2021年6月13日の説経要約 「聖霊に心をセットする」

2021年6月13日の説経要約

                「聖霊に心をセットする」   中道善次牧師

 

≪これに対し、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。≫

                                                      (ガラテヤの信徒への手紙  5:22~23)

 

1、 聖霊を心に迎える

ガラテヤ信徒への手紙5:16には、「霊の導きに従って歩みなさい」という勧めが出てまいります。

それは、聖霊によって歩むことですが、具体的にはどのようにしたらいいのでしょうか?

私は、献身してから、毎日のように繰り返してきた祈りがあります。

それは、「聖霊様、私の心に中に来てくださり、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制の御霊の実を結ばせて下さいと」いう祈りです。新改訳聖書と口語訳が合わさった言葉になっております。御霊の9つの実を口に出して、これらの実を結ばせてくださいと、祈ってまいりました。

あるとき私は、自分のしてきたことがこれだと発見したことがあります。

ローマ信徒への手紙8:5を学んでおりました。日本語では、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」とあります。

「霊の導きに従って歩みなさい」というガラテヤ5章16節と同じようなことを言っている箇所であります。

「霊によって歩む」や「霊に従う」。よく耳にする言葉ですが、わかったような、わからないような言葉です。

英語の聖書RSV(李培図土・スタンダード・バーション)では、ローマ8:5を次のように書いているのです。

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え。これは、セット・ゼア・マインド・オン・ザ・フレッシュ、

霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。これは、セット・ゼア・マインド・オン・ザ・スピリットです。

マインド・セットという言葉。思いをセットするのです。

私たちの考えや思いを、聖霊様にセットする。そのことが大切だと聖書は言うのであります。

私がしてきた、御霊の実を結ばせて下さいと言う祈りは、聖霊様に自分の思いをセットすることだったのだと分かりました。

私自身の信仰上の経験から、次のように申し上げることができます。それは、私たちが日々の生活を送る上で、オートマチックに私たちの思いが聖霊にセットされるような事はないのです。私たちの思い・マインドは、放っておくと、肉の方にセットされてしまう、そのような傾向があることを私たちは忘れてはならないと思います。

ですから、「私たちの思いや考えを聖霊様、あなたにセットします」。そのような祈りなしに、私たちの心が聖霊にセットされることがないのです。

 

2、御霊の実

御霊の実と呼んでいるもの。それは英語では、fruitsフルーツではなく、fruitフルートゥであります。

一つ一つの実が別々に結ぶのではありません。ぶどうの房に実っている実のことであります。

ですから、私には御霊の実の「喜び」はあるけれども、「愛」はありませんとはいえないのです。

私には「親切」の実は結んでいるけれども、自制の実、セルフコントロールが足りませんとは言えないのです。

9つの実について、それぞれの紹介を簡単にします。

愛の実:コリント信徒への手紙1の13章、愛の賛歌と言われている箇所をお読み下さい。

1コリント13章で、私が心に留めている言葉の中に、5節の13:5に「恨みを抱かない」があります。口語訳では「愛は人のした悪を思わず」となっています。「思わず」とは、ノートに書き留めないという意味です。私たちは、あのときあの人にこう言われた、などと何時までも記憶にとどめています。まるで人の悪をノートにとっているようにして、人の悪を記憶する。でも愛は、嫌なことをされたことがあっても忘れるのです。

喜びの実:パウロはフィリピの手紙の中で何度も「喜びなさい」と繰り返しているのです。私が心に留めている言葉はフィリピ3:1です。そこには「私の兄弟たち、主において喜びなさい。・・・これは・・・あなたがたにとって安全なことなのです。私たちが生きてゆく中で、喜んでいると、間違った教えからも、人を批判する言葉からも守られるのです。

平和の実:マタイ福音書5章9節「平和を実現する人々は幸いである」。口語訳では、「平和を作り出す人たちは幸いである」とあります。平和を作り出す。自分の心が平和であれば、平安な心を保っていれば良いというのではない。人と人との間に平和を作り出す。言葉を換えるなら、和解をもたらす働きであります。

