2020年6月14日の説教要約 「恐れるな」

2020年6月14日の説教要約

                                      「恐れるな」     照内幸代牧師

                       <使徒言行録 18章5節~11節>

 

 

ユダヤ人と絶交し、異邦人たちとのみ交わりをもって成功し始めたパウロに、神様は「黙っていてはいけない」と言います。なぜ黙っていてはいけないのか、なぜ関わることをやめてはいけないのか、神様は二つの理由をあげています。一つが、「私があなたと共にいるから」ということです。

 

私たちが人を愛そうと思う時に一番感じること、それは自分の内にはそんな愛がないということではないでしょうか。私たちだって神様に救われたクリスチャンですから。多くの愛を受けた者ですから、そりゃあ隣人を愛して生きていきたいと願っています。誰にでも親切に、イエス様のようになりたいと願っています。しかし、自分の内にはそうする力がないということに気が付くのです。リック・ウォレンというアメリカの牧師がいるのですが、彼は、人を愛する力というのは、イエス・キリストの内に隠されていると言います。イエス・キリストの復活の力を体験すること。それが自分自身を変える力になるのだと言います。そこで彼は三つのことを勧めます。それは、「愛を思い出す」こと、「悔い改める」こと、そして「初めの行いをする」こと、その三つです。そしてその三つのことは、神様から流れてくる愛によって可能になるのです。

 

もう一つ、神様がパウロに「黙っているな」とおっしゃった理由があります。それは10節の後半にありますように、「この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」ということです。このコリントの街にやって来た理由は、パウロからしたら偶然のような側面があったかもしれません。しかし神様からしたら、それは偶然ではなく必然だったのです。神様はパウロが孤独であったとき、ちょうどローマの迫害から逃れてきたプリスキラ・アクラ夫妻、それも同業者であった二人を備えてくれました。またアテネの街で待っていたけれども上手く合流できなかったテモテやシラスとも、携帯電話も何もない時代に上手く合流することができました。

これは全て神が、パウロが愛しにくい隣人を愛するようにと備えてくださった祝福と恵でした。なぜならば、この町にはパウロの宣教を待っている神の民が大勢いたからなのです。ではなぜパウロはこんなにも苦労しなくてはならないのか。ウォレン先生は先ほどの書籍の中でこのように書いています。「愛すべき人たちや、自分と似たような人たちを愛するのは簡単です。しかし、私たちに本当の愛を教えるために、神は愛しにくい人たちを私たちの人生に置かれます。神は『愛しにくい』人々との関係を通して私たちを訓練し、私たちに愛することを教えようとされるのです。平和な状況の中で平安を保つことは簡単です。そのような状況では、練られた品性は必要ありません。しかし神は、全てが音を立てて崩れていくような全くの混乱状態の中で、『平安』を教えようとされます。」

このことを覚えるとき、まず忘れてはならないのは、神がまず私たちを諦めなかったということではないでしょうか。神が、愛しにくいどころか、神に敵対する私たちを愛して、御子をくださり、この命を惜しんで救ってくださったということではないでしょうか。その究極の愛を教えられた私たちが、それに応答して愛しにくい隣人を愛するということです。

 

11節を見ますと、「そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」とあります。

パウロは神様の語り掛けを聞き、そこに腰を据えるという決断をしました。一年六か月そこで暮らすということは、あの頃ものちりを振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私は責任がない」と言い放って絶縁した、あのユダヤ人たちとも引き続き関わりを持っていくということになります。一年以上そこに暮らしていて、関わりをもたないということは不可能です。

今週も私たちは、神の愛する子、キリストの弟子として社会に派遣されていきます。ウォレン先生は書籍の中でこう書いています。「人の必要に敏感になってください。私たちが出会う全ての人は、人から親切にされることを望んでいるからです。みんな心のどこかに、傷をもっているからです」。かつて手負いの私たちが神様の愛によって癒されたように、今週私たちも、やさしさを必要としている人たちに愛を分け与えていきましょう。