2022年5月22日の説教要約 「善に生きる」

編集

2022年5月22日の説教要約

                「善に生きる」  照内幸代牧師

                                                            《ペテロの手紙1:3章13~18節

 

始めにペテロは、「良いことに対して熱心である」ことを勧めています(13-14節)。この熱心であるという言葉は、「熱心党」という政治思想者に対して良く使われました。「熱心党」に属する人たちは、自分の生活の一切を愛国心にささげていました。ペテロは、善に対しては、熱心党に属する者達のように、熱心でありことを勧めているのです。

では、善を熱心に追い求めて生きるとは、どういうことなのでしょうか。ペテロは二つのことを上げています。一つが、「心の中でキリストを主とあがめる」ことです(13-14節)。旧約聖書に出て来るダニエルという人物は、ライオンの穴に投げ込まれる迫害に遭ったときも、人を恐れず、心を騒がせず、心の中でキリストをあがめました。私たちも主をあがめて善に生きる時、善を喜ばれる神様の助けが与えられます。

続いて、ペテロは「弁明すること」をあげています(15節)。わたしたちが「抱いている希望について、説明を要求する人には、いつでも弁明するように備えていなさい」と勧めています。「弁明する」ということもまた、善を追い求めて生きることなのです。なぜならペテロはこう言っています「それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)。弁明には愛があるのです。穏やかに、敬意を持って、正しい良心でした弁明は、神もキリストも知らない者たちにも、神の愛をはっきり示す力があるのです。

最後にペテロは、善を追い求めて生きる理由として、キリストがそうされたのだということをあげています(17-18節)。私たちも現代日本で生きていますが、キリスト者として善を行って、それで迫害を受けることはほとんどありません。ところがたったお一人、善をしたのに受け入れられなかったお方がいます。それがイエス様です。罪人である私たちが苦しむことを神は良しとせず、私たちが生きることを願われました。ところがこのたった一人の正しいお方が苦しむことを神は御心とされたのです。ペテロは、それは「正しくない者たちのため」であったと書いています。肉においては死んでも、霊においては生きる者となるように、キリストはそれを受け入れられたのだというのです。

善人が苦しむことを神は良しとされませんが、もし、仮にそういうことがあったとしたのなら、ペテロははっきり言います。「義のために苦しみを受けるのは幸いだ」「善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむより良い」。なぜならかつてキリストはそのようにして、正しくない者たちのために苦しみを受けられ、私たちを生きる者につくりかえてくださったからなのです。私たちが善を行うとき、それによって何か損をしたように思われるときもあるかもしれません。しかし私たちが貫く善の行いは、誰かにキリストを示し、その誰かの命を得る道であるかもしれません。私たちは、善の熱心党でいようではありませんか。善を追い求めるとき、私たちが得るものはかならずあるのだと信じて、私たちはキリストの道を今週も歩んで行きましょう。

2022年5月15日の説教要約 「絶望から立ち上がれ」

2022年月5月15日の説教要約

     「絶望から立ち上がれ」  中道由子牧師
 
《イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」》
ヨハネによる福音書5章1~16節) 
 
1、いつくしみの池
 神殿の北側の羊の門のそばにベトザタと呼ばれる池がありました。
「ベトザダの池」の「ベト」はヘブル語で「家」、「ザタ」はヘブル語で「慈しみ、愛」を表すヘセドの変形で、「ベトザタ」は「いつくしみの家」という意味になります。
「あわれみの家」とも言われ、多くの病人が癒やしを経験しためぐみの場所でありました。
「日」の形をした二つの池の周りには、5つの回廊があり、癒やしを期待して集まった大勢の人が横たわっていたのです。
一種の病院のような所でありました。当時の医学ではどうすることも出来ない者ばかりで、当時の医学の多くは迷信や呪術と結びついていました。
当時の一般的な信仰として、この池の水の動きを、人々は天使が水浴びをしにくると信じていたのです。これは、上の池から下の池に水が流れるとき生じる水の動きであったのか、あるいは間歇泉であったのか、と思われますが、人々は天使が降りてきたと思ったのです。
みんなその池の水の動くのを今か今かと待っていたのでした。
見えない天使が水浴びをして、さっと舞い上がると、池に、そのときの激しい水の動きが見えたのでしょう。それ!というので飛び込む。先に飛び込んだ者の勝ちです。
他人を押しのけて、真っ先に飛び込まなくてはならなかったのですから、周りは皆敵でした。隣の人が癒やされると、自分は癒やされないということになる。
いつくしみの家という名にまったく反する悲惨な争いの場所、失望が渦巻くところでした。
 しかしキリストは、この人にも憐れみをほどこしてくださるのです。
 