寛容の実:ある英語の聖書ではペイシェンス(patience)、つまり、忍耐となっております。またギリシャ語からの解説を読むと、ロングサファーリング(long-suffering)、つまり長く苦しむという言葉が使われております。御霊の実が示す「寛容」は、他者からひどい扱いを受けたときにとる態度のことであります。ヤコブ5:11には、「ヨブの忍耐について聞き」とあります。ヨブの忍耐は、試練を耐えたと同時に、3人の友人からの非難に対しても忍耐したのです。ヨブ記の終わりには、自分を責めた3人の友人の赦しを祈った。これが寛容であります。

親切の実:英語でもカインドネスとなっております。その親切を、私は「よきサマリヤ人」の中に見るのです。あるユダヤ人が、エリコに降って行く道の途中で強盗に襲われ、瀕死の状態になりました。ところがその道を通りがかった宗教家、祭司とレビ人は、反対側を通っていった。ところが民族として敵対関係にあったサマリヤ人ですが、彼は傷ついたユダヤ人を助け、介抱し、宿泊代も支払って、その回復を助けたのです。ここには見返りを求めない親切があります。

善意の実:平たく言うと、「よくしてあげる」ということであります。イエスの「ぶどう園の主人」の譬を思い起こします。

ぶどうの収穫を手伝う日雇い労働者を、ぶどう園の主人は集めるのです。一日1デナリオンの約束です。夜明け前に雇った労働者、さらに午前9時、正午、午後3時、そして、夕方5時にも労働者を集めたのです。日が暮れて一日の労働が終わります。夕方6時であります。そして夕方5時から雇われた人から順に賃金をもらうのです。夕方5時の人はたった一時間の労働ですが、約束どおり1デナリオンをもらうのです。そのことを知った朝早くからの労働者は、文句を言いましたが、このように主人は答えました。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。私の気前の善さを妬むのか。そのように言うのです。神様はそのように、いつも私たちに気前よく、良いことをしてくださるのです。神様からよくしていただいた私たちは、他の人々にもよくしてあげることが出来るのです。

誠実の実:忠実、または、真実とも訳されます。聖書の中には、神様に対して忠実な人々が登場します。また自分が仕えているご主人様にどこまでも忠実な人が登場するのです。その中の一人が、ダビデを支えた祭司であるツァドクです。そしてツァドクの後を継いだ息子アヒマアツであります。彼ら親子は、どこまでも忠実にダビデに仕えました。それは愚かなほどに真っ直ぐな忠実さでした。やがて、ツァドクとアヒマアツの子孫が、永遠に祭司の努めをするように神は告げるのです。誠実であり真実であることは、聖書が私たちに告げる大切な徳であります。

柔和の実:イエスは「柔和な者は幸いである」と八福の教えの中で言われました。そしてイエス様自ら、私は柔和でへりくだった者であると言われました。また旧約聖書モーセもまた柔和な人でした。この地上の誰にも勝って柔和であったと聖書は告げるのです。

柔和というのは、軟弱なことではありません。単に謙遜というだけでもありません。私が好きな説明の言葉があります。柔和とは、踏みつけられても折れないしなやかさであり、そこから立ち上がることが出来る粘り強さであります。

モーセは、40年間、200万を超えるイスラエルの民を荒れ野で導きました。大変なことが多くありましたが、モーセは柔和を貫いたのです。折れることなく、投げ出すことなく、粘り強く民を導いたのです。

節制の実:口語訳では自制です。英語では、セルフ・コントロールです。

私は聖書のヨセフを思い出します。ヨセフはエジプトに奴隷として売られたのです。そこで真面目に働いて、家の全てを任せられるようになった時、主人の奥さんが誘惑してきたのです。自分がこの家を乗っ取ろうと思えば、出来たのかもしれません。しかしヨセフは、その誘惑を断ったのです。次のように言ったのです。私はこの家をご主人様から任せられています。ただ、あなたは別です。どうしてそのような罪を犯すことが出来るでしょうか。自らを制したのです。

ヨセフは、自らを制することが出来る節制を持っていたのです。それがヨセフをエジプトの指導者にしたのです。

私たちが結ばせていただく御霊の実は、自慢するためではありません。周囲の人々がその実を食して、幸せになることです。

人々の祝福と幸せを願う。そのような私たちでありたいと思います。

2021年6月6日の説経要約  「真夜中の格闘」

2021年6月6日の説経要約

                            「真夜中の格闘」   中道由子牧師

 

