2023年2月5日の説教要約 「あなたを友と呼んだ」

2023年2月5日の説教要約

      「あなたを友と呼んだ」     中道由子牧師

 

《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。》

                                        (ヨハネによる福音書15章11~15節)

 

1、友とは 

 旧約聖書に出て来るダビデヨナタンは本当に仲がいい友達でした。

ヨナタンはサウル王様の息子で、王子でしたから、血筋で言うならヨナタンが次の王様になってもおかしくなかったのです。

しかし、サウル王は、ダビデの才能と人気に嫉妬して、ダビデを殺そうとします。

ヨナタンにとって、自分のお父さんが自分の親友を殺そうとすることはどんなにつらかったことでしょう。

このヨナタンペリシテ人との戦いで、サウル王とともに戦死した時、ダビデは心から悲しみ、ヨナタンの息子を守っていこうとします。

悲しいけど、すごい友情だと思います。

ここまでの友情でなくても、多くの人が友達を求めているのではないでしょうか?

心を開いて安心して話せる、本気で叱ってくれる、一緒にいるだけで楽しい友です。

しかし、友だちになるには、ギリシャ語で「フィレオ」という愛が必要です。

お互いに愛を受け取りあう関係です。そのことをイエス様は13章において「互いに愛し合いなさい」と互いの足を洗い合うことから教えてくださっています。 

ある人は、何かをしてあげることは一生懸命であっても、何かをしてもらうことを拒みます。でもイエス様からサービスを受ける。喜んでそれを受けるのです。

宗教改革者マルチン・ルターは、私達は礼拝において、神様からのサービスを受けるのだ、と言っています。また人々からの助けを受けるのです。

足を洗ってもらうことは、その人からの愛を受けることです。

 私達が忘れてはならないのは、足を洗われることと洗うこと、両方を受けとめることです。ある人は足を洗ってもらうことばかり考えて教会に来ます。

しかし足を洗っていただくことは、十字架を受けとめることでありますから、足を洗ってもらう人には「愛の負債」が伴うのです。

それは、今度は愛をもって人の足を洗うようになることです。

 愛の負債を受けた私たちは、隣人を愛する事によって、愛の負債を返して行くのです。

 

2,命を捨てる愛

ある宣教師がインディアンの義兄弟の儀式があると話してくれました。お互いの手を切って、それを結び合うのだそうです。手を握り合うと、血と血が交じり合う。それで君と僕は義兄弟の契りを交わしたのだ。そう言って、インディアンたちは義兄弟のような友達関係を築くのだそうです。

しかしそれ以上の深い関係、インディアンが手を切って血をあわせる以上に、イエス様は私たちのために血を流してくださいました。義兄弟の関係ではなく、本物の兄弟として、私達を神の家族の一員としてくださったのです。

イエス・キリストを救い主として信じるなら、私たちは決して裏切らない、最高の友だちができます。その方は、最悪の私たちの状態を受け入れてくれる、どんな時にも私たちの話に耳を傾け、慰め諭してくれる親友です。

この友だちは私たちが悔しい思いをする時もよくわかってくれます。

そしてどんな生き方をすればよいか、教えてくれます。

ローマ人への手紙12章19節

「愛する者たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」

21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」

私たちのために命を捨てるほど愛してくれるイエス様に出会うと、私たちの人生観は変わります。

 

3、僕ではなく友

エス様は、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と言われた。僕ではないのです。

 友とは英語ではFRIENDですが、この言葉は、FREE・自由という英語と関係があるというのです。 このような説明がありました。

「親子の関係、兄弟の関係、これはある意味では自由ではない、生まれたときから自分で選ぶことができない。また奴隷制度があった当時の主従関係でも、特に僕の側は、自由が、選択の自由がありません。」

 しかし友情には、自由があるのです。その自由な友情を持って、神様は私たちを友達として選んでくださったのであります。無理やり友達にならせることは出来ないのです。

それは友達といっても、名前だけです。 しかし、友達は自由です。

長く続くことも、また短期間でその友情が終わってしまうことも自由です。

 イエス様は、お互いが自由な、そして、対等な関係で付き合おう、そのようにおっしゃっていてくださるのです。

14節を直訳しますと、「あなたがたは私の友です。もし、あなたがたが、わたしがあなたがたに命じることを実行するならば。」

 これは、条件付きではないか?と感じます。しかし、このイエスが私たちに命じることは15章の前半に出て来る「キリストにとどまる」ということです。

エス様にとどまる関係をもつなら、友だちだよ、と言っておられる。

選択は私たちにかかっています。

主は決して私たちを見捨てないお方です。