2、良くなりたいのか
 ここに38年間も病を患い、心身共に疲れ果てた一人の病人がいました。
38年という年月がどのくらいかというと、イスラエルの民の荒野の旅は40年と言われます。それとあまり変わらない。おそらく、その人の一生の大半を病気で過ごして、同時にまた家族からも放り出されたのかもしれません。
その男が横たわっているのをご覧になって、イエス様はその男に「良くなりたいか」と言われました。この人にそんな質問をするなんて・・・、治りたいに決まっているでしょうと私たちは思います。病人が良くなることをあきらめてしまったら、そこから前に進めません。大切なのは、癒されたいという意思を持つことなので、主はその意思を促されたのです。
38年も病気になると、その中で癒しに見放され、病が住み着いてしまうと、もう本気で癒されることを願わない、自分で健やかになろうとする強い意志を持つことができなくなってくるようです。癒しへの強い願いを失った者を癒しへと励ますのは、私たち人間には限界があります。
エス様はその人に向かって、「良くなりたいか」とおっしゃった。
これは、「さぞ治りたいだろうね。」という同情の気持ちも含まれています。
さらに別の角度から大切なことは、彼の中にある「もう治らない」というあきらめや「自分には治るだけの神の祝福はない」という偏見を取り除く意図がありました。
エス様は私たちの信仰や祈りの中に潜む、ある種のあきらめ、自分はこうだから祝福されないのだという理由を払拭したいのです。
 まず彼の問題意識です。彼は素直に「治りたい」とは言わないで、自分を池に入れてくれる人がいないという問題を指摘するのです。
この男はここで「行きかけると」と言っています。本当にそうなのでしょうか。
彼はそうして何十年もそこにいます。ただやるようなポーズをしているだけのように見えます。周りの人はそれを見て、「ああ、あの人ができないのももっともだ。それにしてもよくやっているよ。」という評価が欲しい。これは残念ながら、周囲の人の同情や憐れみを買う姿です。「あの人のようにできないから駄目だ」という言い訳ではなく、神がすでにあなたに与えられているものを、全力を尽くして用いる時、「こうできたら」と願いを持っているだけの状態から解放されるのです。
 
3、床を担いで歩け
 イエス様は彼に言われました。8節「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
エス様のその言葉を聞いて従った男はただちに癒されたのです。
神の臨在と力とが主イエスの言葉のうちに働かれたのです。
しかし、このしるしが起きたのは安息日でした。律法学者にはそれの方が重大問題でした。
安息日には一切の労働が禁じられていました。しかし、この病人は、床を取り上げるという「労働」をして安息日律法に違反したと言って咎められたのです。
しかし、この男は病気を直してくれた方のことばに従ったにすぎないと答えました。
ユダヤ人は癒しを否定したのではない。癒された男が、安息日に床を取り上げたのが問題だったのです。そんなことをしたイエス様はけしからんということになったのです。
しかし、本当に聖書が伝えたい、命、解放、救い、癒し、力、勝利などを見過ごしています。
最後に、イエス様はこの男に8節「起き上がりなさい。」と言われた、ここには大切なメッセージがあります。
この言葉は、2章19節「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる。」という「建て直す」というのが、この「起き上がる」「立ち上がる」と同じ言葉であるということです。
神殿を立ち上がらせると主は言われた。これは、神殿であるご自身の体の復活のことです。
私たちの体は癒されても、この地上では最後には朽ちていきます。
しかし、イエスキリストを信じるなら、朽ちない体、復活の体をいただけるのです。
起き上がり、立ち上がり、この希望に生きなさい。

