2021年1月10日の説教要約 「私の顔が一緒に行く」

2021年1月10日の説教要約

                      「私の顔が一緒に行く」   中道善次牧師

 

  「私が自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」

             ≪出エジプト 33章12~14節≫

 

旧約聖書を読む時、私たちは顔で人を判断するのと同じように、神様を表面的に理解しようとします。旧約聖書で描かれている神様の一般的な印象は、「恐いお方」という印象です。特に罪に対して、厳しい。しかし旧約聖書をよく読み、理解してまいりますと、旧約聖書に登場する神様もまた大変優しいお方であることがわかります。

今日は、出エジプト33章から、神様の優しさを学んでまいりたいと思います。

 

1, お気に入りの自覚

日本人のユダヤ教学者の本では、旧約聖書では神様を大変人間くさく描いていると言います。

また聖画を解説して、メッセージを語る牧師も次のように語ります。聖画では、神を人間の姿のように描くが、それは神を理解しやすくする為である。

神が人間臭く描かれているのが、出エジ33章であります。

この箇所は、モーセのとりなしの祈りの第二弾であります。金の子牛を拝んだイスラエルを赦してくださいと命がけで執り成した32章に続く祈りであります。

イスラエルの赦しを32章で祈ったあと、33章では、神様、変わらずに一緒にいて、民を導き上ってくださいという祈りであります。

ところが神様の側では、たいそう機嫌を悪くされ、もうこの民とは一緒に行かない。私がまた激怒して彼らを滅ぼす事がない為だとおっしゃる。

人間くさい神様のお姿が描かれているのが、出エジ33:3です。

出 33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」

その言葉に対して、モーセは食い下がって、神様、あなたが一緒でないと困ります。一緒に行ってください。そのように12節からとりなしをするのです。

33章2節では、「わたしは、使いをあなたに先だって遣わし」とあります。

少なくとも天使が一緒にいってくれるのなら、それでもいいと思うのですが、モーセは、神ご自身が一緒でないといけませんと、食い下がって祈るのであります。

その鍵になる言葉が、新共同訳の言葉では「好意を示す」です。33章12節、13節に2回、16節、17節。34章9節と、合計6回も出てきます。

出 33:12 モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示すと言われました。

出 33:13 お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたらどうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるかを知りうるでしょう。・・・」

出 33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるのでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。・・・」

出 33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」

出 34:9 言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。・・・」

「好意を得る」。これを平たい言葉で言いますと、「お気に入り」です。

私たちも、お気に入りからおねだりされたら、何でも聞いてあげるのではないでしょうか。

神様は14節でおっしゃるのです。私が一緒に行く。

ここでモーセは、お気に入りの子どもが親にお願いするような気持ちで、神様に祈ったのです。神様、あなたは、厳しいことを言われても、私たちのことを温かい目で見てくることを知っています。ですから、一緒に行って下さい。お願いします。

いかがでしょう。私たちも、神様に気に入られている事を、大胆に信じたいと思います。

 

2,神を笑顔にしたモーセ

ある団体の教会の礼拝堂には「我が臨在、汝と共にゆく」という文語体の書が掲げてあります。

それは出エジプト33章14節です。新改訳2017では「私の臨在がともに行き、あなたを休ませる。」です。

新共同訳では、出エジ 33:14 「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」です。

新改訳2017の注を見ますと、「臨在」という箇所にコメントがしてあります。直訳は「顔」とあるのです。私の顔が一緒に行く。

その顔は、にこにこしている笑顔であります。

旧約聖書の人々は、神様の顔を意識しました。

民数記6章の終わりは大祭司の祈りと言われます。

民6:24 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

民6:25 主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように

民6:26 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。

大祭司の祈りの中で二回も「御顔」が出てくるのです。御顔とは、神様の祝福を表現する言葉であります。

私の顔が一緒に行くというのは、怒った顔で、しょうがないから一緒に行くことではないのです。

いつも祝福を与える笑顔で一緒に行くのです。

聖書の中に「御顔」という表現が多く出て来ますが、新聖歌、賛美歌の中にも「御顔」という言葉がたくさん出て来ます。

その中で三つだけ紹介いたします

207番 みかおをみぬとき、すべてはいみなし

220番 うきくもおおえど、御顔の笑みは

316番 みかおのえみ、輝くとき

優しい笑顔とまなざし。それが、私たちがいつも意識する神様のお顔です。

そのまなざしは、祝福の笑顔です。また、私たちの歩みをいつも見守っているまなざしです。

尾花晃先生が、デボーション、神様と交わりを持つときのことで少し極端な表現をされました。

それは、一日にたった5分でよい。神様のみ顔をみること。これで十分だ。

今日も神様の祝福の笑顔が自分に注がれている。そのことを確かめて生きることが大切であります。

神様の変わらない笑顔、祝福をしっかりと受け止めて、この一年を歩ませていただきましょう。

お祈りしましょう