことだけを考えると、戦争が起こり、人々は不幸になります。人類は一つであり、それぞれの民族の特徴を理解して互いに仕え合い、助け合うべきです。そのために、一人一人が、一つ一つの民族がその自己中心の罪を悔い改めて、キリストによる罪の赦しを受け、神の聖霊を受けることにより神における真の一体感を回復していかなければなりません。

 私たちの国、日本も過去の歴史に、鎖国時代がありました。他の国との交わりを断つことによって、アイデンティティーを確立としました。しかし、その時代は本当に閉ざされた、内側で戦争がおき、政治が不安定な時代でありました。

 現代社会においても、世界は発展を遂げ、宇宙に行けるようになりました。たくさんの飛行機が飛び、世界を自由にどこでも行ける時代です。こんな小さな携帯電話で地球の反対側にいる人と話ができる。こんなことは私が子どものころには考えられませんでした。

しかし、人の心はどうでしょう?このバベルの塔の時代のように国家統一を図ったり、ニムロデのような指導者と思える人物や国があるかもしれません。

今回、わたしたち世界中の人が、新型コロナウイルスに苦しめられました。私たちは、目に見えないウイルスによって、多くの人が亡くなり、誰がかかるかわからない不安をもっています。世界経済は下落し、たくさんの人が職を失いました。外出しないでください、と言っても出かける人がいる。自治体が決めたことが守れないでお店を開く人もいました。不安になってものを買い占めるので、トイレットペーパーから、マスクから消毒液や食物まで少なくなっていく。3月に入った頃でした。まだ緊急事態宣言が出る前でした。祈祷会から帰る車の中で、照内先生が「クリスチャンは、お腹がすいてもやはり、人々が買い占めても我慢する人なのでしょうね。」と言っておられました。でも、その通りのことが起こってきました。飲食店はたいへんです。職を失う人も出ました。このような状態で、全体のことを考えると誰かが損をするわけです。

聖霊の実の中に「自制」という実が9つ目にありますが、この自制を持って愛が全うされます。それは、聖霊によらなければ、ストレスに繋がるただの我慢です。

「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、忠実、柔和」の御霊の実があって、自制の実は実るのです。他の人を顧みないで、自制は持てません。

五旬節の日に、聖霊バプテスマを受けた人々はどうなりましたか?

人類の救いを願う同じ願いに心燃やされ、福音を携えて各地に散らばっていきました。神様は、弟子たちに、主を信じる者たちに言葉を託されました。聖書は、人類の歴史の中で何度も消滅するかもしれない迫害を受けながらも、今も世界のベストセラーとして読まれています。今も言語の壁を乗り越えるようにして、宣教師たちは言葉を学び、文化を学び、福音を世界の人々に伝えているのです。

神の言葉は力があり、聖霊を通してこの言葉が伝えられる時、人々は本当に主に在って一つとなっていくのではないでしょうか。