2022年4月24日の説教要約 「寄り添われるイエス様」

2022年4月24日の説教要約

                「寄り添われるイエス様」  照内幸代牧師

                                                            《ヨハネ20,11-18》

 

私たちにとって、イースターは本当に喜ばしい朝です。しかし、この世界で最初のイースターの朝は、実は私たちが今イメージとして持っているイースターの煌(きら)びやかさとはほど遠いものでした。それは、主イエス様との死の決別を経験した人々にとって、つらく悲しい大きな痛みの朝であったからです。私たちがもしこのイースターをコロナや戦争で深い悲しみの中、とてもお祝いする気持ちでいられずに迎えるのだとしたら、それは世界で最初のイースターの朝にむしろ近いのではないかと思うのです。イースターの恵みのメッセージは、むしろ大切な誰かを失い、愛するものをなくし、深い悲しみの中にある人々のためにもあるのだということに気付かされます。

イースターが喪失の朝であったということは、このマグダラのマリアの話に一番現れています。急いでやってきたイエス様のお墓に、イエス様のご遺体は無かったのです。自分が無力であって何もできないという大きな喪失感に襲われ、マリアは泣き出してしまいます。主イエス様はそのマリアに寄り添われました。「なぜ泣いているのか」とお尋ねになり、泣き悲しむマリアの怒りや悲しみを受け止められました。しかしマリアが主の復活に気付き、元気を取り戻し、喜びにあふれると、「きょうだいたちのところへ行って、彼らに私の言葉を伝えなさい」と励ましておられます。世界で最初のイースターは、悲しみに寄り添われ、その後励まされ、そして新しい出発をお与えになられた朝だったのです。マリアはその通りにし、墓場を去って弟子たちのところに、このイースターの喜びを知らせに行きました。悲しみの朝、苦しみの朝は、喜びの朝、良い知らせの日に変わったのです。

主イエス様は、マグダラのマリアになさったように、私たちにもしてくださるのではないでしょうか。私たちは今、新型コロナの影響下にあって、煌びやかな飾りも、ご馳走も、聖歌隊や卵探しも、大規模な伝道集会もできないかもしれません。しかし、私たちが思いっきり活動し、喜びの声を上げて、盛大にイースターをお祝いできるときはまたやってきます。そのとき主イエス様は私たちに改めて、「私のきょうだいたちのところへ行って、私の言葉を伝えなさい」と私たちに言ってくださいます。イエス様は私たち一人一人が今、何を感じ、どのような気持ちでいて、どんな状況にあるのかを知っていてくださいます。悲しんでいるものには、慰めのイースターを、喜んでいるものには励ましのイースターを携えて来てくださいます。一つ言えることは、主は復活し、よみがえり、今も生きていらっしゃるということなのです。その私たちの主が、今も私たちを心配し、気遣い、私たちを慰め、励ましていてくださるということなのです。