2020年6月28日の説教要約
「主にある適応力を身につける」 中道善次牧師
<フィリピの信徒への手紙 4章11~13節>
コロナ感染の中で思い出したメッセージの一つは、パウロがフィリピの信徒に語っているメッセージでありました。
フィリ 4:11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
フィリ 4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
フィリ 4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
アメリカにおりました時、ロスアンゼルスの紀伊国屋書店で一冊の本を見つけました。それは、「日本人の海外不適応」と言う書物でありました。1986年ごろのことです。そのころ日本はバブル時代に入っていました。多くの駐在員がアメリカにやって来ました。
ある駐在員の家族のことであります。ご主人は、毎日会社に出かけます。奥さまは英語が出来ない。そして、すぐに子どもが生まれる。自動車の運転も出来ない。歩いて行けるマーケットに買い物に行くのも、英語を話さなければならないので怖い。生まれたばかりの子どもと二人で、一日中アパートで過ごす。そのような方がおられました。
こんな生活をしていてはいけないということで、彼女と知り合ったクリスチャンの方が家庭集会に誘われました。ほどなくその人は、クリスチャンになられました。
当時私は、ある駐在員の集会を任されておりました。駐在員の家族の方に、適応障害で悩む方が多くおられました。それは海外不適応でした。そのような中で見つけたのが、NHKブックス「日本人の海外不適応」(1980年出版)でした。
その本では、島国に住む日本人は、環境への適応力が弱いと指摘されていました。
海外だけでなく、日本の中でも、いろいろな環境の変化に適応するのが日本人はあまりうまくないと指摘されていました。
その本には、適応の5つの段階が紹介されていました。
1)移住期
これは新しい環境になれるための無我夢中の時期です。本人は現地に対してきわめて新鮮な気持ちを持ち、急激な環境変化に適応すべく無我夢中になっているのです。
2)不満期
これは、拒絶期であります。移住期に続いてあらわれ、個人差はありますが、誰にも必ず訪れます。移住期の緊張が一応収まり、衣食住は何とか整うし、職場や対人関係にもやっと一通りなれてきてほっとしたころから始まる。どうしこの国はこうなのだろう、という不満です。
3)諦観期
これは諦めの時期で、現地というものはこんなものだとか、この程度は「仕方がないさ」などとあきらめ、あるがままに現地を受け入れる。一種の悟りに達するわけですが、その国や場所が好きになったわけではないのです。
4)順応期
そしてついに、適応する時期がくるのです。無理なく、現地での生活を楽しむことができる。新しい環境で、しっかりやってゆけるのです。
5)望郷期
最後に、望郷期がやってきます。いったん適応期に達した人でも、あとで内地への望郷が強まり、それに支配される時期が来る。海外に移住して長年住んだ日系人もやはり日本が恋しくなるのです。
海外に移り住んだ人の適応のプロセスを、コロナ感染に伴う新しいライフスタイルへの適応にも当てはめることができると思います。
牧師夫妻は、最初、礼拝が出来ないことにやりきれない思いをしました。
次にオンライン礼拝に取り組み、必死でした。週報を早めに印刷し、郵送する。投函する。訪問する。HPを聞けない人のために、CDを作って渡す。
ようやくオンライン礼拝のスケジュールに順応してきたところで、礼拝が再開となりました。
適応力が問われております。
フィリピの信徒への手紙を書いたパウロは、あらゆる環境の対処できる力をイエスから与えていただいたというのです。
パウロはリッチな家庭環境の中で生まれ育ちました。
彼は生まれながらにローマの市民権を持っていたのです。特権階級でした。
タルソという現在のトルコの東南の都市におりました。若い頃、エルサレムに留学したのです。当代一のガマリエルの門下で律法を学びました。
パウロは、エルサレム以外の出身者でしたが、ユダヤ人の中でリーダーシップを取りました。
その一つが、ステパノを石で打ち殺す時に、命令をする立場にあったことです。
お金に困ったことなど一度もなかったと思います。
そのような中で、パウロはダマスコ途上でイエスに出会い、救われ、ユダヤ人以外の人々に福音を伝える宣教師となったのです。
宣教には迫害が伴いました。パウロは何度も投獄されました。獄中書簡と言われるフィリピの信徒への手紙の中で、パウロは経済的な苦境を訴えているのです。
当時の牢獄での生活は、ローマ政府が衣食住を支給してくれたわけではありません。サポートしてくれる人々にお願いしなければ、住居も食べ物も着るものもなかったのです。
パウロは、冬を過ごすコートが手元になかったのです。テモテ第二の手紙では、それを牢獄にいる私の所に持って来てほしいと願っているのです。そのような貧しい生活を今送っていたのです。
しかしどのような環境の中におかれても、順応する、適応する力をイエスが与えて下さる。そのように述べております。それがイエスにあってすべてのことが可能であるという意味であります。環境に適応するのです。
適応のもう一つの秘訣をパウロは、テモテ第一の手紙で述べているのです。
テモ1 6:6 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。
テモ1 6:7 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときには何も持って行くことができないからです。
テモ1 6:8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。
イエスを信じることによる満足に生きるのです。
私たちはまだ、これからコロナ感染の状況がどうなるかわからないのです。
ウイズ・コロナと言われても、どのように生きてゆくのかまだ分かりません。
しかしどのような環境の中でも、私たちは、イエスにあって満足する。それを身につけさせていただき、主にある適応力を持って歩んでゆきたいのです。