2021年4月11日の説教要約 「よみがえられたイエス」

2021年4月11日の説教要約

        「よみがえられたイエス」   中道善次牧師

 

≪あの方は、ここにおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のおいてあった場所を見なさい。≫

                    (マタイによる福音書28章6節)

 

  マタイ28:1~20

聖書朗読は、マタイ福音書のイエスの復活の箇所を読みました。説教では使徒信条の「陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり」に焦点を当てて話します。

 

① 陰府の一部がパラダイスとなった

私たちはイエス様を信じて、天国に行く。永遠の命を得ることを当たり前のように信じております。

しかし、神様を信じているユダヤ人であっても、天国や永遠の命という考えは旧約聖書の後期までは持つことが出来ませんでした。旧約の後期といわれる時代に、天国や永遠の命という考えが発達しました。

それまでは、たとえ神を信じていても、死ねばみな同じように陰府に下る。そのように考えておりました。

陰府とは、陰の府と書きます。「陰の場所」と呼ばれるところです。陰府は地下、つまり大地の下にあり、光の届かない薄暗い場所です。その中で、青白く何かが存在する場所、それが陰府であります。そこには希望も賛美も奇跡もない。それで終わりという場所でした。

詩篇には、次のように記されております。

詩 6:6 死の国に行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。

口語訳(陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか。)

エス様もまた、死んで「陰府」に下られたのです。

そのことを使徒信条は告白します。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」です。

エス様が陰府に下るまで、神を信じて死んだ正しい者も罪を犯した悪い者も、陰府という一つの場所に下っていったのでした。

エス様が陰府に下られたと言う信徒信条の言葉で、誤解をしてはならないことがあります。

それは古い英語の表現でありますが、陰府をhellと表現しているところがあるのです。hellとは地獄のことです。そうなるとイエスが地獄に行ったという変なことになっています。

陰府は地獄ではありません。「死者の国」と表現することが適切であります。

「死者の国」陰府は、ヘブル語では「シェオール」と表現します。口語訳聖書では、新約だけ、黄色い泉と書いて「黄泉」とありましたが、新共同訳になってから「陰府」と統一しました。ギリシヤ語の「ハデス」を、口語訳では黄泉と書いていたのです。それらは同じ場所のことですから、新約聖書旧約聖書で漢字が異なるのはおかしな事です。陰府と統一されて、わかりやすくなりました。

では、イエス様は陰府に下られて、何をなさったのでしょう。

二つのことが考えられます

それは、勝利の宣言とパラダイスを作ることです。

勝利の宣言:

ペテ1 3:19 そして、霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました。

この箇所を、新改訳2017では「宣言されました」と訳しているのです。

説教では、新改訳2017の「宣言されました」という言葉に基づき、メッセージを聞き取りたいと思います。それは勝利の宣言であります。

旧約の時代、シェオールが、人間が死んだら行く場所を示している場合でありました。それは死んだ人が、正しい者もそうでない者もみんな、地下の世界に下っていったと言いました。しかし全く同じ場所ではなかったようであります。

何人かの説教者は、陰府を次のように説明しておられました。

シェオール(陰府)は二階建てになっていて、上が、義人が死んだ後に行く「アブラハムのふところ」(新共同訳では、アブラハムのすぐそば)と呼ばれる場所であり、下が、罪人が死んだ後に行く、裁きの場所でありました。

旧約聖書の時代、義人も罪人も、死んだら、その霊は地の下、つまり、陰府に行くと、考えられていました。

しかし陰府が二階建てになっていたのです。正しい者も悪い者も死んだら同じではなかったのです。

エス様が、その二階建てになっている陰府に下られて、「私は十字架で勝利を取った」と宣言されたのです。その時、アブラハムの懐にいた人々は大きな喜びに包まれたことでしょう。

私たちの教会では「宣言」ということをあまり行いませんが、南米の教会ではよく行います。

エス様は、十字架にかかり、死に、陰府に下り、そこで勝利の宣言をされたのです。

勝利の宣言の次にイエスがなさったのは、パラダイスを造る。より正確に言うなら、アブラハムの懐の部分を取り分けるようにして、そこをパラダイスにしたのです。

エス様が復活なさる時、陰府にいた正しい信仰者も一緒に引き上げられたのです。そして陰府とは別の、死後の世界を造られた。それがパラダイスであります。新共同訳では、楽園となっておりますが、口語訳や新改訳2017ではパラダイスという言葉を使っております。その一つを紹介します。

ルカ 23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と言われた。

エス様が十字架の上で、救いを求めた強盗に、今日あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろうといわれたのです。イエス様は、これから陰府に下り、勝利の宣言をした後で、パラダイスを作る。そのことをあらかじめ知って、言われたのです。

陰府に下られたイエスと一緒に私たちは勝利の宣言することが出来るのです。

 

②陰府はイエスをはき出した

詩篇16篇10節を御覧いただきたいと思います。

詩 16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず

詩篇16編を学んでゆくと、10節の言葉は、直接イエスの復活に一足飛びに行く言葉ではないのです。

しかしペトロもパウロも、詩篇16:10をイエス様の復活の預言だと言ったのです。

使 2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨ておかれず その体は朽ち果てることがない』と語りました。

使 13:34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。

使 13:35 ですから、ほかの箇所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない』と言われています。

ペトロもパウロも、詩篇16編全体に流れるメッセージから、命にあふれるお方が陰府に留め置かれることがないと読み取ったのであります。

詩編16編で紹介されている人は、生き生きと、命にあふれているのです。

加藤常昭先生が、説教集の中にかたられたイエス様の復活を次のように記されていたのです。イエス様が陰府から出てこられた。詩篇16:10には、陰府に捨て置かれずとあります。それは譬えて言えばこういうことだ。陰府とは、何でも飲み込んでしまうブラックホールのようなものだ。陰府というお化けに飲み込まれたらもう終わりだ。二度とそこから出てくることは出来ない。

しかし陰府がイエス様を飲み込んだ。飲み込んだがいいが、何だ、これは。腹の中に入れておくことが出来ないのです。苦しくて、苦しくて、飲み込んでおけない。それはそうです、陰府は死の世界です。しかしそこに命そのもののお方が降りて行かれた。陰府の中でもその命は、生き生きとしている。死に飲み込まれないのです。とうとう陰府が降参したのです。命であるイエス様を、吐き出さざるを得なかった。

詩篇16:10は、それを表しているのです。命であるイエス様は、陰府に飲み込まれたままそこにとどまっていなかったのです。生きているお方が、墓の中に葬られたままでいるわけはなかったのです。

エス様の復活を信じる者は、命にあふれ、前向きなのです。

コロナ禍の中で、先が見通せない時代ですが、私たちは、復活の主を見上げて、明日に向かって、立ち向かって行きたいと思います。