2021年6月13日の説経要約 「聖霊に心をセットする」

2021年6月13日の説経要約

                「聖霊に心をセットする」   中道善次牧師

 

≪これに対し、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。≫

                                                      (ガラテヤの信徒への手紙  5:22~23)

 

1、 聖霊を心に迎える

ガラテヤ信徒への手紙5:16には、「霊の導きに従って歩みなさい」という勧めが出てまいります。

それは、聖霊によって歩むことですが、具体的にはどのようにしたらいいのでしょうか?

私は、献身してから、毎日のように繰り返してきた祈りがあります。

それは、「聖霊様、私の心に中に来てくださり、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制の御霊の実を結ばせて下さいと」いう祈りです。新改訳聖書と口語訳が合わさった言葉になっております。御霊の9つの実を口に出して、これらの実を結ばせてくださいと、祈ってまいりました。

あるとき私は、自分のしてきたことがこれだと発見したことがあります。

ローマ信徒への手紙8:5を学んでおりました。日本語では、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」とあります。

「霊の導きに従って歩みなさい」というガラテヤ5章16節と同じようなことを言っている箇所であります。

「霊によって歩む」や「霊に従う」。よく耳にする言葉ですが、わかったような、わからないような言葉です。

英語の聖書RSV(李培図土・スタンダード・バーション)では、ローマ8:5を次のように書いているのです。

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え。これは、セット・ゼア・マインド・オン・ザ・フレッシュ、

霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。これは、セット・ゼア・マインド・オン・ザ・スピリットです。

マインド・セットという言葉。思いをセットするのです。

私たちの考えや思いを、聖霊様にセットする。そのことが大切だと聖書は言うのであります。

私がしてきた、御霊の実を結ばせて下さいと言う祈りは、聖霊様に自分の思いをセットすることだったのだと分かりました。

私自身の信仰上の経験から、次のように申し上げることができます。それは、私たちが日々の生活を送る上で、オートマチックに私たちの思いが聖霊にセットされるような事はないのです。私たちの思い・マインドは、放っておくと、肉の方にセットされてしまう、そのような傾向があることを私たちは忘れてはならないと思います。

ですから、「私たちの思いや考えを聖霊様、あなたにセットします」。そのような祈りなしに、私たちの心が聖霊にセットされることがないのです。

 

2、御霊の実

御霊の実と呼んでいるもの。それは英語では、fruitsフルーツではなく、fruitフルートゥであります。

一つ一つの実が別々に結ぶのではありません。ぶどうの房に実っている実のことであります。

ですから、私には御霊の実の「喜び」はあるけれども、「愛」はありませんとはいえないのです。

私には「親切」の実は結んでいるけれども、自制の実、セルフコントロールが足りませんとは言えないのです。

9つの実について、それぞれの紹介を簡単にします。

愛の実:コリント信徒への手紙1の13章、愛の賛歌と言われている箇所をお読み下さい。

1コリント13章で、私が心に留めている言葉の中に、5節の13:5に「恨みを抱かない」があります。口語訳では「愛は人のした悪を思わず」となっています。「思わず」とは、ノートに書き留めないという意味です。私たちは、あのときあの人にこう言われた、などと何時までも記憶にとどめています。まるで人の悪をノートにとっているようにして、人の悪を記憶する。でも愛は、嫌なことをされたことがあっても忘れるのです。

喜びの実:パウロはフィリピの手紙の中で何度も「喜びなさい」と繰り返しているのです。私が心に留めている言葉はフィリピ3:1です。そこには「私の兄弟たち、主において喜びなさい。・・・これは・・・あなたがたにとって安全なことなのです。私たちが生きてゆく中で、喜んでいると、間違った教えからも、人を批判する言葉からも守られるのです。

平和の実:マタイ福音書5章9節「平和を実現する人々は幸いである」。口語訳では、「平和を作り出す人たちは幸いである」とあります。平和を作り出す。自分の心が平和であれば、平安な心を保っていれば良いというのではない。人と人との間に平和を作り出す。言葉を換えるなら、和解をもたらす働きであります。

