2021年5月9日の説経要約
「イエスは再び来られる」 中道善次牧師
≪「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか?あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」≫
(使徒言行録1章11節)
使徒言行録1章9節~11節
1、 ヨハネの再臨
アメリカの大学院で、新約聖書の授業を受けておりました時、教授が一つの質問をいたしました。
私たちは使徒言行録2章1~4節で、弟子たちに聖霊が与えられた。それがペンテコステだと理解しています。
これを学者が専門的に言う場合、これはルカのペンテコステと呼ぶのです。
続けて教授が言いました。次の箇所を君たちはどのように理解するのかと言って、ヨハネ福音書20章21~22節を示しました。
イエスは弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けよと言われました。これが単なる象徴的行為でないとしたら、ここで弟子たちは間違いなく聖霊を受けているのであります。こちらのほうを学者は、ヨハネのペンテコステと呼びます。
教授は続けました。ルカのペンテコステとヨハネのペンテコステ、弟子たちは聖霊を受けたのは、どちらなのか?これは私たちを困らせる、難しい質問でありました。
神学を学ぶ者の答えがあります。ルカとヨハネ、それぞれの福音記者の視点の違いである。
しかし体験的に言うと次のように理解できます。ヨハネ福音書で弟子が聖霊を受けたのは、間違いのないことです。しかし弟子はそれを十分自覚していませんでした。また何らかの現象や体験は、起こりませんでした。ルカのペンテコステ、これは弟子たちが自覚して聖霊を受けたのであり、聖霊の現象や体験が起こったのです。それに似たことが、私たちの信仰の歩みでもあるのです。
今日の説教の中心点は、ペンテコステではありません。イエス様の再臨ですが、今のことが再臨の理解についても助けになると思います。
第一ポイントでは、ヨハネ福音書が強調した、イエスの来臨についてお話しします。
ヨハネは、弟子たちが再びイエスと会うのは、聖霊が来られることによる。ヨハネは、そのように強調しております。
ヨハ 16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
ヨハ 16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
ヨハネが述べる「再臨」は、イエスの来臨であり、それは聖霊が来られることによってもたらされるのです。
パウロが再臨について書いたテサロニケの手紙の中にも、臨在が再臨であると理解することが出来る言葉があります。
1テサロニケ5章23節には、イエスキリストが来られるとき(来臨の時)という言葉があります。
英語ではカミングです。そのギリシャ語はパルーシアという言葉です。パルーシアという題の本もあります。
パルーシア、それは再臨を表す言葉です。しかしギリシャ語の辞書を見てみますと、パルーシアの第一の意味は、プレゼンスです。プレゼンス、それは、「ここにいる」という意味です。
イエス様のプレゼンスがここにある。それは聖霊様によるのです。聖霊様が、イエス様を表してくださるのです。
聖霊様が私たちの心に来て、イエス様を表してくださる。これは私たちが再臨を理解する為の大切な一つの側面であります。
2、ルカの再臨
使徒信条の「かしこより来たりて」から学びたいことは、目に見える再臨であります。それをルカの再臨と言うことが出来ます。
何故ならルカは、イエスが天に上げられたのと同じ姿で帰ってくると告げているのです。
使 1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
私たちの教団は「四重の福音」を信じています。四重の福音とは、中田重治先生が提唱されたものであります。新生、聖化、神癒、再臨であります。
再臨、天に昇られたイエスは再びこの地上においでになり、救いの業を完成してくださるのです。
数年前、北海道聖会で奉仕をしたとき、ある先生が、次のように言われました。
自分は父親を早くなくした。その父に天国で再会する事が自分にとっての再臨信仰だ。
その言葉をいただいてから私が考えたことがありました。私にとっての再臨信仰とは何だろう。
第一は、目に見える再臨を信じる事です。
テサ1 4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
テサ1 4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
第一ポイントでは、主の臨在(プレゼンス)が再臨の一つの側面であると申しました。しかしそれと同時に、私たちは目に見える再臨を信じています。
第二は、聖く生きる事です。それは栄化、栄光の姿に変えられる、そこに向かっての歩みです。
イエス様の前に、輝く花嫁として立ちたいのです。
第三は、再臨を待つ者として、この地上を精一杯生きること、走ることです。
コリ1 15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄でないことを、あなたがたは知っているはずです。
再臨を待つ人々の生き方が間違っている姿が、2テサロニケ3章で言われています。
主が来られる期待を持っていた人々は、何も手につきません。働かないで、ぶらぶらする生き方をしておりました。
働かざる者、食うべからずという言葉があります、それはパウロが、再臨を待つだけで働こうとしない人々に対して言ったのです。2テサ 3:10「働きたくない者は、食べてはならない」
イエスの再臨を信じる者は、今を精一杯生きるのです。
何故なら、イエス様が再び来られるときに、報いを受ける方です。無駄にならないからです
3、裁きは慰め
ハイデルベルク信仰問答という書物を使徒信条の説教ではしばしば取り上げます。
今日の箇所でも、ハイデルベルク信仰問答では次のような問いがあります。
問い:生けるものと死ねる者とを裁くための再臨は、どのようにあなたを慰めるのですか。
神の前に立つ、それはあなたを慰めるというのです。
私たちが聖書を通して知っていることは、死後の世界がある。私たちは死んだら神様の前に立たなければならない。そこで裁きを受けるのです。聖書は次のように告げるのです。
ヘブ 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
私たちは、誰であっても、死んだら、神様の前に立って裁きを受けることになっているのです。
聖書を信じる者が行うべき一番大切な終活は、神の裁きの前に立つ準備をすることです。
どういう準備でしょうか。それは、神の裁きの前に立つことが、恐れではなく、慰めとなる準備であります。
教会に通っている人であっても、神の裁きの座に立つことは、多くの人にとって恐れと感じるのです。
そのような思いを、全く払拭していただきたいのです。
カルバンという宗教改革者が書いたジュネーブ教会信仰問答に次のような言葉があるのです。
問い:主イエス・キリストが来られて、裁きをなさるに違いないと言うことは、我々に何かの慰めを与えるものですか?
答え:はい非常な慰めであります。彼が現れなさるのは、我々の救いのために他ならないからです。それゆえ、われわれは最後の審判を恐れおののくべきではありません。
そしてその理由を述べるのです。我々が出頭する審判者は、我々の弁護人であり、我々の訴訟を弁護するために引き受けてくださった。
信仰者にとって、神の裁きの座の前に立つことは、恐れではなく慰めなのだ。何故なら、私たちを弁護してくださるお方の前に立つのだから。カルバンはそう言うのです。
どうしてカルバンは、「慰め」だと言えたのか。それはカルバンが、聖書を読んだからだとドイツの神学者が言うのです。
神の裁きの前に立つことは「慰め」。それを信じることが、聖書の教える終りへの備えであります。