2023年3月19日の説教要約
「この人を見よ」 中道由子牧師
《ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。》(ヨハネによる福音書19章1~19節)
1、何の罪も見いだせない
私たちは毎週、礼拝の信仰告白で「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架につけられ」と唱和します。ポンテオとは総督という意味です。ローマの委託を受けて、ユダヤの治安維持を命じられたのが総督ピラトでした。
総督ピラトはただ、ユダヤ人から「十字架につけろ」と迫られて、やむにやまれず、決断した。「わたしはこの男に罪を見いだせない。」と、3度までも言っています。
そして恩赦をイエスに与えようとしているのに、ユダヤ人はそれを拒否して、バラバを許せというのです。
ヨハネ福音書では、ある面、ピラトをとても良心的な人物として描いているのです。
彼らが言っている、イエスを殺せとは理屈に合わないことは、よくわかっていた。
しかし彼らを怒らせて得することはない。自分の政治家としての地位を守るために、正しいと思ったことを貫けなかったのです。 そこにピラトの罪があるのです。
英語では、普通をオーディナリー、そして普通でないことをエクストラ・オーディナリーといいます。 そういう意味では、ピラトは普通の人ではなかったのです。
彼は総督です。特別な地位にいる人です。重い責任を負っている人です。
その彼にとって、裁判をすることは普通の仕事でした。そしてこの人は死刑に当たるような罪は何も犯していない、そう判断したら、許してやる。あるいは鞭打ちだけで釈放する。それはピラトのする普通のことでした。
特別な人が、普通のこと、当たり前の業務をちゃんと遂行することが出来なかった。
そこにピラトの罪があり、毎週毎週「ポンテオ・ピラトのもとに」という言葉を言われ続けなければならない理由があるのです。
特別な立場にいる人に対する神様の要求は、一般の人よりも厳しいのです。
何故なら特別な祝福、特権をいただいているのですから、その責任もまた重いのです。
神に仕える教職にある者と信徒の方の罪における扱いは違います。
ですから、ピラトにどんなに同情すべき点があっても、彼が負っていた立場と責任からすると、ユダヤ人の言いなりになってイエスを罪に定めたことは、言い逃れが出来ないことであったのです。
しかし、神は私たち罪人を救うために、罪のないお方を罪ある者とされたのです。
ピラトの失敗も私たちの救いのために用いられました。
2、神からの権限
次にピラトが認識していなかったことは、自分の権威は、自分で手にしたものではなく、神から与えられていることに気がつかなかったことです。
イエス様とピラトとの対話でそれが明らかにされます。
19章10~11節でピラトは、私にはあなたを許す権威がある、また、十字架に付ける権威があると強い言葉をいうのです。
それに対してイエス様は、そのような権威は、あなたのものではなく、上から賜わったものである。つまり、神様があなたにお与えになったものだ。神様が、私を十字架につけるという御意志をお持ちでなかったら、あなたにはその決断さえ出来ないのだ。
これを「神の主権」と言います。自分の与えられている権威、それは親であっても、教師であっても、会社や社会でのポジションであっても、教会の中の立場であっても、神様が決めなさった。そのような自覚が、神の主権を認めるということです。
ピラトには、この認識がかけていました。
ピラトがここで気づかなかったもう一つのことは次のことです。
「ピラトはこれらの言葉を聞くと。イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた。」
これはイエスを裁く為にピラトが裁判の席に着いたと理解すべき内容ですが、ギリシャ原文では、イエスが裁判の席に着いたと読めるのです。つまり本当に裁きをなさるのは主イエスである。裁いていると思っているピラトでさえ裁かれているのです。
3、見よ、あなたたちの王だ
それ以外にも神の主権により、ピラトの言葉が思いがけないかたちで用いられています。その一つが、「見よ。あなたたちの王だ。」と言う言葉です。
ピラトはここで、軽蔑を込めて、この男を見ろ、惨めで、みすぼらしくて、どこが目くじらを立てて十字架につけよというほどの男か。そのような意味を込めていたのです。
ユダヤ人の王と自称していたと書きなおして欲しい、そのようなユダヤ人の要求を撥ね退ける。それは自分の意図をまげて、死刑判決をさせられたことに対する憤りで、俺の書いたことにケチをつけるな、そのような意味なのですが、ピラトはここでも、このお方はユダヤ人の王、しかもそれはユダヤだけでなく、ギリシャ語を理解する人も、ローマの言葉を理解する人にも当てはまるのだ、と示したことになります。
このお方こそ、全世界の王であり、主である。そのようなメッセージとして、人々に読まれたのです。神様がピラトの意図を超えて、御自分のなさりたいことを行われたのです。
私たちは日々、神の主権を認めて生きているでしょうか?
自分の思うとおり、自分のやりたい通りに、行動することはないでしょうか。
神がすべてのことにおいて支配しておられる、そのことを認めるとき、謙虚に、神様が私を通してなさりないことは何でしょうか、私の果たすべき目的はなんでしょうか。
そのようにひざまづいて生きて行くことが出来るはずです。