≪「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから。」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」≫ 

                                                           (創世記32章23~32節)

 

1、恐れと祈り

 32章から、ヤコブは家族を連れて故郷に帰る旅を続けていました。故郷が近くなるにつれて、ヤコブの心は期待と同時に、不安と恐れに満たされていったに違いありません。それは、兄エサウのことでした。ヤコブエサウをだまし、彼から長子の権利と祝福を奪い取ったために、兄の怒りをかい、故郷から逃げ出さなければならなかったのです。すでにそれから20年の歳月が過ぎていました。

 32章2節で、彼の恐れを知っている主は、彼に神の使いたちを送られました。朝叔父ラバンと別れて旅をしている時、この神の使いたちをヤコブは見せられたのです。昼間、午前の出来事です。ヤコブは自分たちを守る神の使いを見てその所をマハナイム:一つの陣営と名付けました。

これは、神の陣営がヤコブと共にあり、ヤコブを守るということを意味していました。平凡な場所がマハナイムという特別な場所になったのです。

このような神の使いの一隊がいつも私たちのそばを行進しているのです。私たちの目が遮られていて、見えないだけです。

神はヤコブに神の使いたちを送ることで、エサウと会う準備をさせました。

 

2、問題に直面させる神

ヤコブは、まず兄エサウに使者を送って謝罪の意を伝えさせます。20年間、問題は解決しておらず、ヤコブは、エサウと和解しなければ故郷に帰ることができなかったのです。

私たちは問題を根本的に解決しないで、一時的にそこから逃げたり、時間がたてば何とかなると考えることがあります。

しかし、主は、その問題を根本的に解決するために、私たちを再びその問題に直面させるのです。

ヤコブエサウに対して、牛、ろば、羊、男女の奴隷をエサウに与えることをにおわせて、エサウの好意を得ようとしました。

しかし、その日の午後、使者が帰って来てエサウが四百人の者を引き連れてヤコブのところにやって来るという報告を聞いた時に、ヤコブはすっかり動揺して、恐れました。

彼は、早速、自分の知恵をもって行動しました。人々や家畜を二つの宿営に分けました。それは、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」(8節)と考えたからです。神の陣営が共にあることを知らされながら、人間的な知恵をもって事態に対処している姿を見ます。そのような中でヤコブは主に祈りました。彼は大きな力を持ってひざまずかされ、叫びを持って祈りに導かれたのです。この叫びの内容は、自分がふさわしくないものであるとの告白がほとんどです。父への欺き、エサウへの態度など、一つ一つの鮮明な光景が目の前を通り過ぎたことでしょう。

そして、彼はエサウに対して抱いている恐れを素直に告白しています。ヤコブは解放を求めました。祈りながら、ヤコブは更に作戦を練っていました。しかし、祈った後に神がご自分の計画を明らかにして私たちの考えも及ばない道に導かれるまで、じっと待つ態度が必要であります。

ヤコブの内にはあまりにも多くの自我がありました。それは取り扱われなければならないものでした。

3、神と格闘する

 ヤコブはその夜のうちに、妻たちと子供たちを連れて、自分の持ち物と共にヤボクの渡しを渡りました。しかし、ヤコブ自身は一人だけ後に引き返しました。それは、真夜中でした。彼は、自分自身の不安と戦い、自分の霊的な状態に不安を感じてただ一人神と交わり、神からの解決を得たいと思いました。

人は、神によって深く取り扱われるためにただ一人になる必要があります。

 一人になったヤコブに対して、「何者か」、つまり神の使いが格闘を挑んできた、というのです。

この組み打ちは、半分は現実の世界のもので、あとの半分は霊的なものでしたが、夜明けまで続いたのです。

これは現実の世界の格闘でした。なぜなら、翌朝再び旅をつづけたヤコブは、もものつがいをはずして足を引きずっていたからです。

 この格闘を仕掛けたのはヤコブではなく、神によって仕掛けられた、神の使いが主導権をとったことを強調して書かれています。

25節「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」

神ご自身がヤコブの問題を解決しようとされたのです。神がヤコブをきよめようとされた。

始めのうち、ヤコブは持ちこたえていました。「この人は、ヤコブに勝てないのを見て取った。」

私たちは、本能的に自己を防衛しようとします。できれば、取り扱われることを避けたい。今のままでいたいのです。

しかし、神はご自分の民を中途半端な状態で放置なさらない。

この格闘は、夜明けまで続きました。そして神はヤコブの自我があまりにも強烈で、彼が自我に固執しているのを見て取って、彼のもものつがいを打ったのです。もものつがいは、人が足を使って歩くために大切な器官です。

