2022年12月25日の説教要約 「救い主を待ち望んだ人たち」

2022年12月25日の説教要約

                     「救い主を待ち望んだ人たち」  中道由子牧師

 

《これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。》  

                                           (ルカによる福音書2章25~38節)

 

1、ユダヤ人として生まれたイエス

 イエス様は、お生まれになって8日後に割礼を受けられました。

割礼は、神がアブラハムとその子孫に与えられた約束のしるしです。

エス様は、ユダヤ人としてその律法を守られました。

ユダヤではどこの家庭でも、長男は神様のものです。

だから、神様のものは神様にかえす、つまり献げるべきものである、と信じたのです。

エス様の両親であるヨセフとマリヤは、24節で「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして」献げました。

裕福な夫婦であれば小羊をささげることができたでしょう。

しかし、ヨセフとマリヤが貧しかったことがわかります。

これらのことは、すべてユダヤの家庭がしていたことです。長男が生まれた時にしていたことです。イエス様はユダヤ人の子としてお生まれになったのです。

私たちと同じ人間になられたのです。私たちも国籍を持っています。イエス様は、日本人でも、アメリカ人でもなく、ユダヤ人としてお生まれになりました。

ユダヤ人は、神の民として生きるために、律法に生きました。

律法は、神の民として生きるべき彼らの罪が明らかになる手立てになりました。

その律法の元に、主イエスはお生まれになられたのです。

それは、その掟に捉えられ、罪のとりこになっていた者に、もう一度、「父なる神よ」と心から神を呼ぶことができる道を開くためでありました。

 

2、慰めを待っていた人たち

 この献げものを受け取るのは、通常その宮仕えをしている祭司たちです。

宮で仕えている祭司たちが当然受けるべき代金として、その代金を受け取るはずでした。ここに祭司が登場しないのは、祭司たちもまた、イエスとその両親を心に留めて迎えるような迎え方をしなかったと言えます。

祭司の代わりに彼らの献げものを受けっとった人がいます。老預言者シメオンでした。

彼は、正しい敬虔な人でイスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。

「慰め」というのは、悲しむ人に対する励ましの言葉です。

この当時のイスラエルの人々は、ローマの圧政下にあり、経済的にもひどい状態にありました。通り一遍の言葉では、人々に慰めは与えられなかったことでしょう。

ここでのイスラエルの慰めとは、メシヤを通して果たされる神の救いを意味しています。キリストが誕生したことによって、真の救いが保証されたのです。

シメオンは、長い間ずっとその救いを待ち望み、歳をとり、もう人生を閉じようとしていましたが、救い主に会うまでは死なないとの預言を聖霊によりいただいていたので、なお主に仕えるように宮に入って来たのです。

 聖霊に満たされていたシメオンは宮に入り、幼子イエスを見て、一目で彼がメシヤであることを悟ります。聖霊によらなければ、はっと気づくことはないでしょう。

私たちの日常で神のなさることにどれだけはっとさせられることがあるでしょうか?

それは他の人から見て、特別ではない、ごく当たり前のことの中に、神の神秘が隠されているように、私たちの日常にも神秘があることに気づくものでありたいと思います。

シメオンは幼子イエスを抱いて祝福の祈りをささげ、十字架の予告を語ります。

彼は耳障(さわ)りのよい、良き訪れを伝えたのではなく、彼の預言者としての最後の働きを全うしたのでした。

 もう一人は、アンナと言う84歳の女預言者でした。

彼女は7年間の結婚の後、夫と死別し、ひたすら神に仕えていました。年をとっても、主の宮の門戸のように宮を離れず、昼も夜も断食と祈りに励んでいました。

ヨセフとマリヤが幼子イエスを主に献げるために、宮に来た時、ちょうどアンナもそこにいました。彼女の心は喜びに満ち溢れました。

彼女は神殿から町へ出て、同じようにイスラエルの贖いを待ち望む人々に、この幼子イエスのことを伝えたのです。こうして、アンナの預言者として職務は終わったのでした。

 

3、4番目の賛美

 ルカの福音書では、主イエスの誕生をめぐって4つの賛歌を書き記しました。

第一の賛歌は「マリヤの賛歌」です。イエスの母となることをさだめられたマリヤが、「わが心は主をあがめ」と歌いだします。マグニフィカートと呼ばれて、のちに多くの作曲家がこれに曲をつけて教会で歌うようになりました。

二番目は洗礼者ヨハネの父ザカリヤが歌った「ザカリヤの賛歌」。

「ほむべきかな」という言葉で始まります。ベネディクトゥスと呼ばれて、カトリック教会のミサを初め礼拝において歌われる讃美歌の原型となりました。

 三番目は、羊飼いたちに天使が御子の誕生を告げた時、「いと高きところに栄光神にあれ」、ラテン語で「グローリア・イン・ネクセルシス・デオ」と歌います。

そこから「グロリア」と呼ばれる賛歌、頌栄の原型が生まれました。

そして、最後の歌、それが、このシメオンが歌ったもので、「シメオンの賛歌」と呼ばれます。ラテン語で「今こそ去らせてください」という言葉から始まる「ヌンク・ディミトゥス」という賛美です。

教会の暦で言うと、大晦日にこの箇所を読み、シメオンの賛歌、「ヌンク・ディミトゥス」を歌ったそうです。「今こそ安らかに去らせてください」と過ぎ行く年を、賛美したのです。 私たちも年中行事のクリスマスを祝うのではなく、救い主に本当に会って真実の賛美を主にささげる者でありたい。