2022年8月14日の説教要約 「主の手が触れる」

2022年8月14日の説教要約

                「主の手が触れる」  中道善次牧師

                                    《イザヤ書 59章1節

 

本日の礼拝説教で取り上げるヘブライ語は、ヤードとヤーダーです。

ヤードの主たる意味は「手」、ヤーダーの主たる意味は「知る」であります。

ヤードという言葉と関連して、紹介したい場所があります。それはホロコースト記念館と呼ばれる場所です。その場所をヘブライ語では、ヤッド・バシェムと呼びます。第二次世界大戦の時、多くのユダヤ人が虐殺されました。そのことを忘れてはいけない。それを記念する場所であります。

その中には、亡くなった人々の写真と名前が掲載されています。

ヤードには、記念碑という意味もあります。

またヤッド・バッシェムには、諸国民の中の正義の人も紹介されています。その中の一人が日本人である杉原千畝さんです。命のビザを発行したリトアニアにおられた外交官です。

 

1.主の手と私たちの手

第一ポイントではヤード(手)について学びます。

まずヘブライ語の辞書に記されている意味を紹介いたします。

a.文字通り私たちの肉体の腕や手、

b.手を差し出す、手を振る、手を伸ばす、手を上げる、手を置く、という手に伴う動作を表す言葉として使います

c.神の手

d.モニュメント:記念碑、道しるべ、ヤッド・バシェムのヤードは、モニュメントです。

神の手について、以下の事例を紹介します。

王上 18:46 主の御手がエリヤに臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの境までアハブの先を走って行った。

神の手が伸ばされると、特別な力が与えられ、マラソンランナーのような走りができたのです

王下 3:15 楽を奏する者が演奏すると、主の御手がエリシャに臨み、

王下 3:16 彼は言った。「主はこう言われる。『この涸れ谷に次々と堀を作りなさい。』

エリシャに、預言をする力が与えられました。そしてその通りになり、イスラエルは勝利したのです。

そして神の手は、救いをもたらす力であります。

今日の聖書箇所、イザヤ59:1では、主の手が短くて救えないのではない、とあります。

ここで、主の手は「救い」を意味する言葉なのです。

次に、人間の「手」について二つの箇所を紹介します。

第一は、祝福のために手を置くことです。

創 48:14 イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。・・・

創 48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。・・・

ある教会での出来事です。お孫さんを連れてきた教会員が、牧師先生と挨拶をするとき、いきなり牧師先生の手を取って孫の頭の上に置いたのです。先生、これで安心です。そう言われたというのです。それは、牧師が手を置くことを祝福のしるしとして知っていた姿です。

第二のこと、それは自分の身代わりとして手を置くことであります

レビ 4:13 イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、・・・

レビ 4:14 ・・・会衆は若い雄牛を贖罪のいけにえとしてささげ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。

レビ 4:15 共同体の長老たちは主の御前に立って牛の頭に手を置き、主の御前でその牛を屠る。

雄牛の上に手を置くこと、それは自分たちの罪を、この動物の上に置くことです。そしてその動物をいけにえとするとき、罪の赦しの手続きがなされるのです。

これが、イエスの身代わりの十字架に繋がってゆくのです。私たちは、イエスに直接、手を置くことはできませんが、祈りの中で、私の罪をあなたの上に置きます。そのように祈るのです。

 

2.私はあなたを知った

第二ポイントではヤーダー(知る)について学びます。

見て、わかる、調べて分かる、認識するという意味が最初の三つです。

四番目の意味は、性的関係を持つことです。アダムはエバ知った。子どもが生まれた(創世記4:1)

五番目:神が自分のことを認めている。ダビデは、取るに足らない自分が王として選ばれたことを感謝して祈った。その祈りの言葉に「あなたは僕を認めて下さいました」(サム下7:20)がある。

ダビデはその後で次のように祈るのです。神様、私の家柄はたいしたことがないのです。私は、七人兄弟の末っ子です。羊の番をしていた七番目の兄弟です。

小さくて、取るに足らない自分を認めてくださり、本当に感謝します。そう祈ったのです。

六番目:神の選び:神はアブラハム選んだのは(口語訳:知った)(創世記18:19)

アブラハムがどこの誰だかわからないとき、神様は彼を選ばれたのです。

ヘブライ語の「知る」とは、知的に知るということが中心ではなく、人格の交流があるのです。

パウロは、人格の交流について、ガラテヤの信徒に向かって「知り、知られる」という言葉を使っております。

ガラ 4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、・・・

神様を知るとは、自分が神を知るよりも、神によって知られることであります。

神様があなたを助け、あなたを救うことです。神に触れていただいた。神を体験した知識です。

ダビデ詩編31:16での中で次のように祈っています。

詩 31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって 追い迫る者、敵の手から助け出してください。

「御手の中で」という賛美があります。

♪御手の中で、すべては変わる賛美に。御手の中で、すべては変わる感謝に。♪

困難な中、神の御手に委ね、神の時を待つ。これが神様を知る大切な側面であります。

 

3.手を置いて祈る祝福

ここでは、新約聖書に見られる「手が置かれる」祝福を見てまいりたいと思います。

その第一が、癒やしのために祈るときに置く手であります。

マルコ 5:23 (ヤイロは)しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

ヤイロは、自分の娘の癒やしの時、イエス様に、来て手を置いてやって下さいと願いました。イエスの手が置かれる所に癒やしがあることを知っていたのです。

第二のことは、海外宣教に送り出すことです。

使徒 13:3 そこで、彼ら(アンティオキアの教会)は断食して祈り、二人の上に手を置いて(海外宣教に)出発させた。

宣教に送り出すとき、手を置いて祈るのです。

パウロたちは祈って、宣教に送り出されたのです。

第三は、大切なつとめに着くときの祈りです。

使徒 6:5 一同は、・・・ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、

使徒 6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた

執事の選出と按手です。執事の多くは、説教者として、伝道者として活躍するようになりました。

今はコロナの中ですから、手を置いて祈ることも、ディスタンス(距離)と接触の問題があり、難しいです。でも霊的な手を置いて、私は毎週皆様のために祈っています。

それが、礼拝が終わる祝祷の時であります。ヤベツの祈りであります。

代上 4:10 ・・・「どうかわたしを祝福して、私の領土(国境)を広げ、御手がわたしと共にあって災からわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」

ヤベツの祈りの中に、(主の)御手がともにあり、災いを遠ざけ、苦しむことのないようにしてください、があります。

ヤベツの祈りの中の「御手」は、その直前の「領土を広げ」と後半の「苦しみに遭わないように」の両方にかかっております。

領土とは、働きの領域であります。それが広がることは祝福であります。しかし、働きの領域が広がると、私たちは自分に力ではどうすることもできなくなります。主よ、私には荷が重すぎます。これ以上無理です。そのようなとき、主の御手が必要なのです。それは勝利の御手、助けの御手、全能の御手であります。

次に、災いを遠ざけ、苦しみに遭わないようにしてください。これは守りの御手であります。神様の御手がいつも私たちを守るのです。

今週も、主の祝福の御手があるように、守りの御手があるように、癒やしの御手があるように、不思議を行われる御手があるように祈ります。