2020年11月15日の説教要約   「神と過ごす祈りの時」

2020年11月15日の説教要約

                          「神と過ごす祈りの時」  中道由子牧師

≪「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」≫

                                                                      (マタイによる福音書6章5~8節)

 

本日は、祈りについて学びます。

 

1,誰に祈るか

祈りは人間の最も自然な行為です。どんな国民も、どの時代にも人間は祈らざるを得ない。祈りは習得するものではなくて、本能的なものだということです。

私たちの人生は、自分の手に余ることがある。耐えられないほど緊張するとき、試練で抵抗できなくなる時、悩みがある時、心が張り裂けそうになる時がある。そんな時祈ります。「神様助けてください。」

祈りが自然なことなら、何も学ばなくてもいいのでは?と思います。しかし、私たちが自然にできること、たとえば呼吸すること、歩くことでも、正しい方法と悪い方法があります。それを正しく用いないからうまく使えないこともあります。ピアノやギターの弾き方だって、車の運転やパソコンの用い方、料理の仕方だって、用い方を教わると大きく違ってきます。私たちはだいたい、子供の頃からある種の方法で祈ることを教えてもらいます。けれど、年がたつにつれてだんだん祈りから離れていく人がいます。そのような人も一生懸命祈ったことがあったでしょう。でもたぶん祈っても役に立たなかったから、祈りを止めてしまったのでしょう。祈りを辞めた理由は、本当は、正しい方法を教えてもらわなかったからだと言うのです。

尊い賜物を持ちながら、それを用いる方法を知らなかったわけです。

まず、私たちは誰に祈っているかというと、神様です。

 イエス様が語られた2つのたとえを見てみましょう。

一つは、ルカによる福音書11章5~8節「真夜中の友達」のたとえです。

夜遅く一人の旅人が来て、時間がたいへん遅かったからその人は旅人に食べさせる食べ物がありませんでした。それで、その人は、真夜中であったけれど隣の家に行って、パンを借りるために、その家の門をたたきました。恥も迷惑も顧みず、門をたたき続けました。ついに寝ていた家の人は起き上がり、門をたたく人に必要なものを与えざるを得なかったのです。

次は、ルカよる福音書18章2~7節「無情な裁判官」です。

 ある町に、公平な裁判をしてもらいたがっているやもめがいました。その同じ町に、一人の無情な裁判官がいました。誰もがこれまで、かなりの賄賂を使わないと、その裁判官から有利な判決を受けることができませんでした。やもめは貧しかったので、賄賂を持って行くことができません。でも、やもめには別のものがありました。執念です。彼女は、この裁判官の所に何度も何度も行って頼み、ついに無情な裁判官はその執念にうんざりして、彼女の求める裁判をしてやりました。

私たちは、このたとえから私たちが繰り返し繰り返し長く祈り続けるなら、自分の欲しいものが得られるようになる。神様は屈服して私たちの要求に応じてくれると思ってしまいます。私たちの神様はしつこく頼んだらいやいやながら私たちに必要なものを与えてくれるようなお方でしょうか?神様はここのたとえで表現されているよりも、はるかに超えたお方であります。

 

2,神様はどのようなお方か

私たちが祈る時の神様のイメージはどのようなお方でしょうか?

「私は仕事中で忙しいんだ。お前の個人的な必要のことで、私を煩わせないでくれ。私は、お前だけじゃなくて、みんなの世話をしたいんだから。」とおっしゃるでしょうか?私たちもまた、「神様は宇宙の秩序を保つためにお忙しい。私のちっぽけな問題に耳を傾けたいなんて思えない。神様を愛しているのなら、自分のことは後回しにするべきだ。」また、「神様は、私が自分の必要を祈ったら、私のことをわがままだとお思いになるかもしれない。」と遠慮しておられる方はいらっしゃらないでしょうか?

「子供の教育費が大変で」とこぼしている親御さんがいても、自分の子供たちに教育を受けさせることは、親の喜びです。その苦労は、たいしたものではないはずです。神様は気前のよいお方です。

ルカによる福音書11章13節「「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

愛情深い天の父なる神は、私たちが必要としている物以上のものをいつも与えたいと思ってくださるお方です。神様は私たちが求める以上に、ずっと先を考えてくださいます。ですから、神様のことをパンを頼みに行った隣の家の人のように、冷たい裁判官のように感じると祈りの習慣をやめてしまう残念なことになります。

ローマ書8章32節「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

神様は一番大切な御子イエス様さえ私たちにくださったお方です。

 

3、祈りの法則について

 大切なことを3つ紹介します。

一つは、祈りが真実であることです。マルチン・ルターは祈りの中で「神に嘘を言わないこと」だと言いました。私たちの誘惑は、このような言葉で敬虔な言葉で祈るということに気を使います。それで、自分がちっとも願ってもいないのに、どうぞ主よ、お願いいたします、と祈ったりすることがあります。本当の自分の気持ちを神様に話すことが大切です。

もう一つは、自分さえよかったらいい、利己的な祈りにならないことです。私たちは時々、他の人々のことはどうなっても構わないように、自分が世界の中心であるかのような祈りをすることがあります。自分の人生に起こるすべてのことが、特に自分の人生の益のために準備され、自分のために調整されるべきであるかのように祈ることがあります。他の人のことを忘れた祈りは、望んでも常に聞かれるとは限らない。人類は神の家族です。あなたの願いが他の人にとってもよいことに導いてくださるお方です。

3つ目の法則として、神様は私たちができることを、私たちのために代わりにしてくださらないということです。神様は私たちができることをなさいません。私たちができることは私たちを通してすることができる力を与えてくださいます。私たちの力の及ばない分野で神は力を現されます。

 

4,祈りの計画が必要

ジョン・パイパーの短いお勧めに「祈りの計画をたてる」ことが大切と言っていました。

Go to travel という言葉を聞きますが、もし皆さんが1週間休みを取るなら、その日の朝起きて「どこに行こうかな?」ということはないと思います。何も計画をしなければ、結局どこにもいけません。でも祈りの時をどうやって持ったらいいかわからない多くの方々は、計画がありません。

計画がないと、いつまで経っても祈りの習慣は持てません。

まず、第一の大切なこととしてその時間を計画してみてください。

エス様は朝早く父なる神に会いに行きました。朝が一番誰にも邪魔されなくて、精神がしゃんとしているからです。でも皆さんにとって夜が都合がよければ夜でいいと思います。一番、リラックスできる心地よい方法で神様と話してみてください。聖書のどこから読むか、何章読むか、あるいはどんな本を用いるか、考えてみてください。

好きな賛美やその時心に浮かんでくる賛美を歌って祈りを始めてみてください。主の祈りは私たちのお手本です。これは、主を崇める、告白、感謝、嘆願で最後にもう一度神の栄光が現わされるように、という内容になっています。形式通りにする必要はありません。ただ、計画がないと、私たちの神様へのお祈りも、嘆願が中心になってしまうからです。

ある人は、辛い時や悲しいことや苦しいことが起きた時だけ祈りに神様の所に行きます。もし皆さんの友だちでそのような人がいたらどうですか?頼りにしてくれているのだろうけど、その友達はあなたと本当に友だちですか?本当の友だちは、嬉しい時も特別なことがない時も一緒にいて話せる楽な存在です。イエス様は、そんな友だちになりたいと私たちのことを思ってくれています。特別な時に会うカウンセラーだけじゃなくていつでも共にいて、普通の言葉で話せる本当の友です。