寛容の実:ある英語の聖書ではペイシェンス(patience)、つまり、忍耐となっております。またギリシャ語からの解説を読むと、ロングサファーリング(long-suffering)、つまり長く苦しむという言葉が使われております。御霊の実が示す「寛容」は、他者からひどい扱いを受けたときにとる態度のことであります。ヤコブ5:11には、「ヨブの忍耐について聞き」とあります。ヨブの忍耐は、試練を耐えたと同時に、3人の友人からの非難に対しても忍耐したのです。ヨブ記の終わりには、自分を責めた3人の友人の赦しを祈った。これが寛容であります。

親切の実:英語でもカインドネスとなっております。その親切を、私は「よきサマリヤ人」の中に見るのです。あるユダヤ人が、エリコに降って行く道の途中で強盗に襲われ、瀕死の状態になりました。ところがその道を通りがかった宗教家、祭司とレビ人は、反対側を通っていった。ところが民族として敵対関係にあったサマリヤ人ですが、彼は傷ついたユダヤ人を助け、介抱し、宿泊代も支払って、その回復を助けたのです。ここには見返りを求めない親切があります。

善意の実:平たく言うと、「よくしてあげる」ということであります。イエスの「ぶどう園の主人」の譬を思い起こします。

ぶどうの収穫を手伝う日雇い労働者を、ぶどう園の主人は集めるのです。一日1デナリオンの約束です。夜明け前に雇った労働者、さらに午前9時、正午、午後3時、そして、夕方5時にも労働者を集めたのです。日が暮れて一日の労働が終わります。夕方6時であります。そして夕方5時から雇われた人から順に賃金をもらうのです。夕方5時の人はたった一時間の労働ですが、約束どおり1デナリオンをもらうのです。そのことを知った朝早くからの労働者は、文句を言いましたが、このように主人は答えました。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。私の気前の善さを妬むのか。そのように言うのです。神様はそのように、いつも私たちに気前よく、良いことをしてくださるのです。神様からよくしていただいた私たちは、他の人々にもよくしてあげることが出来るのです。

誠実の実:忠実、または、真実とも訳されます。聖書の中には、神様に対して忠実な人々が登場します。また自分が仕えているご主人様にどこまでも忠実な人が登場するのです。その中の一人が、ダビデを支えた祭司であるツァドクです。そしてツァドクの後を継いだ息子アヒマアツであります。彼ら親子は、どこまでも忠実にダビデに仕えました。それは愚かなほどに真っ直ぐな忠実さでした。やがて、ツァドクとアヒマアツの子孫が、永遠に祭司の努めをするように神は告げるのです。誠実であり真実であることは、聖書が私たちに告げる大切な徳であります。

柔和の実:イエスは「柔和な者は幸いである」と八福の教えの中で言われました。そしてイエス様自ら、私は柔和でへりくだった者であると言われました。また旧約聖書モーセもまた柔和な人でした。この地上の誰にも勝って柔和であったと聖書は告げるのです。

柔和というのは、軟弱なことではありません。単に謙遜というだけでもありません。私が好きな説明の言葉があります。柔和とは、踏みつけられても折れないしなやかさであり、そこから立ち上がることが出来る粘り強さであります。

モーセは、40年間、200万を超えるイスラエルの民を荒れ野で導きました。大変なことが多くありましたが、モーセは柔和を貫いたのです。折れることなく、投げ出すことなく、粘り強く民を導いたのです。

節制の実:口語訳では自制です。英語では、セルフ・コントロールです。

私は聖書のヨセフを思い出します。ヨセフはエジプトに奴隷として売られたのです。そこで真面目に働いて、家の全てを任せられるようになった時、主人の奥さんが誘惑してきたのです。自分がこの家を乗っ取ろうと思えば、出来たのかもしれません。しかしヨセフは、その誘惑を断ったのです。次のように言ったのです。私はこの家をご主人様から任せられています。ただ、あなたは別です。どうしてそのような罪を犯すことが出来るでしょうか。自らを制したのです。

ヨセフは、自らを制することが出来る節制を持っていたのです。それがヨセフをエジプトの指導者にしたのです。

私たちが結ばせていただく御霊の実は、自慢するためではありません。周囲の人々がその実を食して、幸せになることです。

人々の祝福と幸せを願う。そのような私たちでありたいと思います。