2022年5月22日の説教要約 「善に生きる」

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2022年5月22日の説教要約

                「善に生きる」  照内幸代牧師

                                                            《ペテロの手紙1:3章13~18節

 

始めにペテロは、「良いことに対して熱心である」ことを勧めています(13-14節)。この熱心であるという言葉は、「熱心党」という政治思想者に対して良く使われました。「熱心党」に属する人たちは、自分の生活の一切を愛国心にささげていました。ペテロは、善に対しては、熱心党に属する者達のように、熱心でありことを勧めているのです。

では、善を熱心に追い求めて生きるとは、どういうことなのでしょうか。ペテロは二つのことを上げています。一つが、「心の中でキリストを主とあがめる」ことです(13-14節)。旧約聖書に出て来るダニエルという人物は、ライオンの穴に投げ込まれる迫害に遭ったときも、人を恐れず、心を騒がせず、心の中でキリストをあがめました。私たちも主をあがめて善に生きる時、善を喜ばれる神様の助けが与えられます。

続いて、ペテロは「弁明すること」をあげています(15節)。わたしたちが「抱いている希望について、説明を要求する人には、いつでも弁明するように備えていなさい」と勧めています。「弁明する」ということもまた、善を追い求めて生きることなのです。なぜならペテロはこう言っています「それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)。弁明には愛があるのです。穏やかに、敬意を持って、正しい良心でした弁明は、神もキリストも知らない者たちにも、神の愛をはっきり示す力があるのです。

最後にペテロは、善を追い求めて生きる理由として、キリストがそうされたのだということをあげています(17-18節)。私たちも現代日本で生きていますが、キリスト者として善を行って、それで迫害を受けることはほとんどありません。ところがたったお一人、善をしたのに受け入れられなかったお方がいます。それがイエス様です。罪人である私たちが苦しむことを神は良しとせず、私たちが生きることを願われました。ところがこのたった一人の正しいお方が苦しむことを神は御心とされたのです。ペテロは、それは「正しくない者たちのため」であったと書いています。肉においては死んでも、霊においては生きる者となるように、キリストはそれを受け入れられたのだというのです。

善人が苦しむことを神は良しとされませんが、もし、仮にそういうことがあったとしたのなら、ペテロははっきり言います。「義のために苦しみを受けるのは幸いだ」「善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむより良い」。なぜならかつてキリストはそのようにして、正しくない者たちのために苦しみを受けられ、私たちを生きる者につくりかえてくださったからなのです。私たちが善を行うとき、それによって何か損をしたように思われるときもあるかもしれません。しかし私たちが貫く善の行いは、誰かにキリストを示し、その誰かの命を得る道であるかもしれません。私たちは、善の熱心党でいようではありませんか。善を追い求めるとき、私たちが得るものはかならずあるのだと信じて、私たちはキリストの道を今週も歩んで行きましょう。