2021年10月17日の説経要約 「主の家に帰る」

2021年10月17日の説経要約

                           「主の家に帰る」    中道由子牧師   

           ≪主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。≫

                                                                       (詩篇23編1~6節)

 

本日は、召天者記念礼拝です。

 

1、主は羊飼い

神様が羊飼いで、その民は羊であるという考えが古くからイスラエルにありました。

聖書の中の、支配者や王がその民を守り導く姿でもあります。

国の指導者たちは国民を牧する、という意識が必要ということです。

羊は弱い存在で、目が悪いと言われます。しかも頑固で神経質であり、不潔な環境に住むこともできない、群れを成してしか行動できない臆病な動物でもあります。ひっくりかえっても、手を貸さないと自分で立つことができない。自分で食べ物のある所や水のある所を探せない。

そんな羊と人間は似ているのではないでしょうか?

羊には青草が必要でした。また、水のほとりで疲れと渇きが癒やされる必要もありました。

これは、肉体的な必要です。

イスラエルの歴史の中では、神ご自身が牧者となって、イスラエルの世話をしてきたのです。

荒野における40年の神の導きは、民がのどが渇けば泉をくださり、マナを降らせてイスラエルの民を養ってくださいました。

 私たちの人生にもあれが必要、これが必要、保険のコマーシャルのように追加していかないと、安心できない世の中に生きています。

子どもたちの将来を考えても、自分の老後を考えても、羊飼いなる神様がおられなかったら、私たちは明日のことも不安で安心して生きていけません。

 神様は、私たちが体を伸ばしてゆっくりできる、柔らかい青草が生えている牧場を与えてくださいます。

そこには猛獣もおらず、守られているところで、安心して草を食べることができます。また、疲れと渇きを癒してくださる水のほとりで憩わせてくださいます。

私たちにも、振り返る時、あの時助けられた、満たされたという経験があるのではないでしょうか。

3節には、霊的な必要が書かれています。

魂を生き返らせてくださる霊的な食べ物は神のみ言葉です。

私たちがこの人生を生きている時、食べて寝てゆっくりできる場所だけではない、困難や試練に打ち勝つ、御言葉が日々必要であります。そのみ言葉が与えられると私たちの魂は、辛い状況や困難があっても生き返るのです。

元気がもらえる、前向きになる、希望が湧いてくるのです。

そして、このみ言葉は私たちを正しい道に導びいてくれます。

新改訳聖書では、「義の道」となっていますが、これはまっすぐですが、けっして平坦ではない道、しかし、救いに至る道なのです。そして、 この道を開いてくださったのは、私たちの羊飼いなるお方、イエス様です。

ヨハネによる福音書10章11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言われました。

羊が谷間に落ちて死んでしまいそうになる時も、羊飼いは崖の下に降りてでも羊を助けに行く絵があります。

猛獣が羊を襲ってきたら、命をかけて守り闘う羊飼い、イエス様は文字通り私たちの罪のために命をかけて私たちを救ってくださるお方であります。

羊飼いが羊の世話をするとき、杖を使います。敵や野獣を防ぐために片手で自由に操ることができる物です。

主の杖は私たちの敵を撃退し、またわたしたち、羊を整え、訓練するために用いられるのです。

イスラエルの民がエジプトから脱出する時も、主の杖が用いられました。暗黒の中にいた民を子羊の血をもって、守られたのです。イスラエルの民は、災いから守られたのです。

 私たちの人生には、災いがないのではない。

死の陰の谷を歩むような災いがあっても、恐れない人生を送らせてくださる主が共にいてくださるからです。

 

2、敵から守ってくれる方

 アラビヤの砂漠の民にとって住んでいるテントは、聖なる逃れの場となると言われています。逃亡者が追跡の手を逃れてテントの綱に手をかけて救いを求めるならば、追跡者がすぐそばに迫っていても、三日と四時間の猶予が与えられる、しかも、主人のもてなしを受けるにふさわしい人物であれば、永久に保護が与えられるという話があります。

5、6節は、荒野を旅する旅人が、盗賊や強盗に追われて、命からがらベドウィンのテントに逃げ込む姿を例えています。

 この詩を書いたのがダビデであれば、サウル王に追われて荒野をさ迷った時のことを思い出して書いたのです。

ダビデを命がけで守ってくれた人は誰もいませんでした。

しかしダビデは、敵に追われながらも、荒野を生き延びたのです。それは、客人を守るベドウィンのテントの主人のような主が、決してダビデをサウルの手に渡されなかったからです。

 また、イスラエルの歴史の中で、敵の真っただ中で食事をした記憶は、出エジプトのための過ぎ越しの食事であります。

小羊の血を柱と鴨居に塗り、子羊の肉と酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べるのが過ぎ越しの食事でした。

エジプトを出る用意をして、家族単位でそれらを食したのでした。 

私たちの人生の中で、危機に直面することがあります。

悲しみの中を通る時があります。失望の中を通る時もあります。しかし、主はそのような中でもあなたのために食卓を整えてくださる、というのです。

そして、頭に香油を注いでくださる。

この油は、喜びと感謝を表しています。

あなたのことを喜び、大切に思っています、というしるしです。

その客に、気前のいい主人は杯をあふれるばかりにしてもてなしてくれる。

 神様は敵の前でも、私たちを守り励まし、喜びをくださる。

私たちの人生で、死のない所、敵のいない所はありません。

しかし、死が迫り、敵がいる中でも、私たちに勝利の食事を整えてくださるお方です。

そして、神様の恵み、慈しみが私たちを追っかけて来るのです。