2022年12月4日の説教要約
「まことの光が世に来た」 中道由子牧師
《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。》
1、命は人間を照らす光
ヨハネによる福音書の書き出しは、他の共観福音書と全く違っています。
ヨハネはキリストの伝記を書くに当たり、天地宇宙の創造の前までさかのぼりました。
ヨハネはここでキリストを「言」として示しています。
キリストは我々の想像を超える天地宇宙の生まれる前に、すでにおられたというのです。
それが1節の「言は神と共にあった。」です。
つまり、「言」であるキリストは「神ご自身」なのです。
これがヨハネのキリスト論、キリスト理解であります。
銀河系の大宇宙も、この地上の小さなかすみ草も一切のものが、神とキリストの創造物なのです。その言なるキリストの内に命があった。
ここでの「命」は人や動物が地上で生きる「限りある命」ではありません。
地上での命を生み出す「命の源」、ただ神のみが持つ「永遠の命」であります。
そして、この永遠の命が人間を照らす光だというのです。
私たちは光と言うと、すぐに太陽の光か、或いは火を思い出します。
しかし、ヨハネは光とは永遠の命のことだというのです。
天国に行ったら闇はなく、光はいらないのです。
ヨハネの黙示録22章5節「もはや、夜もなく、ともしびの光も太陽も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」
イエス様ご自身が光であるからです。
この「光」は太陽の光など、比較にならない光なのです。
人がこの光に照らされると、たとえ太陽の光が見えない盲人であっても、光そのものの源である「命」に与ることができるのです。
誰でもこの光に照らされて初めて、本当の光に接したと言えるのではないでしょうか。
2、暗闇の中で輝く光
闇は光と対照されていますが、それはただ光が存在しないというだけではない。
神の言であるキリストに対する拒否と敵意を表わしています。
ヨハネによる福音書9章41節「『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」とキリストが言われる通りなのです。
1章5節「暗闇は光を理解しなかった。」新共同訳は馴染めない訳だ、と思っていました。しかし、ファリサイ人、律法学者たちは見える、と言いながら神様のことを霊的に本当には理解できていなかった。
教団の冊子「りばいばる」に「安易な悔い改め」について書かれていました。
ヨハネの手紙一1章9節「自分の罪を公に言い表すなら、神は正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
しかし、もし罪を告白すれば赦されるから、という自動的な悔い改めを通して悔い改めの実を結ばなければ、それは安易な悔い改めと言わざるを得ません。
ファリサイ人たちには律法を守っているから自分たちは神の前に認められているといった自負がありました。
しかし、自分たちが霊的には闇の中にいることがわからなかったのです。
悔い改めには必ず痛みが伴います。痛みが伴わない悔い改めなどありません。
なぜなら私たちの罪がイエスの血によって贖われるという大きな痛みの代価があるからです。 ヨハネによる福音書8章12節でイエスは「わたしは世の光である。」とご自身を啓示されます。暗闇の中で生きていた姦淫を犯した女は、イエス・キリストから「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われ、さらに「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と宣言された。
イエスは彼女の罪を多めに見てくれたのではないのです。自らご自身がその罪を負って十字架にかかってくださった。だから、罪に定めない、と断言できたのです。
3、光の証言者
ヨハネは15節からバプテスマのヨハネの活動について書いています。
ヨハネは光の証人として、その証によって人々がイエスを神の子と信じるようになるために神から遣わされた者でした。
そして、人々に悔い改めるように勧めると多くの者が彼のもとに来て悔い改めのバプテスマを受けたのです。
それは、ユダヤ人たちにキリストを迎えるための心の準備をさせることでありました。
彼の評判は非常に高かった。
のちにイエスに敵対するユダヤ教指導者でさえも、彼の預言者としての働きを否定しませんでした。
けれども、彼の働きがどんなに高く評価されても、8節で「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来た。」のでした。
そして、15節で「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」
ヘロデ王に捕らえられてもなお「私は衰え、彼は栄える」と牢獄の中で過ごし、殉教するまでキリストの証人でありました。
イエスを指し示すために大切なことは、証しする者がめだたないことです。私たちがささげる奉仕一つ一つも主のために、光なるキリストを指し示し続ける者でありたい。