2021年1月17日のオンライン礼拝説教要約
「目に見えない神を信じる」 中道善次牧師
「今、もしあながた彼らの罪を赦してくださるなら-。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」
≪出エジプト 32章32節≫
今日、出エジプト32章から聞き取るメッセージは、第二戒と関係があります。
第二戒は、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」です。
第二戒を出エジプト32章の物語、イスラエルの人々が金の子牛を拝んだことと連づけながら、お話しします。
①主なる神を形にする
第二戒の「自分のために彫像を造ってはならない」。
これを日本人が、日本の文化背景の中でふつうに理解するならば、神社やお寺にまつられているご神体や仏像、また仏壇や神棚などに手をあわせてはならない。そのようになります。
それだけでなく、教会学校では、次のようなお話しを聞いてまいりました。
偶像は、外側の形だけでない。心の中にも偶像を作らないことが大切である。
日本では「アイドル」という言葉が職業のように使われることがあります。芸能活動をして、人々が夢中になる対象であります。ところが、日本語で「アイドル」と使っている言葉は、英語になおすと「偶像」となります。
それは芸能人だけでなく、わたしたちの心を奪い夢中にさせるもの、すべてがアイドルとなるのです。
主なる神以外のものに心が奪われているなら、あなたの心を奪うものがあなたの偶像になっているのです。
ここまでのお話は、多くの方が、かつて聞いてこられことでしょう。
しかし今日聞き取りたいのは、目に見えない神を信じ、その神によって救われたイスラエルにとって、この第二戒は、どのようなことを意味していたかです。
「自分のために彫像を造ってはならない」。
それは、私たちの信じている主なる神(ヤハウエ)を「かたち」にしてはならない、ということであります。
「主なる神」を「かたち」にしたのが、出エジプト記32章の「金の子牛」であります。
本日の聖書箇所にあるように、モーセは40日間、シナイの山に登り、神から戒めを授けられました。なかなか降りてこないので、人々は不安に駆られました。
イスラエルの民は、モーセが長期間不在だったので、死んだかもしれないと思ったのです。そして、その代わりに、目に見える神々をアロンに求めたのでした。出エジプト32章1節参照
その結果作り出されたのが、金の子牛でした。出エジプト32章4節参照
自分のために彫像を造ってはならない。そう言われていたのに、私たちのために神々を造ってくださいと願ったのです。
何故、子牛だったのか。それはエジプトと関係があります。
出エジプトの十の災いの時、家畜が疫病になりました。そこに牛もいました。エジプト人は牛を礼拝の対象としていました。アピシス、聖別された牛で、子牛をかたどっていたのです。
指導者を見失ったイスラエル人は、自分たちの古いスタイルの宗教に戻ろうとしました。そこで選んだのが、エジプトで拝んでいた「牛」の形をした神だったのです。
彼らの行為は、異教の偶像礼拝と少し違うのです。
彼らの「金の子牛」は、主なる神を目に見える「かたち」にしたものです。
目に見える形の「主なる神」を拝むスタイルだったのです。
出エジプト32:5~6を見ますと、イスラエル人は金の子牛を作っておきながら、「明日は主(ヤハウエ)への祭りである」と言い、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げたとあります。
彼らは、主なる神を礼拝するための犠牲、焼き尽くすいけにえ、会食のいけにえ、を献げたのです。
主なる神への礼拝が、世俗的なものに引き下げられたのです。そして低い道徳が見られました。それは、宴会と性の乱れでありました。
ここには、形あるものを拝む方が安心するという人間の心理をたくみに利用しているのです。
これと同じ事は、現代にも見られるのです。
キリスト教を名乗る宗教が、ある国では、偶像礼拝のようであると宣教師から聞いたことがあります。
また、像を教会の中におかないプロテスタントの中にも、似た要素があるのです。
出エジプト32章で金の子牛を拝んだ人々の信仰は、刻んだ像を拝んだというスタイルと共に、その内面にあったのは、指導者依存型でありました。見える指導者への強い依存が、信仰をゆがめてしまったのです。
目に見える強いリーダーであるモーセがいなくなって、不安になったのです。その代わりの目に見える依存するものが必要だったのです。
信仰者の中には、強いリーダーシップを持つカリスマ的指導者に依存する傾向の強い人がいます。
もう一つ、私達日本人の信仰心の中に潜むアイドルがあります。それは御利益心であります。ご利益を求める心が、私たちのキリスト教信仰を強く支配してしまうなら、祈りのすぐに答えてくれない神様は役に立たない神になってしまうのです。
神を偶像のようにしてしまう心が、私の内側にも潜んでいる。そのことに気をつけることが大切です。
②父よ、彼らを赦したまえ
神様は、一度お決めになられた事であっても、私たちが祈るとき、執り成すとき、「お前の願いを聞こう」とおっしゃることがあるのです。
そのひとつが、出エジプト32章であります。ここでイスラエルは、金の子牛を拝みました。妬む神である主は、このイスラエルの背信に激怒したのです。それでおっしゃった言葉が、出エジ32:7~10であります。
ここを見ると、神様が怒りに燃えて、「私をとめるな」と言っておられます。
もういい。イスラエルなど要らない。モーセよ。お前の子孫を大いなる民として、イスラエルの代わりとする。
しかしモーセは、ここで神を説得しているのです。なだめているのです。
それが出エジプト32:11~14です。
モーセの祈りによって、神はイスラエルを滅ぼすことを思い直されたとあります。
モーセは、自分の名が大きくなることよりも神の名誉が重んじられることを大切にしたのです。イスラエルを滅ぼして、お前を大いなる国民とするという申し出を断ったのです。
主の祈りの最初の言葉「御名が崇められますように」は大切です。それは、単に神様を称えますではなく、神の側に立って、神様の名誉が重んじられる祈りなのです。人々が神様を称え、素晴らしいというようにと言う祈りです。それが「神様の側に立つ」ということです。
モーセは、神様のお立場を考えたのです。人々が、エジプト人が、あなたのことについて何というかをお考え下さい。そのように神様の名誉を重んじたのです。
出エジ32:30~32のモーセの祈りの最後の部分を御覧ください。彼らの罪が赦されなければ、自分の名前を「書」から消してくださってもかまいません。そのような祈りを献げました。その祈りが、彼らを滅びから命へと引き返したのです。神が、滅ぼそうと決めていたものを「思い直された」のであります。
ここでの「書」とは、天国に行けるかどうかというリストとより、ここでは、イスラエルを滅ぼすのならば、わたしも彼らと一緒に滅ぼしてください。
神様の書とは、神が生きているものの一覧表を持っておられ、死ぬべきものをその都度、その表から削除するということであります。
モーセは、わたし一人が残って、そこから民が形成されるのは嫌です。
ここでなされた、モーセの執り成しの祈りは、イエス様の十字架の上の執り成しの祈りに通じるのです。
私が身代わりに死にます。民を滅ぼさないでください。父よ、彼らをお赦しください。
イエス様が罪人のために身代わりに死んだように、私もこの民のために死にます。
モーセの祈りの中に、私たちの身代わりの犠牲となられたイエス様の姿を見るのであります。
私たちは、罪赦された者でありながら、人を責めてしまいます。しかし大切な祈りは、私が赦されたように、彼らも赦されますように、であります。