2020年8月2日の説教要約  「聖別への道」

2020年8月2日の説教要約

 

                                「聖別への道」   中道由子牧師

      

≪「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くならわたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」≫

                                                                                (創世記13章1~11節)

 

人生には分かれ道があって、親しい人と別れなければならない、悲しいことも起こってきます。死別という別れではなく、人とたもとを分かつ時もあり、大きな決断をしなければならない時もあります。アブラムの人生の中には何度もそのことが起こってきます。今日は甥ロトとの関係に光を当てます。

 

1、平和を愛する人

 ロト彼は、父親の遺産を受けつぎ、自分の状態をいっそうよいものにしたいとのひそかな望みを抱いて、叔父と一緒に砂漠を渡って来たのかもしれません。ロトは、神への従順によって行動を起こすのではなく、友人が誘うからという理由でただ後に付いていく、見本のような人です。アブラムの周りにある未知なものへの魅惑をロトは感じたことでしょう。ロトは、自分も一緒に行こうと決心したのです。甥のロトはアブラムがウルを出発した時からいつもアブラムに付き添っていました。それゆえに、彼はアブラムに対する主の祝福に預かることが出来たのです。その結果、富む者になりました。しかし彼は自分なりの財産を築き始めた時、zだのではないでしょうか。

 貧しい時には互いに助け合っていたのに、お互いが豊かになってくると争いが起こることがあります。アブラムとロトの場合もそうでした。

13章6節「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。」

貧しい時には互いに助け合わないと生きて行くことが出来なかった。しかし、豊かになると、互いに不満を抱くことが多くなってきたのです。箴言にこのようなみ言葉があります。

箴言15章17節「肥えた牛を食べて憎み合うよりは青菜の食事で愛し合う方がよい。」

私たちにもそのようなことがあるかもしれません。苦しかった時は力を合わせてきたのに、成功してうまくいくようになって人間関係が壊れてしまう、といったことです。

 7節で、ついに事件が起こりました。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。おそらく牧草地が少なかったので、お互いに権利を主張して争ったのでしょう。その原因は牧者たちにあると言うよりも、主人であるロトの中に謙虚さが欠けていたためではないでしょうか。それが、僕である牧者たちに少なからず影響を与えていました。その結果、問題は放置しておくことができない段階にまで進んでしまったのです。その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいました。もしアブラムとロトとの間に争いが起これば、これらの異邦人の前に主の民として証にならないだけでなく、物笑いの種になるでしょう。主の民は争ってはならない。アブラムは、牧者たちの間の争いが、やがて自分とロトとの争いに発展する危険性があるのを見て取りました。アブラムは争いの原因を突き止め、それが絶えず同じようなトラブルを引き起こしているのを見て取りました。もし彼が、激しい口調でロトに語り掛けたら、ロトも同じような気持ちで答えて、そのため、ふたりの間に溝ができてしまってことでしょう。そこで、アブラムは、二人が別れた方が良いと申し入れたのです。

彼は平和を愛する人でした。何とかこの争いを避けたいと考えました。

 本来なら、ロトの方から申し出るべきでしょう。アブラムは叔父であり、年長者であり、アブラムゆえにロトは豊かになった。しかしアブラムは豊かな地を優先的に取ったでしょうか?彼がそうしても誰も文句を言わないでしょう。しかし、アブラムは自分の権利を捨ててロトに優先権を与えました。彼は自分の富に固執せず、神の御心を行うことを選び取ったのです。彼は人間的な計算ではなく、信仰によって行動しました。これは、すごいことだと思います。

 ロトはどうだったでしょうか?ロトは目を上げてヨルダンの低地全体を見渡したのです。彼の眼はすでに物質的な欲望のゆえに曇っていました。そのような目でみると、ヨルダンの低地は隅々までよく潤っていて、作物や牧草が豊富にあるように思われました。謙虚さに欠けていたロトはアブラムの提案を遠慮なく、自分の利益を中心に行動して移って行きました。ソドムの人々は、道徳的にも霊的にも堕落していました。表面的には物質的な繁栄を誇っていたのですが、その底には非常に大きな問題がありました。ロトは、ソドムの近くまで天幕を張りました。彼はそれらの町の繁栄に心を奪われ、大きな影響を受けて行ったのです。 

そして、二人が別れてからすぐに、アブラムが助けなければならないことが起こってきます。

 