ヤコブの自我を打ち砕いたということです。

神が祝福しようと思っておられる魂に、神に抵抗する力があれば、神は打たれる。神がその人を祝福するためです。

 抵抗を続けていたヤコブは、打たれると、今度はしがみつくようになりました。

夜が明けると、神の使いは去らなければならない。

その場を離れることができなくなった神の使いが、「私を去らせてほしい」と懇願しているのです。もものつがいを打たれて、力を失ったヤコブが神にしがみついて、「祝福してくださるまでは離しません。」と、まるで子供が父親の首に抱き着くように、神の使いにしがみついたのです。

ヤコブにとっては、もう神の祝福なしに生きていくことができなかったのです。

これは、ヤコブを変えた格闘でした。その人が、ヤコブに名を聞いた。ヤコブです、と答えるのですが、ヤコブとは「かかと」という意味の名前なのです。生まれたときから、エサウのかかとをつかんで生まれてきたヤコブ。彼の罪深い自我に満ちた性質、生まれながらの姿でした。

29節「その人は言った、『お前の名は、もうヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って、勝ったからだ』」

これは、決してヤコブが神に勝った、ということではないことはお分かりだと思います。

神が勝利したことにより、ヤコブが霊的な勝利を得ることができたのです。彼はもはや自分自身に頼らず、神に頼むことによって自分の生涯の問題に真の解決を得たのです。

 自分の力がすっかりなくなり、足を引きずるようになった時だけ、神から力をいただくことができるのです。

 ヤコブはこの格闘の後、その所をぺヌエル「神の顔」と名付けた、とあります。

この時、ヤコブは足を引きずっていた。それは、ヤコブがこの時のこの経験を忘れないように、しるしを残してくださったのです。

 私たちも人生の節目にぺヌエルを通る必要があると思います。

2021年5月30日の説教要約 「聖霊によらなければ」

2021年5月30日の説教要約

                       「聖霊によらなければ」    中道善次牧師

 

≪わたしは父におねがいしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。≫

                                               (ヨハネによる福音書 14章16節)

 

1、パラクレートス

アメリカで学んでいた頃、文化人類学を学んだ宣教師から日本文化について教えられたことであります。

授業で、私は次のようにいいました。日本でキリスト教を伝え、理解してもらうことは難しい。特に三位一体の神の聖霊が難しい。天におられる神様はだいたいイメージが出来る。イエス様も、歴史の教科書に出てくる人物ですから人々は知っている。しかし聖霊は、説明が難しい。人々にイメージしてもらうことがなかなか出来ない。

そういったところ、南米で宣教師として働いた経験がある教師が、私にこう言ったのです。君たち日本人は、先祖の霊を敬うことをしているのではないか。例えば、亡くなったおじいさんの霊が、自分たちをいつも見守っていてくれる。家族の霊が、先祖の霊が、共にいて、自分たちを守っていてくれる。そのような感覚を日本人は持っているのではないか。聖霊が、信じる人と一緒にいてくれる、守っていてくれる。例えていうならそういうことだ。

聖霊と言われても感覚として分からない。そのような人にとって理解の助けとなればと思います。

ヨハネ福音書14章では、聖霊を弁護者と言っています。弁護者と訳された言葉は、ギリシャ語では、パラクレートスという言葉です。この言葉の意味は、呼べば近くに来てくれるお方です。

「助けて!」と心の中で叫ぶなら、近くに来て助けてくれる。パラクレートスは「助け主」と訳すことも出来るのです。

協会共同訳はパラクレートスを弁護者と訳します。このような理解が出来ます。人から嫌なことを言われたり、責められたりしたとき、聖霊様が私たちの味方になってくれる。弁護してくれる。

