2021年6月6日の説経要約  「真夜中の格闘」

2021年6月6日の説経要約

                            「真夜中の格闘」   中道由子牧師

 

≪「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから。」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」≫ 

                                                           (創世記32章23~32節)

 

1、恐れと祈り

 32章から、ヤコブは家族を連れて故郷に帰る旅を続けていました。故郷が近くなるにつれて、ヤコブの心は期待と同時に、不安と恐れに満たされていったに違いありません。それは、兄エサウのことでした。ヤコブエサウをだまし、彼から長子の権利と祝福を奪い取ったために、兄の怒りをかい、故郷から逃げ出さなければならなかったのです。すでにそれから20年の歳月が過ぎていました。

 32章2節で、彼の恐れを知っている主は、彼に神の使いたちを送られました。朝叔父ラバンと別れて旅をしている時、この神の使いたちをヤコブは見せられたのです。昼間、午前の出来事です。ヤコブは自分たちを守る神の使いを見てその所をマハナイム:一つの陣営と名付けました。

これは、神の陣営がヤコブと共にあり、ヤコブを守るということを意味していました。平凡な場所がマハナイムという特別な場所になったのです。

このような神の使いの一隊がいつも私たちのそばを行進しているのです。私たちの目が遮られていて、見えないだけです。

神はヤコブに神の使いたちを送ることで、エサウと会う準備をさせました。

 

2、問題に直面させる神

ヤコブは、まず兄エサウに使者を送って謝罪の意を伝えさせます。20年間、問題は解決しておらず、ヤコブは、エサウと和解しなければ故郷に帰ることができなかったのです。

私たちは問題を根本的に解決しないで、一時的にそこから逃げたり、時間がたてば何とかなると考えることがあります。

しかし、主は、その問題を根本的に解決するために、私たちを再びその問題に直面させるのです。

ヤコブエサウに対して、牛、ろば、羊、男女の奴隷をエサウに与えることをにおわせて、エサウの好意を得ようとしました。

しかし、その日の午後、使者が帰って来てエサウが四百人の者を引き連れてヤコブのところにやって来るという報告を聞いた時に、ヤコブはすっかり動揺して、恐れました。

彼は、早速、自分の知恵をもって行動しました。人々や家畜を二つの宿営に分けました。それは、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」(8節)と考えたからです。神の陣営が共にあることを知らされながら、人間的な知恵をもって事態に対処している姿を見ます。そのような中でヤコブは主に祈りました。彼は大きな力を持ってひざまずかされ、叫びを持って祈りに導かれたのです。この叫びの内容は、自分がふさわしくないものであるとの告白がほとんどです。父への欺き、エサウへの態度など、一つ一つの鮮明な光景が目の前を通り過ぎたことでしょう。

そして、彼はエサウに対して抱いている恐れを素直に告白しています。ヤコブは解放を求めました。祈りながら、ヤコブは更に作戦を練っていました。しかし、祈った後に神がご自分の計画を明らかにして私たちの考えも及ばない道に導かれるまで、じっと待つ態度が必要であります。

ヤコブの内にはあまりにも多くの自我がありました。それは取り扱われなければならないものでした。

3、神と格闘する

 ヤコブはその夜のうちに、妻たちと子供たちを連れて、自分の持ち物と共にヤボクの渡しを渡りました。しかし、ヤコブ自身は一人だけ後に引き返しました。それは、真夜中でした。彼は、自分自身の不安と戦い、自分の霊的な状態に不安を感じてただ一人神と交わり、神からの解決を得たいと思いました。

人は、神によって深く取り扱われるためにただ一人になる必要があります。

 一人になったヤコブに対して、「何者か」、つまり神の使いが格闘を挑んできた、というのです。

この組み打ちは、半分は現実の世界のもので、あとの半分は霊的なものでしたが、夜明けまで続いたのです。

これは現実の世界の格闘でした。なぜなら、翌朝再び旅をつづけたヤコブは、もものつがいをはずして足を引きずっていたからです。

 この格闘を仕掛けたのはヤコブではなく、神によって仕掛けられた、神の使いが主導権をとったことを強調して書かれています。

25節「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」

神ご自身がヤコブの問題を解決しようとされたのです。神がヤコブをきよめようとされた。

始めのうち、ヤコブは持ちこたえていました。「この人は、ヤコブに勝てないのを見て取った。」

私たちは、本能的に自己を防衛しようとします。できれば、取り扱われることを避けたい。今のままでいたいのです。

しかし、神はご自分の民を中途半端な状態で放置なさらない。

この格闘は、夜明けまで続きました。そして神はヤコブの自我があまりにも強烈で、彼が自我に固執しているのを見て取って、彼のもものつがいを打ったのです。もものつがいは、人が足を使って歩くために大切な器官です。

ヤコブの自我を打ち砕いたということです。

神が祝福しようと思っておられる魂に、神に抵抗する力があれば、神は打たれる。神がその人を祝福するためです。

 抵抗を続けていたヤコブは、打たれると、今度はしがみつくようになりました。

夜が明けると、神の使いは去らなければならない。

その場を離れることができなくなった神の使いが、「私を去らせてほしい」と懇願しているのです。もものつがいを打たれて、力を失ったヤコブが神にしがみついて、「祝福してくださるまでは離しません。」と、まるで子供が父親の首に抱き着くように、神の使いにしがみついたのです。

ヤコブにとっては、もう神の祝福なしに生きていくことができなかったのです。

これは、ヤコブを変えた格闘でした。その人が、ヤコブに名を聞いた。ヤコブです、と答えるのですが、ヤコブとは「かかと」という意味の名前なのです。生まれたときから、エサウのかかとをつかんで生まれてきたヤコブ。彼の罪深い自我に満ちた性質、生まれながらの姿でした。

29節「その人は言った、『お前の名は、もうヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って、勝ったからだ』」

これは、決してヤコブが神に勝った、ということではないことはお分かりだと思います。

神が勝利したことにより、ヤコブが霊的な勝利を得ることができたのです。彼はもはや自分自身に頼らず、神に頼むことによって自分の生涯の問題に真の解決を得たのです。

 自分の力がすっかりなくなり、足を引きずるようになった時だけ、神から力をいただくことができるのです。

 ヤコブはこの格闘の後、その所をぺヌエル「神の顔」と名付けた、とあります。

この時、ヤコブは足を引きずっていた。それは、ヤコブがこの時のこの経験を忘れないように、しるしを残してくださったのです。

 私たちも人生の節目にぺヌエルを通る必要があると思います。