2022年月5月1日の説教要約 「水がぶどう酒に変わった」

2022年月5月1日の説教要約

     「水がぶどう酒に変わった」  中道由子牧師

 

《イエスは、このしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。》

ヨハネによる福音書2章1~12節)

 

1、ぶどう酒がなくなりました 

 ガリラヤのカナで結婚式がありました。

エス様は弟子たちと共にその婚宴に招かれていました。

どうやらこの婚宴はイエスの近い親戚のお祝い事であったようです。

当時婚礼の宴は一週間も続くことがありました。

そんな時、祝宴につきもののぶどう酒が底をついてしまった。「どうしよう」という世話役の困った姿を察して、母マリヤはイエスに事態を解決してくれるように訴えました。

 ぶどう酒はいつでも喜びの時に出されました。ユダヤのことわざに「ぶどう酒がなければ喜びもない」と言われています。人生の一番おめでたいお祝いの席で、客をもてなすぶどう酒が切れてしまったのです。当事者にとってこれほど困ったことはありません。

 私たちの人生にも大切なものが失われる、喜びがなくなった、ということはないでしょうか?そんな時、母マリヤがしたように、イエス様を呼ぶのです。

3節「ぶどう酒がなくなりました」と、主イエス様に訴えるのです。

「私の喜びがうせました。」「疲れています。」「不安が心を閉めています。」「問題があります。」「私は悲しいです。」なんでもいいです。主に訴えるのです。

主は助けをくださいます。

 

2、神の時と創造のわざ

 さて、主はここで母マリヤの訴えに対してどう答えておられるでしょうか?

4節「婦人よ、わたしとどんな関りがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

エス様、それは冷たいと感じますね。しかし、旧約やユダヤギリシャ・ローマ世界では広くみられる表現のようです。否定的な意味ではなくて、「お母さん、どうしろと言うのですか。まだ時ではないのに。」程度の会話だというのです。

 このヨハネによる福音書で、「時」というのは重要な鍵の言葉です。

時は、常にイエス様の十字架の死を意味しているのです。それは神の御計画のうちに定められた時であって、いかなる人間的なものもこれを変更することができない。

果たして「わたしの時」、それはいつ来るのか?

ヨハネによる福音書12章23節「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』」

エス様の時は十字架にかかってご自分の使命を果たす時、であってこの時を軸にすべてが回転しているのでした。

エス様はどんなでも父なる神の御心を行ってこられました。

人に頼まれてとか、自分の考えでしるしを行うことはなさらなかった。

このカナの婚宴のしるしは、イエス様が行った最初のしるしでした。

エス様が給仕の者たちに水がめを水で満たすように命じられると、水がぶどう酒になります。神が天と地を創造されたように、イエス様も「しるし」として創造のわざを行われます。神の創造とイエス様がしるしを行われることは、「造る」(ポイエオー)というギリシャ語が使われているそうです。

エス様がしるしを行われた、それは天地創造の業と同じである。

だから、しるしを見た弟子たちは、イエス様が創造者であられることを知って、この方の栄光を見て信じました。しるしの目的は、イエス様の栄光を現すことでした。

 イエス様を信じたのは、急場を救ってもらった新郎新婦でも、奇蹟に気づいたはずの召使いたちでも、世話役でも、出席者たちでもないことは興味深いことです。

主の教えを聞き、共に生活していた弟子たちでした。

そして、このしるしは弟子たちの信仰を固くするためでありました。

 同じように、主は私たちの信仰を固くしてくださるために今もしるしを行われます。

フィリップ・ヤンシーはこう言いました、「私たちが寄りかかれるものが何もない時、さらには、自分をも信じられないとき、そんなときも神はそこにおられる。」

 