また、寂しいときに、誰がいてほしいと思うなら、そばにいてくれる。パラクレートスは「慰め主」と訳すことも出来る言葉です。

それが、呼べば近くに来てくれる。また、そばにいてくれる聖霊という神様なのだとイエス様はおっしゃるのです。

17節では、この弁護者が、あなたがたと共にいる、あなたがたの内にいると言うのです。

あなたが気づかなくても、聖霊はあなたのそばにいます。あなたの味方です。あなたを助け、弁護します。

 

2、聖霊様が喜ばれること

ヨハネ福音書14:16で、イエス様は、聖霊様のことを「別の弁護者」と言っておられます。協会共同訳では「もう一人の」となっております。

ここのギリシャ語は、アロン・パラクレートンです。語尾変化でアロンとなりますが、原型はアロスです。

その意味は、「私と全く同じもう一人」という意味です。イエス様と聖霊様は、そっくりなのです。

聖霊様がそばにいてくださる。心の中にいて下さる。それは、まるでイエス様がそばにいてくれるのと同じなのです。

聖書の中で描かれているイエス様が、優しい声であなたに語りかけて下さる。イエス様が見守って下さる。イエス様!と呼べば近くに来て下さる。

エス様は天におられるのに、どうしてそのように感じるのでしょうか。

それは聖霊様が、そばにいて下さるからです。イエスと全く同じ聖霊が共にいて下さるとは、そのようなことであります。

そこで一つ気になることがあります。それは、私のそばにおられるのは、ほんとうは聖霊様なのに、イエス様と言ってしまう。それは、聖霊様に対して失礼ではないのか。失礼ではないのです。

ヨハ 15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずである。

聖霊様は、イエス様のことを証しされる。イエス様を紹介する。それが聖霊様のメインの働きであり、喜びなのです。

自分がここにいるということを隠して、イエス様がここにおられる、そしてイエス様の十字架について、イエス様の愛について、救いについて証しされる。それが聖霊様というお方なのです。

ヨハ 16:14 その方(御霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

聖霊様は、イエス様が栄光を受けることを喜ばれるのです。イエス様がほめたたえられ、すばらしいと言われることを何よりも喜びとされるのです。

神の御業が起こる。人が救われる。癒やされる。私たちはイエス様を称えるのです。賛美するのです。でもほんとうは、聖霊様がなさったことです。でも聖霊様は、イエスではない。私がそれをしたのだとは言われないのです。イエス様が称えられることを一緒になって喜ばれるのです。

 

3、聖霊様が悲しまれること

さて3番目は、聖霊様を悲しませてはいけない。その聖書箇所を紹介します。

エフェ 4:30 神の聖霊を悲しませてはなりません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

聖霊様は人格をお持ちでいらっしゃいます。

何が聖霊を悲しませるのか。それはエフェソ4:30の前後の言葉から分かります。

心の中におられる聖霊が、どのように思われるか。それをパウロはエフェソ4:25から述べるのです。

エフェ 4:25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。

不真実であってはいけない。偽りを言ってはいけない。あなたの心の中に偽りがあると、あなたの心の中におられる聖霊を悲しませることになるのです。

エフェ 4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。 怒りを心の中にためていてはならない。何故なら、聖霊様は、あなたの怒りと一緒に日を過ごすことになり、それは聖霊様にとって辛いことです。

エフェ 4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。 あなたの心の中におられる聖霊が、その悪い言葉を聞かれるのです。それは聖霊を悲しませることです。

エフェ 4:32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 その前の31節には、恨みとか憤りを捨てなさいとあり、赦しの言葉は、その続きです。

赦すことが出来ない心。それを持ったままでいるなら、心におられる聖霊様を悲しませるのです。

聖霊様が心の中でどのようにお感じになられるかを敏感に感じ取ってほしいのです。

もう一つ、紹介したい言葉があります。

テサ1 5:19 「霊」の火を消してはいけません。 「霊の火」とあり、消すという言葉があるので、物質のような表現ですが、ここもまた人格をお持ちの聖霊様を悲しませてしまうと、御霊を消すことになるのです。

