2022年8月7日の説教要約
「真理はあなたがたを自由にする」 中道由子牧師
《あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。》
1.真理の意味
ユダヤ人は神を知っていると自負していました。
しかし、イエス様の中にある神の真理が見えなかったのです。
イエス様は「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。しかし、あなたがたの知らないことがある。わたしは自分の意志で来たのではない。」
「わたしをお遣わしになった方は真理である生ける神、あなたがたはその方を知らない。
それは真理を知らないのと同じだ」と言っておられます。
そして、その真理は主が十字架に向かっていくとき、明らかにされていきます。
「真理」という言葉がヨハネによる福音書18章37,38節にも出てきます。
イエス様が裁判にかけられる時、ピラトが「真理とは何か」と言うところがあります。
これはピラトが真理とは何か知ろうとする質問ではありませんでした。
彼がそう言った後、答えも待たずに出て行ったのを見ると、彼は軽蔑の意味でそう言ったピラトの意図が見えます。
「真理とは何か。これから私がお前を釈放してやろうとしているのに。」と。
主イエスはここで大切な真理についての話をしようとしておられるのに、彼はその証を聞くチャンスを失ったのです。
「真理を知る」とは、キリストの十字架の意味を知ることです。
私たちのためにこの地上に生まれ、この世に来たキリストが、私たちの罪のために十字架にかかろうとしていました。それが、真理です。
この「真理」だけが私たちが望んでやまない自由を与えるものなのです。
ユダヤ人は律法に生き、それが真理に生きていることだと思っていた。
実は自分たちが真理だと思っている律法にがんじがらめに縛られている、奴隷状態であることに気が付いていないのです。
この聖書は真理の言葉ですが、イエスを主と告白することなく、良いことが書いてある書物としてだけ読むならそこから真理を見出すことができません。
この真理とは、イエス様ご自身のことであり、真理に生きるとは、そのイエスとの関係の中で生かされることです。単なる知識ではなく、イエスとの人格的な交わりの中でイエス様を体験的に知ることです。
8月は忘れることができない戦争の傷跡が日本にもあります。
戦時中、この真理が迫害を受けていました。特に私たちの教団の四重の福音の中で、主の再臨が問題になりました。やがて主イエスがこの地に来られ、新天新地が与えられる。
聖書に書いてある真理が問題となり、天皇とイエスとどちらを崇めるかと迫られたのです。
また、私たちの国は、そのずっと以前からイエス・キリストの真理が迫害を受けていた歴史があります。実は1620年より前にキリシタンの最盛期がありました。
37万人ほど(当時の人口の約3パーセント)のキリシタンがいたと言われています。
豊臣秀吉の時代に、秀吉に仕えていた高山右近は千利休の弟子の一人でもあり、茶席を使って伝道したそうです。
キリスト教は絶頂期を迎えますが、1587年「バテレン追放令」が出され、司祭は国外追放され、キリスト教は禁止されます。
高山右近は、信仰を取るかの決断に迫らせ、右近は信仰を取ります。
その時、彼はマタイによる福音書16章26節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」のみ言葉を語ったと伝えられています。
1614年、徳川幕府は徹底的な禁教令を発布します。
キリシタン弾圧を名目にして、すべての人民を支配するためでした。
真理を消滅させようとした悲しい歴史が、私たちの国にあります。
しかし、今朝私たちは主を礼拝しています。日本の中で一握りのクリスチャンではありますが、真理の帯を腰に締めて主を礼拝しましょう。
2.本当の自由とは何か
ユダヤ人たちは自分たちがアブラハムの子孫だということを誇りに思っていました。
しかし、会話が進んでいくにつれて、彼らの本当の姿が浮き彫りにされていきます。
イエス様が、58節「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と言うと、
59節「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」
イエス様を殺そうと石を投げつけようとしたのです。
それがサタンのすることです。
サタンは私たちの心の中にある罪、プライドや人の心の傷を狙ってきます。
それらがあると、そこを巣にして入って来るのです。
イスカリオテのユダの弱さはお金に対してでありました。
そこをサタンに付け込まれました。最終的には死ぬしかない、と人を死に追いやるのがサタンの働きです。イスカリオテのユダも自ら命を絶ってしまいました。
イエス様はそんな私たちの苦しみから私たちを解放してくださるのです。
人は生まれたままの状態では本当の自由を得られないのです。
神から離れて自由にやっていきたい、それが自由だと錯覚してしまうのです。
イエス様はユダヤ人には律法からの自由を、異邦人には偶像礼拝や知識やプライドからの自由を与えてくださいました。
私たちは自分の今の在り方を自分で変えることができません。
しかし、コリントの信徒への手紙3章17節「主の霊のおられるところに自由があります」。
私たち日本人は頑張って信仰を持たなければならない、信仰生活をしなければならないと思ってしまいます。
しかし、聖霊に自らを委ねていくとき、そこには自由があります。