3、喜びの生活へ

  イエス様が奇跡を行われたので、興ざめになるところだった婚礼の宴会に喜びをもたらします。この出来事には大切なことが隠されています。

まず、神の国の生活は、生気のない禁欲的な堅苦しい宗教的なものではなく、活力あふれる婚礼の宴会のだということです。

古いものであるユダヤ教は、底をついた宴会の空のぶどう酒のかめに例えられます。

その信仰は底をつく。

私自身、子供のころから何の疑問も抱かず、仏壇に手を合わせていました。

しかし、そこに私の求めるお方はおられなかった。

本当に悩んだ時、そこに解決はありませんでした。

ぶどう酒の樽が底をつき、破産状態になった時イエス様が来られ、良いぶどう酒があふれます。これは新しい生きた信仰で、古いものよりもはるかに優れた新しいものを意味しています。宴会でぶどう酒を飲んだ人々はその差をはっきりと感じて、「後のものが前のものより良い」と言います。

エス様を信じて生きる人生は、新しい命に満ち溢れているのです。

このお方を信じる時、今まで味わったことがない深い喜びと充足感で包まれます。

それは、聖霊によって与えられる喜びなのです。

2022年4月24日の説教要約 「寄り添われるイエス様」

2022年4月24日の説教要約

                「寄り添われるイエス様」  照内幸代牧師

                                                            《ヨハネ20,11-18》

 

私たちにとって、イースターは本当に喜ばしい朝です。しかし、この世界で最初のイースターの朝は、実は私たちが今イメージとして持っているイースターの煌(きら)びやかさとはほど遠いものでした。それは、主イエス様との死の決別を経験した人々にとって、つらく悲しい大きな痛みの朝であったからです。私たちがもしこのイースターをコロナや戦争で深い悲しみの中、とてもお祝いする気持ちでいられずに迎えるのだとしたら、それは世界で最初のイースターの朝にむしろ近いのではないかと思うのです。イースターの恵みのメッセージは、むしろ大切な誰かを失い、愛するものをなくし、深い悲しみの中にある人々のためにもあるのだということに気付かされます。

イースターが喪失の朝であったということは、このマグダラのマリアの話に一番現れています。急いでやってきたイエス様のお墓に、イエス様のご遺体は無かったのです。自分が無力であって何もできないという大きな喪失感に襲われ、マリアは泣き出してしまいます。主イエス様はそのマリアに寄り添われました。「なぜ泣いているのか」とお尋ねになり、泣き悲しむマリアの怒りや悲しみを受け止められました。しかしマリアが主の復活に気付き、元気を取り戻し、喜びにあふれると、「きょうだいたちのところへ行って、彼らに私の言葉を伝えなさい」と励ましておられます。世界で最初のイースターは、悲しみに寄り添われ、その後励まされ、そして新しい出発をお与えになられた朝だったのです。マリアはその通りにし、墓場を去って弟子たちのところに、このイースターの喜びを知らせに行きました。悲しみの朝、苦しみの朝は、喜びの朝、良い知らせの日に変わったのです。

主イエス様は、マグダラのマリアになさったように、私たちにもしてくださるのではないでしょうか。私たちは今、新型コロナの影響下にあって、煌びやかな飾りも、ご馳走も、聖歌隊や卵探しも、大規模な伝道集会もできないかもしれません。しかし、私たちが思いっきり活動し、喜びの声を上げて、盛大にイースターをお祝いできるときはまたやってきます。そのとき主イエス様は私たちに改めて、「私のきょうだいたちのところへ行って、私の言葉を伝えなさい」と私たちに言ってくださいます。イエス様は私たち一人一人が今、何を感じ、どのような気持ちでいて、どんな状況にあるのかを知っていてくださいます。悲しんでいるものには、慰めのイースターを、喜んでいるものには励ましのイースターを携えて来てくださいます。一つ言えることは、主は復活し、よみがえり、今も生きていらっしゃるということなのです。その私たちの主が、今も私たちを心配し、気遣い、私たちを慰め、励ましていてくださるということなのです。