ではどのようにすると御霊の火を消すのか。やはり前後の関係から知ることが出来ます。

テサ1 5:16 いつも喜んでいなさい。 喜びがないと聖霊の働きが弱くなる。

テサ1 5:17 絶えず祈りなさい。 祈りがないと、聖霊の働きが消える。祈りを通して聖霊が働くからです。

テサ1 5:18 どんなことにも感謝しなさい。 感謝がないと、私たちの内におられる聖霊様は悲しまれます。

テサ1 5:20 預言を軽んじてはいけません。 預言、つまり、語られる神様の言葉を軽んじるような態度をとると、聖霊様は働くことが出来なくなるのです。何故なら御言葉を通して聖霊が働かれるからです。

聖霊様を敬い、大切にする。そのような私たちでありたいと思います。

2021年5月23日の説経要約 「聖霊のはたらき」

2021年5月23日の説経要約

                                    「聖霊のはたらき」  照内幸代牧師

 

≪議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学の普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいたものであるということも分かった。≫

                                                                                             (使徒言行録4章13節)

 

1、人が変えられる

使徒言行録4章5-6節を読みますと、私たちは見覚えのある名前を発見します。「大祭司アンナスとカイアファ」という名前です。どこかで見た名前だなと思いきや、この二人は福音書に出てきているのです。まず大祭司アンナスですが、彼の名前をヨハネ福音書18:13で見ることができます。そこの聖書箇所を見ますと、「イエス、大祭司のもとに連行される」という題がついていまして、「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである」と書いてあります。主イエス様は兵士たちの手によって、尋問を受けるために大祭司であったカイアファのしゅうとアンナスのもとに連行されていたのです。その次に出て来るタイトルは、「ペトロ、イエスを知らないと言う」というタイトルが書かれています。このあと何が起こるか、ご存じの通りです。主イエス様が裁判にかけられているとき、そこに居合わせたペトロは、三回もイエス様を知らないと言ってしまうのです。

今、ペトロが立たされているこの状況は、まさにその時のようです。ペトロは尋問を受けますが、それに対して堂々と受け答えます。(4章8-10節)数か月前まで、「お前はナザレのイエスと一緒にいた」と言われたら、恐ろしさのあまり「違う、そんな人は知らない」と言っていた人です。その人が、今度は堂々とナザレのイエスの名前を言い、あなたたちが十字架につけたナザレ人イエスはキリストだと言っているのです。これこそが聖霊の働きです。4章8節を見ると、「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあります。主イエス様が天にお帰りになり、代わりに遣わされた聖霊様の力を受けて、ペトロは人を恐れず、神を恐れてイエス様を証する証人へと変えられたのです。

 

2、知恵が与えられる

聖霊様の働きの二つ目は、聖霊様によって知恵が与えられるということです。ペトロはサンヘドリンで堂々とイエス様についての説教をしました。すると4章13節とあります。この議会に集まっている祭司たちも律法学者たちも、エリート中のエリートです。ペトロやヨハネを言い負かす自信すらあったのです。それなのにペトロとヨハネはもと漁師で、田舎のガリラヤ地方出身の人とは思えないほどの説得力ある聖書解き明かしをしました。これには大層驚いてしまったのです。主イエス様は、天にお帰りになる前、弟子たちに聖霊様のことを預言して行かれました。これこそ、助け主なる聖霊様のお働きだったのです。

ヨハネ14:25~「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

ヨハネ15:26「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。」

ですからルカの福音書12:11でイエス様はこのように弟子に教えていました。

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

ペトロやヨハネがたくさんの勉学を積んだ律法学者、祭司たちと同等以上に渡り合うことができたのは、内に働く聖霊様が二人を助け、イエス様について証をしてくださったからでした。

 

3、きよめられる

そして最後に注目したいことが、聖霊様のきよめの力です。

ペトロとヨハネはここで散々な目に遭っています。自分たちは特に罪を犯したわけでもないのに、一晩留置所に入れられ、裁判にかけられ、無学の人だからとなめられ、しまいには「もうこれ以上イエスの名前を語ってはいけない」と脅しをかけて釈放します。しかしペトロとヨハネはまったくこの議会の人たちに対して罪を犯しません。イエス様の福音だけを語り、無抵抗で、悪い言葉を一切使わずに帰って行きます。

