2020年7月19日の説教要約 「聖餐式の恵み」

2020年7月19日の説教要約

                        「聖餐式の恵み」    中道由子牧師

 

《一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。》

                                                          (マルコによる福音書14章12~25節) 

 

現在、新型コロナウィルスの影響により聖餐式を持つことができません。毎月当たり前のように預っていました聖餐式ですが、今日はみ言葉と賛美を通して恵みを味わっていただきたいと思います。

 

1,過越の食事

皆さんは最後の晩餐という有名な絵を知っておられると思いますが、実際的には、椅子に座って食事をしたのではなく、左肘を下にして足を投げ出し斜め横になりながら、日本でいうお膳の高さ程度のテーブルの上で、お箸もフォークも使わずに、手で食事をしていたのです。

 また、ここでは2度の食事が為されたようです。前半はユダヤ教の伝統のお祭り、過ぎ越しの祭りの「過ぎ越しの食事」です。

エジプトの奴隷から救い出された事を記念する食事です。旧約聖書にあるイスラエルの民のエジプトからの大脱出の時に、神さまが「過ぎ越の食事」をするように言われました。エジプトでの奴隷生活の苦しみを覚えて苦菜、種入れぬパン、そして小羊を食べました。家族ごとに羊をほふり、その血を門に塗り、犠牲の羊を食べました。その夜、主のみ使いが、エジプト中の長男の命を奪うために来たとき、羊の犠牲の血が鴨居に塗られた家は、そこを過ぎ越して、悲劇から守られたのでした。過越の食事にあらわされる「エジプトの奴隷生活からの解放」は、私たちにとっては「罪の奴隷からの解放」を意味しています。

新共同訳聖書には、12~21節までは「過ぎ越しの食事をする」という表題がでています。そして、22節から26節を見ると「主の晩餐」となっております。

22節にはもう一度、「一同が食事をしている時」という表現があり、食事がやり直されていると言ってよいと思います。ある学者は、マルコはここで過ぎ越しとは区別された2回の食事を書いているのではないかと言っています。

最初は昔ながらの過ぎ越しの食事で、ここには裏切り者のユダも一緒にいた。

しかし22節からの「主の晩餐」、これは最後の晩餐ではなく、むしろ主にとっては、最初の晩餐、聖餐式だったのです。この場所にはユダはもういないのです。イエスを裏切るために食事の区切りがついたところで出ていった、と考えられます。

ユダヤの人は、パンを食べる時にソースをつけて食べたのです。イタリヤ料理店にゆきますと、パンにオリーブオイルやバルサミコ酢をつけて食べるのですが、そのように、パンを食べる時につけるソースの小皿があり、そのソースにパンを浸して食べられるようにして手渡すという意味です。そのソースのお皿はイエス様も一緒に使っておられた。同じソースにパンをつけて食べるほどの仲だった。ある説教者は、これを日本流に言うと、お醤油を入れる小皿を二人で一緒に使った。それは親しい間柄でないとしませんと語られました。そのぐらい親しい、関係にユダとイエス様はあったのです。イエス様が私の親しい友達と呼んでいたユダが、事もあろうにイエス様を裏切ってしまった。イエス様は、ユダに対して最後まで悔い改めのチャンスをお与えになりました。

また、バプテスマのヨハネが、イエス様に会った時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネによる福音書1章29節)と言いました。

エス様は、神の小羊として、血を流し命を捨てることで、十字架の救いの道を開いてくださいました。キリストが十字架で負われた痛みはすべて私たちの人生で背負う苦しみや悲しみ、病をも背負い、癒すものです。聖餐式の中で、私たちは主のこの受難を思い起こし、自らの行い、心の汚れをきよめ、赦していただくように悔い改めをまずささげます。そして、恵みを注いでいただくのです。これは大切なことです。

コリント教会の人たちは、聖餐式を受ける時そのような思いもなく、ただ飲み食いしていたのです。パウロは、コリント信徒への手紙一11章27節で「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」と言っています。