2022年4月17日の説教要約 「新しい宮は三日で建つ」

2022年4月17日の説教要約

            「新しい宮は三日で建つ」  中道由子牧師

 

《イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」》

                                                   (ヨハネによる福音書2:13~25節)

 

1、古い神殿     

 祭りのたびにイエス様はエルサレムに上られました。

各地に散在していたユダヤ人もエルサレムに巡礼するために集まってきて、町は人の群れでごった返していました。この祭りは、過ぎ越しの祭りでした。

 神殿の一番外側の庭は異邦人の庭と呼ばれて、そこで巡礼者の便宜を図っていけにえ用の動物を売る商人たちが店を出したり、両替人が活発に活動したりしていました。

両替は、支配国ローマの貨幣が神殿への捧げものとしてふさわしくないので、ユダヤ貨幣に替えるためでした。彼らには祭りの一カ月前から、売台を据えることが許可されていたようです。過ぎ越しの犠牲としてこれらはどうしても必要でした。

ですから、これを売ることは決して悪いことではありませんでした。

しかし、たとえ祭りのためとは言え、神殿を「商売の家」としてはならないのです。

両替人が交換レートを法外に不当なものにしたり、商人がいけにえの動物の売買でもうけていたのです。それだけではない、神殿の指導者層は商人や両替人からわいろを取り、その一方では自分たちがローマの権力者にわいろを送っておもねり、自分たちの懐を温めていました。

エルサレムへの巡礼にあたり、何日もかけて、巡礼の旅を続けて人々はまいります。

それらの人々が、牛や羊を連れてくるわけにはいかないこともわかります。それで、人々は自分の持ち物である牛や羊を自分の家で売って、そのお金を携えて、エルサレムに来て、それと同じ値の牛や羊を買って神への供え物としたのです。

人々にとっては、決まりきったことをしている。しかし、その中できよい神様の宮が汚されていることをイエス様は強く感じていました。

 そして、先のことを見据えておられた主は、この神殿が破壊される運命にあることもご存じでありました。人間がどんなに頑張って計画して建築した神殿も、人間の手によって、実際にはローマ軍によって簡単に破壊されてしまうのです。

 

2、神殿をきよめられる主

 15節から神殿の様子をご覧になっていたイエス様から、怒りが爆発します。

エス様は細縄でむちを作り、その鞭を振って動物たちを追い出し、両替人の台を倒し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」激しい言葉でイエス様はお怒りになられました。 両替人たちにとっては、何をするのか?という気持ちにもなったでしょう。

 敬虔な礼拝の場であるはずの神殿が冒涜されている。

神殿を「私の父の家」と呼ばれたイエス様は、神殿本来の目的にかなわないすべてのものは拒絶され、除かれなければならないと言われたのです。

彼らが思いだしたみ言葉は、詩篇69篇10節でした。「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしている。」