皆さんは「いやクリスチャンなんだからそんなの当然だ」と思われるかもしれませんが、実はこれは全く当然のことではありませんでした。まずヨハネですが、彼のあだ名は兄のヤコブと共に「ボアネルゲ(雷の子)」と呼ばれていました。こう呼ばれたのには理由があります。ヤコブヨハネは気性が荒くて怒りっぽく、すぐに癇癪を起してしまう性格だったのです。またペテロも結構いじっぱりです。イエス様が自分は十字架にかかるということを予告されると、ペテロはそれでもイエス様に付いて行きますと言い張ります。そしてイエス様から、「お前は私を三度知らないと言うだろう」と言われると、「死んでもそんなことは言いません」と食い下がります。またイエス様を捕らえに来たローマ兵に剣で切りかかって、ローマ兵の耳を切り落とすということをしたのもペトロです。元々彼らは漁師という体力仕事にあずかっていたわけですから、そのようにちょっと短気な性格があったとしても不思議ではありません。

ところがそんな彼らが、このように理不尽な目に遭っているというのに、一切文句を言わず、暴力を振るわず、大人しく家に帰って行く姿を見ます。彼らは聖霊様が与えられたことによって、内側がきよめられたのです。本当だったらこんな目に遭ったら、散々暴れたり不平不満を言ったり、喧嘩して帰って来てもおかしくなかったのです。その彼らが、ただイエス様だけを証し、それ以上のことを何も言わないで平和的にこの事件を済ませたのです。クリスチャンになって、神様から心の内側に聖霊様をいただくと、自分がそのように神の似姿に変えられていくのです。ペトロとヨハネもそのようにして神様に変えていただき、キリストの立派な弟子となって行ったのです。

私たちも心の内側に聖霊様をいただいたのですから、日々新しくしていただけます。

愛に溢れた神様の弟子として、私たちは今週も神様の御心を行っていきましょう。

2021年5月16日の説経要約  「弱き者への大きな愛」

2021年5月16日の説経要約

                            「弱き者への大きな愛」   中道由子牧師

 

≪あでやかさは偽り、美しさは空しい。主を恐れる女こそ、たたえられる。≫

                                                                                       (箴言31章30節)

 

本日は、創世記29章からレアとラケルという二人の姉妹からイスラエルの12部族が生まれたお話です。

彼女たちの結婚生活は決して幸せとは言えなかったと思いますが、神様はいつも弱い立場の女性たちの味方でありました。

 

1、欺かれた結婚

 ヤコブは二人の妻を持った人でした。姉と妹が、同時に一人の夫の妻となるというのは道理にかなわないことで、後にはモーセの律法もこれを禁じました。

しかし、これはその以前のことでレアとラケルは互いに忍ばねばなりませんでした。

 兄エサウから長子の権利を奪って家にいられなくなったヤコブは、叔父のラバンの所に世話になることになりました。レアはラバンの上の娘で、新改訳では「レアの目は弱々しかった」と書かれています。

しかし、妹のラケルは美しく愛らしい女性でした。ヤコブは井戸のほとりで初めて会った時からラケルに心惹かれ、ラケルを愛しました。

ヤコブラケルとの結婚のことを申し出ました。そしてこれから7年間、ヤコブは叔父の家業に仕え、その報酬としてラケルを妻に迎える約束でした。

 7年後ついに結婚が執り行われ、慣習に従って、日暮れになって新婦はその父親によって、新郎のもとに送り届けられました。

ヤコブは翌朝になって新婦が彼の期待したラケルではなく、彼女の姉のレアであったことがわかって驚きました。そして、早速ラバンに抗議を申し込みに行きました。すると叔父のラバンは冷静で、「姉から結婚させるのが順序であるからレアを彼に届けたのだ」ということでした。

