2022年4月17日の説教要約 「新しい宮は三日で建つ」

2022年4月17日の説教要約

            「新しい宮は三日で建つ」  中道由子牧師

 

《イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」》

                                                   (ヨハネによる福音書2:13~25節)

 

1、古い神殿     

 祭りのたびにイエス様はエルサレムに上られました。

各地に散在していたユダヤ人もエルサレムに巡礼するために集まってきて、町は人の群れでごった返していました。この祭りは、過ぎ越しの祭りでした。

 神殿の一番外側の庭は異邦人の庭と呼ばれて、そこで巡礼者の便宜を図っていけにえ用の動物を売る商人たちが店を出したり、両替人が活発に活動したりしていました。

両替は、支配国ローマの貨幣が神殿への捧げものとしてふさわしくないので、ユダヤ貨幣に替えるためでした。彼らには祭りの一カ月前から、売台を据えることが許可されていたようです。過ぎ越しの犠牲としてこれらはどうしても必要でした。

ですから、これを売ることは決して悪いことではありませんでした。

しかし、たとえ祭りのためとは言え、神殿を「商売の家」としてはならないのです。

両替人が交換レートを法外に不当なものにしたり、商人がいけにえの動物の売買でもうけていたのです。それだけではない、神殿の指導者層は商人や両替人からわいろを取り、その一方では自分たちがローマの権力者にわいろを送っておもねり、自分たちの懐を温めていました。

エルサレムへの巡礼にあたり、何日もかけて、巡礼の旅を続けて人々はまいります。

それらの人々が、牛や羊を連れてくるわけにはいかないこともわかります。それで、人々は自分の持ち物である牛や羊を自分の家で売って、そのお金を携えて、エルサレムに来て、それと同じ値の牛や羊を買って神への供え物としたのです。

人々にとっては、決まりきったことをしている。しかし、その中できよい神様の宮が汚されていることをイエス様は強く感じていました。

 そして、先のことを見据えておられた主は、この神殿が破壊される運命にあることもご存じでありました。人間がどんなに頑張って計画して建築した神殿も、人間の手によって、実際にはローマ軍によって簡単に破壊されてしまうのです。

 

2、神殿をきよめられる主

 15節から神殿の様子をご覧になっていたイエス様から、怒りが爆発します。

エス様は細縄でむちを作り、その鞭を振って動物たちを追い出し、両替人の台を倒し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」激しい言葉でイエス様はお怒りになられました。 両替人たちにとっては、何をするのか?という気持ちにもなったでしょう。

 敬虔な礼拝の場であるはずの神殿が冒涜されている。

神殿を「私の父の家」と呼ばれたイエス様は、神殿本来の目的にかなわないすべてのものは拒絶され、除かれなければならないと言われたのです。

彼らが思いだしたみ言葉は、詩篇69篇10節でした。「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしている。」

主がエルサレムの神殿をあまりにも熱心に思うので、そのことがついにキリストを滅ぼすというのです。事実、キリストは十字架上で殺されてしまうわけですが。

 しかし、この事態を目撃したユダヤの指導者たちが黙っているはずはありません。

なんの権威があってこんなことをしたのか、お前の持っている権威の証明書を見せろ、とイエス様に詰め寄ったのです。

 その瞬間、彼らが自分の耳を疑うような言葉がイエス様の口から語られます。

19節「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

エス様はこれがご自分の権威の証明であると主張されたのです。

しかし彼らは当然のことながらイエス様の言葉を誤解しました。

このほとんど完成に近づいている見事な神殿をまえに彼らの目には、なにをたわけたことを言ってるのか、としか思えなかったでしょう。

 イエス様が語った「神殿」は、エルサレム神殿のことではありませんでした。

ご自分の体のことでありました。

彼らはイエス様を十字架につけるが、主は、三日目に死人の中から甦り、神の民の新しい礼拝の中心となられることを語られたのです。

この選び出された新しい民とは教会のことで、キリストのからだと呼ばれます。

今朝、私たちはこうして神の宮である教会に集まって復活の礼拝をささげています。

この礼拝はイエス様が願っておられた、新しい宮の集いであります。

その中にある、復活を約束された私たちの心は、どうでしょうか?

 

3、人の心にあるもの

 自分を支持してくれる人に好意を持つのは人の常です。

しかし、イエス様はそのような必要がありませんでした。

エス様は人の心の移ろいやすいことをよくわかっておられました。

人は愛する対象であって、頼る対象ではない。頼る対象は、神だけです。

 過ぎ越しの祭りの間に、イエス様は他にも多くのしるしを行われました。

そして多くの人がそれらのしるしを見て、イエス様を信じました。

しかし、キリストの使命は決してそのようなしるしをもって、もてはやされる程度ではなかった。キリストの使命は、「十字架にかかって神の義を全うし、人類に対して完全な罪の赦しと永遠の命を与えること」でした。

 私たちは生きている間、親や友人など、人の死に遭遇します。

ところが、復活は、人がこの世では経験できないものです。

信仰のクライマックスは、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神様を信じ、復活の希望に生きることなのです。