主がエルサレムの神殿をあまりにも熱心に思うので、そのことがついにキリストを滅ぼすというのです。事実、キリストは十字架上で殺されてしまうわけですが。

 しかし、この事態を目撃したユダヤの指導者たちが黙っているはずはありません。

なんの権威があってこんなことをしたのか、お前の持っている権威の証明書を見せろ、とイエス様に詰め寄ったのです。

 その瞬間、彼らが自分の耳を疑うような言葉がイエス様の口から語られます。

19節「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

エス様はこれがご自分の権威の証明であると主張されたのです。

しかし彼らは当然のことながらイエス様の言葉を誤解しました。

このほとんど完成に近づいている見事な神殿をまえに彼らの目には、なにをたわけたことを言ってるのか、としか思えなかったでしょう。

 イエス様が語った「神殿」は、エルサレム神殿のことではありませんでした。

ご自分の体のことでありました。

彼らはイエス様を十字架につけるが、主は、三日目に死人の中から甦り、神の民の新しい礼拝の中心となられることを語られたのです。

この選び出された新しい民とは教会のことで、キリストのからだと呼ばれます。

今朝、私たちはこうして神の宮である教会に集まって復活の礼拝をささげています。

この礼拝はイエス様が願っておられた、新しい宮の集いであります。

その中にある、復活を約束された私たちの心は、どうでしょうか?

 

3、人の心にあるもの

 自分を支持してくれる人に好意を持つのは人の常です。

しかし、イエス様はそのような必要がありませんでした。

エス様は人の心の移ろいやすいことをよくわかっておられました。

人は愛する対象であって、頼る対象ではない。頼る対象は、神だけです。

 過ぎ越しの祭りの間に、イエス様は他にも多くのしるしを行われました。

そして多くの人がそれらのしるしを見て、イエス様を信じました。

しかし、キリストの使命は決してそのようなしるしをもって、もてはやされる程度ではなかった。キリストの使命は、「十字架にかかって神の義を全うし、人類に対して完全な罪の赦しと永遠の命を与えること」でした。

 私たちは生きている間、親や友人など、人の死に遭遇します。

ところが、復活は、人がこの世では経験できないものです。

信仰のクライマックスは、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神様を信じ、復活の希望に生きることなのです。

2022年4月10日の説教要約  「道を作られたイエス」

2022年4月10日の説教要約

        「道を作られたイエス」  中道善次牧師

                                                 ≪ヨハネ14:6≫

 

今日、礼拝でとりあげたいヘブライ語は、デレクです。

デレクというヘブライ語は「道」という意味であります。

今日はこのデレクと、イエスが語られた有名な言葉、ヨハネ14:6の「私は道であり、真理であり、命である」という言葉から聖書のメッセージを聞いてゆきたいと思います。

 

1、父に通じる道

ヨハネ14:6には、次の英語訳があります。I am the living true way 私は生きた真の道である。

道、真理、命と三つのことをイエスはおっしゃったのですが、この言葉の中で、一番大切なメッセージ、それはイエスが「道」である。父なる神に通じる唯一の道であることです

この言葉を語るきっかけを作ったのは弟子トマスの質問でした。

「イエス様、あなたはどこにゆかれるのですか?どうしたらその道が分かりますか?」

それに対するイエスの言葉が、私こそが父に通じる道、神に、天に通じる道なのだと言われたのです。

エスが語られたヨハネ14:6はギリシャ語で書かれています。しかしイエス様が普段使っておられたのは、ヘブライ語に近い言葉語でした。また聖書を深く知っておられるイエスヘブライ語の知識も十分お持ちでありました。

ヨハネ14:6で、道というギリシャ語はホドスです。

そしてホドスをヘブライ語に直すとデレクになるのです。

エスが「道」という言葉で意図されたことは、ヘブライ語のデレクに基づいているのです。

デレクという言葉の成り立ちを調べました。ダーラークという動詞がもとになっています。

その意味は、第一に踏む、第二の意味は、踏みつぶす、踏みにじる、踏みつけるという意味です。そして道を踏み固めるという意味があります。

道とは踏みつけられて出来るもの。そういう理解です。

エスは、人々から踏みつけられて、父なる神様に至る道を作られたのです。

人々からののしられ、むち打たれ、十字架にかかり、殺されたのです。踏みつけられ、踏みつぶされたのです。

しかしそのことによって、私たちのために天に通じる道を、天国に行く道を作ってくださったのです。

 

 