聖餐式は主の前に自らのあり方を、正される恵みの場であることをここで明らかにしておきたいと思います。壊れた人間関係が示されるときは、赦しと回復を祈りましょう。聖餐式の時、何かの問題を思い起こしたり、誰かの顔が思い浮かぶとき、それは私たちの心の中心を占めているものなのです。赦しが必要であったり、解放が必要であったり、自分がこだわっているものを明け渡すことが必要であったりします。日々の生活の中で、私たちが自分の心のうちを見る時間がなく、なおざりにしている事柄が明らかにされる、聖餐式は神の前に心を開くチャンスなのです。

 

2,主の晩餐

22節から主の晩餐が始まります。ここで注目したい言葉は、「私のからだを取りなさい、私の血を飲みなさい、」という言葉です。それは一言で言うと、イエス様の命そのものである、イエス様の命を食べる、イエス様の命が体の中に入る。そういう事であります。カトリック教会の人々は、これを文字通り信じています。それを仮体説というのですが、彼らは口にしたパンと葡萄の汁が、体の中で変化して、ぶどう酒はイエス様の血になる、パンはイエス様のからだ(肉体の一部)になる、その様にして文字通りイエス様が、私のからだの中に住んで下さる、と信じているのです

私達は、仮体説を信じていません。しかし、単なる象徴として、これは唯のパンで唯の葡萄のジュースというような扱いをしません。これは聖なるものですから、大切に扱っています。私達は、文字どおりのイエス様の血と体ではないけれども、イエス様の霊的な存在、臨在といいますが、それが濃厚に表される、それが聖餐式の場所であると信じているのです。ジョン・ウェスレーは、聖餐式が執り行われるその場に生けるキリストが臨在すると考えました。「私たちは今、パンとぶどう液を受けようとしています。どうか、御霊と御言葉によってこれらを聖別してください。」と聖霊に呼び求めて、聖別の祈りを捧げます。聖霊の臨在によって聖餐のパンとぶどう液はキリストの体と血とされるからです。パンもぶどう液も実体は変化しませんが、聖霊が働いて、キリストの体と血による新しい契約が、聖餐を受ける人の心に宿るのです。聖餐は、私たちの心を新しくし、神の御心によって聖別し、愛に生きる奉仕者と造りかえる恵みのチャネルなのです。目に見えない霊的な恵みである福音を、眼で見、手で触れるかたちを持って表し、伝える恵みであります。

 説教が難しくってどうもよく分からないと言う方がいらっしゃるかもしれません。

しかし、理屈ではなく、体で分かる、体で感じる・味わう、聖餐式にはそのような恵みがあるのです。イエス様が文字通り貴方のからだの中に入られる。食べる事によって、貴方が食べたパンと葡萄ジュースが、貴方のからだの中にあるように、イエス様が貴方のからだに中にいる。パンと葡萄ジュースが消化されて貴方のからだの一部となるように、イエス様も貴方の中に入り込んでおられる。

洗礼式もそうです。体に水を浴びるのです。体で覚えるのです。感じるのです。それによって、新しく生まれ変わったことを確信します。人間は口に入れたものであるとか、体全体で感じた事を覚えているものです。聖餐式において、十字架の真理を理屈抜きでありがたいと感じるわけです。

また、聖餐式の恵みは、奇跡の手段です。パンと葡萄ジュースの中にイエス様の濃厚な臨在が溢れ、そこに奇跡が起こる事を期待する事が大いにあってよろしいのではないでしょうか。カトリック教会でも癒しのミサという集会案内があるそうです。ミサ、つまり聖餐式の中に癒しや奇跡を期待するのです。

 最後に、共に聖餐を受けることによって、教会に一致が与えられます。

使徒信条で、「我は・・・聖なる公同の教会を信ず。」と唱えますが、聖なる公同の教会とは、ひとつの教会・キリストの体であるという信仰告白です。

聖餐式で食するパンが、それはひとつのパンから裂かれた、一つのパンの一部であると言うこと、私たちがキリストの体なる教会の一部として生きることです。

教会は主の体、主の主権の元にあります。