2、神に栄光を帰す生き方

主が共にいてくださり、主のお約束があれば、アブラムはどこにいても祝福されるのです。アブラムは祭壇を築き、主を礼拝してまた新しい一歩を踏み出します。

程なく、大きな戦争が起こります。14章を学びます。ここは、アブラムとロトの関係が終わっていなくて、続いていることを示しています。この章の出来事は、聖書の歴史が決してこの世の歴史と分離したものではないことがわかります。神はすべての歴史を支配しておられることを示しています。この戦いは、12年間、ケドルラオメルに従っていたソドム、ゴモラの王たちが彼に背いたために、ケドルラオメルとその連合軍がソドムの王たちを再び配下に置こうとして始めた戦いでした。ケドルラオメルの連合軍は次々に諸国を打ち破り、ソドムが支配する地に押し寄せて来ました。向かうところ敵なしという破竹の勢いでした。そして、戦いの結果、ソドムとゴモラの王の連合軍の完敗となり、その財産、食料全部も奪われてしまいます。これが、ロトが自分の見える所に従って選んだ結果でした。アブラムは、それ見たことか、と黙って見ていただけだったでしょうか?彼は、ソドムが略奪され、ロトも捕虜として連れて行かれたことを聞くと、軍を上げて助けに出かけて行くのです。ここが、アブラムの偉い所です。たとえ、自分に逆らった身内でも、犠牲を払って救助しに行きます。

私たちは、自分を認めなかった者が苦境に陥った時、どのようにするでしょうか?アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻しました。聖書には、ロトがアブラムにお礼を言ったと書かれていません。しかし、ロトの顔が目に浮かぶようです。

 アブラムが戦いに勝って帰って来た時、彼を迎えた2人の人物がいました。助けられたソドムの王と、同じ連合軍のサレムの王メルキゼデクです。

 まず、14章でサレムの王、メルキゼデクが疲れているアブラム一行をもてなそうとします。

サレムという地は、やがてエルサレムとなる地名です。その王が、パンとぶどう酒を持って、アブラム一行をねぎらおうとしてくれた。これは、本当にありがたい心遣いです。アブラムたちの肉体的な必要に満たそうという配慮とアブラムの労苦に対する感謝を見ることが出来ます。彼は王であるとともに祭司であったと書かれています。ここで、メルキゼデクはアブラムを祝福しています。彼は、いと高き神が天と地を創造されたことを信じていたのです。その神からの祝福がアブラムの上にあるようにと、祈ったのです。メルキゼデクはアブラムの今回の行動が神が祝福されたものであったことを確信し、勝利が神の助けによるものであることを知って、神に栄光を帰したのです。アブラムはこのメルキゼデクから肉体的な必要と霊的祝福を受けました。これに対してアブラムはすべての物の十分の一をメルキゼデクに与えたのです。

 次はソドムの王です。彼は、捕虜の中にはいなかった。たぶん彼は、戦場からうまく逃げたため命が助かったのでしょう。アブラムの勇敢な進撃隊が勝利を収めたと知ると、アブラムを迎えるために出かけてきたのです。彼は、アブラムにとって人間的には誘惑になることを語ります。21節「ソドムの王はアブラムに、『人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください』と言った」。

しかし、アブラムはこの提案を受け入れません。恐らく、ソドムの王の中に神に対する信仰を見ることができなかったからでしょう。アブラムはソドムの王に言いました。22、23節「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。 あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。 わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」

アブラムは、自分が治めた成功については世のものとは一線引いていったのです。しかし、自分と一緒に戦ってくれた若者に対する分け前は、いただきます、と配慮し、自分の信仰を若者たちにまで強要はしませんでした。彼の物に対する生き方には筋が通っています。

 リビングライフ6月号の黙想「すべての状況を治められる神様」を紹介します。

「いくら真面目に頑張っても、うまくいかないこともあり、精密な計画が水の泡に帰してしまうこともあります。経営に優れた人でも、経営能力とは関係のない問題が突発的に起こると、どうしようもありません。人間関係も同じです。非常にささいなことで誤解が生じ、予想もしなかったことが起こって関係が壊れることもあります。自分の気持ちでさえうまくコントロールできないのに、人との関係をうまくやっていくことは、どれだけ難しいことでしょうか。そのような中で、なぜ信仰が大切なのでしょう。信仰とは、目の前の状況ではなく、その状況を益に変えてくださる神様を見つめることです。私の人生に起こった出来事の断片的で互いに関係がないように見えても、神様はすべてを働かせて益としてくださいます。神様の視点で見れば偶然はなく、価値のないものはありません。昨日まで私を苦しめていたことが、今日私の人生に祝福をもたらしてくれることもあります。すべての状況を治めておられる神様と、そのみ言葉だけに従って通過するなら、必ず道は開かれます。99%だめだとしても、神様が行われるなら可能になるのです。」