2、道を開かれたイエス

十字架の上で、イエスは踏みつけられて、神に至る道を造られた。

道に関することで、もう一つの表現を使うなら、道を開かれたのです。

それが書かれている聖書の箇所は、マルコによる福音書15:33~38です。

38節に注目ください。

マコ 15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

ここから、イエスが、ご自分のお体を裂いて、それは神に至る道を開かれたことが分かるのです。

旧約の神殿は、聖所とその奥にある至聖所と区別され、聖所と至聖書の間には垂れ幕がありました。

神殿の幕とは、神殿の中を二つに区切る分厚いカーテンです。そのカーテンの奥は、神がお住まいになる聖なる場所、至聖所があります。そこには大祭司という神に仕える聖職者のトップだけが一年に一度、罪の赦しの儀式をする為に、入ることが許されている場所です。

言葉を換えると、罪人である私たちは、簡単に神様に近づくことが許されないのです。

そのように人間と神様を隔てていた幕が、イエスが亡くなったとき上から下に破れたのです。

それは神に通じる道が、開かれた事を意味します。ヘブライ書では次のように書いております。

ヘブ 10:19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。

口語訳では、「はばかることなく聖所にはいることができ」と書かれています。恐れも遠慮もいらない。自由に入ることが出来るのです。

ヘブ 10:20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。

エスが十字架で命をお捨てになられたとき、人と神を隔てていた幕が打ち破られた。それは神への道が開かれたことです。もう神を恐れることはない。信頼して、自由に近づくことができるのです。

 

 

3、主は道を作られる

私が道であるという言葉と関連して、もう一カ所、読みたい聖書の箇所があります。

イザヤ43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。

アメリカのワーシップ・リーダーにドン・モーエンという人がいます。

彼が作った歌の一つに、God will make a way があります。

歌の後半には、「荒野に道を、砂漠に川を、今日も作られる」という言葉が出てきます。

そこから、イザヤ43:19を基にして作った歌であることがわかります。

日本語に訳され、歌われている歌詞を紹介します

『主は道を日々つくられる 何もないように思える時でも 

主はみ手で みもとで支え 新しい明日へ 主は道をつくられる』

 美しい歌詞とメロディです。 しかし私はその曲の成り立ちを知ったときに驚きました。

「God will make a way」は、湖の事故で自分の甥がなくなった後に作られたのです。ドン・モーエン自身もショックでしたが、子どもを失ったお姉さんを慰めるために生まれた賛美なのです。

 試練の中で、悲しみの中で、生まれてきた歌が、God will make a way だったのです。

先ほど、イエスは、神様に通じる道を作られたと語りました。

しかしその道は、イエスご自身が踏みつけられて出来た道であったのです。

そのようにして道を作られたイエスは、傷ついている私たちのためにも道を作られるのです。

これからどのように進んでいったら良いか分からない。将来のことを悩んでいる人のために、神は何もないように思えるところに道を作ってくださるのです。

痛みや苦しみの中で、これからどうしていったらいいのだろう。途方に暮れるような時にも、主は私たちのために道を作ってくださるのです。

神は、私たちのために、道を作ってくださるのです。

2022年4月3日の説教要約 「生まれ変わらせる十字架」

2022年4月3日の説教要約

    「生まれ変わらせる十字架」  中道由子牧師

 

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。》

ヨハネによる福音書3章1~16節)

  

1、新しく生まれる

 夜、人目を忍んでイエス様の下に来た一人のユダヤ教の指導者がいました。

ニコデモという人でした。彼はイエス様に深い関心を寄せていて、イエスの行われた数々のしるしを見て、普通の人にはできない神のわざだと感銘を受けていました。

彼はイエスを教師としては尊敬していましたが、それ以上のお方であるという認識はなかったのです。

それに対して、イエス様は、単刀直入に核心をつく言葉を語られた。

3章3節「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」霊的誕生の必要を説いたのです。

この「新しく」と訳されている言葉は、「上から」とも訳せます。新しい誕生が母の胎からという下からではなく、上から、つまり神による超自然的、霊的な誕生であることを示しています。

この新しい誕生は、水と御霊によってもたらされる。

私たちは水の洗礼とキリストにより賜る聖霊によって新しく生まれるのです。

私たち罪ある人間は、この肉体をもった体の誕生の次に、このようにエス様と霊的に出会う第二の誕生が必要なのです。

新しく生まれるとは、神の御霊によるわざであります。

けれども、それがどのようにして起こるのかは誰も説明できないのです。

ギリシャ語で「風」も「霊」も全く同じ語「プニューマ」という言葉だと言います。

ヘブル語では、霊は「ルーアッハ」と言って、神様が塵から造られたアダムに命の息、霊をふーっと吹きかけて、アダムは生きるようになったところからきています。

ただの風ではない、命の息、聖霊であります。

それで8節では「風は思いのままに吹く。」とも訳せるわけです。

御霊の風は思いのままに吹く、とは御霊は好んで働かれるところに引き寄せられるように吹く。罪のある所、疑いのあるところ、争いのあるところに御霊は好んで吹かないのです。聖霊様がさわやかな風を吹かせたいと願うお互いでありたいと思います。

 

2、仰ぎ見て生きよ

 イエス様は10節で「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか。」と本当にがっかりされて、旧約聖書の話をされます。

 十字架の意味を明らかにするためにです。イエス様は14節でイスラエルの民が荒野で40年にわたってさまよった時の一つの出来事を引き合いに出されています(民数記21章4~9節)。食糧難と水不足に苦しんだイスラエルの民は指導者モーセに逆らいます。その罰として彼らは神が送られた燃える蛇にかまれて、多くのものが死んでしまいます。イスラエルの民は自分たちの不従順を悔いて、モーセに助けを求めると、モーセは神の命令に従い、青銅の蛇を作って旗竿の先につるしました。そして、その青銅の蛇を仰ぎ見た人は救われたのです。イエス様は、十字架を指して言われたのです。

イスラエルの民が神の約束を信じ、青銅の蛇を仰ぎ見て救われたように、十字架にあげられるイエスを信じて仰ぎ見る者は誰でも、永遠の命を神様からのプレゼントとして受けることができる。

ほかの何がなくても主の十字架を仰ぎ見る時、私たちの代わりに死んでくださった主を見るのです。

 

3、愛されてしまった

新しい誕生は、3章15節、16節では「永遠の命」が与えられるという表現になっていきます。16節は特に有名なみ言葉ですが、このような訳に出会いました。

「神はこの世を愛されてしまったのです。それで、独り子を与えてしまわれたのです。それは、彼を信ずる者はだれも滅びないで、永遠の命を持つためなのです。」

英語訳には”For God so loved the world, that he gave his only Son”

「このような事情で」という「なぜなら」の”For”が入っていますが、日本語訳には訳されていません。それまでの事情です。

キリストが光としてこの世に来られた時、この世はキリストを受け入れず信じなかった。また、強盗の巣となっていたエルサレムの神殿をキリストが清めると、ニコデモ一人を除くユダヤ人たちはこぞってこれに反対しました。

このように、人類の祖先アダム以来、事ごとに神に反逆し、神の御心を踏みにじってきた、「この世」、神の愛を受ける資格のない「この世」であるのに、神はそのような状況下において、そのような「この世」を愛されてしまったのです。

神に反逆し、罪の中にあるこの世を神は愛されてしまった。

神の独り子のキリストを憎み、受け入れもしないこの世を神が愛されてしまった。

その愛のゆえに、「独り子」というのは、「神と全く同質、同等の神の子」をこの罪の世に与えてしまわれた。

「与える」という語には、「送る」、「死に渡してしまう」という二つの意味があって、これは神の完全な放棄を意味します。

つまり、神はこの世の人々が神であるキリストを自由に十字架につけ、なぶりものにすることを許してしまわれたのです。