もしそうであるなら、7年前に知らせるべきでしょう。

ラバンはヤコブラケルに好意を持っていることに気づいていて、ヤコブを利用しようとしたのです。

また、目が弱いレアの結婚相手を見つけることが難しいと考えたのかもしれません。

ヤコブはレアを妻に迎えましたが、それで納得することはできません。

それから間もなく、ヤコブラケルとも結婚しますが、そのため彼はもう7年間働くことを余儀なくされました。ヤコブはかつて父を欺いたことがありました。

そして今叔父に欺かれてしまいました。

痛みと苦しみは、与えた人はすぐに忘れてしまいます。しかし、被った人にはいつまでも傷として残るものです。ヤコブはだます人でした。

そんなヤコブが結婚する過程で、ラバンにだまされます。

ヤコブはこの時初めて過去に自分がしたことを思い出したことでしょう。

嫌々ながらヤコブが結婚したレアの気持ちはどうだったでしょう?

妻は自分の夫とのかかわりの中で、その愛の中に自分の価値を見出すのですから、夫に嫌われるということは彼女にとって身の置き所のない不安と苦しみであったでしょう。

レアは恐らく小さいころから妹ラケルと比較されて育ったに違いありません。

そのような中で彼女は次第に自分の容姿について劣等感を抱くようになったでしょう。

多くの女性は結婚に夢を抱き、結婚することによってすべての問題が解決するかのように思い込みますが、単に環境を変えることによっては、内面的な問題に本質的な解決をもたらすことはできません。

 

2、女たちの戦い

 主はレアが嫌われているのをご覧になった。

主はこのレアの悩み、苦しみをじっと見ておられた。

恐らくレアは夫に愛されないという孤独の中で主に叫び、主に祈り求めたのでしょう。

主は自分の力や自分の知恵、自分の容姿により頼むものよりも、主の前に自分の弱さを覚え、主によりすがる者を憐れんでくださいます。

主はレアを心に留め、その胎を開いてくださった。しかし、ラケル不妊のままであったのです。

 レアは男の子を産み、ルベンと名付けます。レアは、子供を産めば、夫の心をとらえることができると考えたのでしょう。しかし、どうもそのようにはならなかったようです。

二番目の子シメオンが生まれ、三番目にレビが生まれました。この子は祭司の系図の元となる子です。

4番目のユダはダビデの家系となり、救い主の家系となります。

 ラケルはどうでしょう?

ラケルは、自分がヤコブに子を産んでいないことから姉を嫉妬しました。

彼女は今まで、容姿の点においても夫の愛を受ける点においても、決して姉のレアに負けたことはなかった。彼女はいつも姉に対しては優越感を持っていました。

しかし、今や彼女は初めて敗北を経験したのです。しかもこの戦いは、彼女の努力によって勝利できるものではなかったのです。

主は、ラケルが砕かれて主により頼むものとなることを期待されたのです。

しかし、彼女は最初は、彼女の悩みと不満を主にではなく、夫にぶつけました。

「わたしにもぜひ子どもを与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」。

ラケルもまた他人との比較の中にアイデンティティーを見出していたのでした。

 そこで、ラケルは作戦に出ました。かつて、サラが女奴隷ハガルを使ったように、ラケルも女奴隷ビルハをヤコブに妻として与えました。

人は本当に行き詰まらない限り、神の元には行きません。

ラケルは神に求めながらも、自分の知恵に頼っていました。

ビルハはダンとナフタリという男の子を生みました。「裁く」と「争う」という意味の名です。

ラケルはまだ姉との争いというところから解放されていなかった。

正しい人生の目標は主を求める以外にないのです。

 ラケルの女奴隷がヤコブに子どもを産んで、今度はレアが、不安になります。

それで、レアもラケルが用いた方法をまねて、女奴隷ジルパによって更に二人の男の子を得ます。

幸運という意味の「ガド」と、喜びという意味の「アシュル」。

ところが、これによってもレアは満足することができませんでした。

 その後、もう子供を産むことは終わったと思っていたレアに主は、イッサカルとゼブルンを与えます。最後にレアはディナという女の子を産みます。

 もう神様、私のことなどお忘れでしょう、と姉との戦いに疲れていたラケルに主は子供を与えてくださった。ラケルはもう姉のことなど考えません。「神がわたしの恥をすすいでくださった」と感謝をささげ、ヨセフと名付けたのです。彼女は、主によって祝福を受けることができた喜びに満たされていました。

 

3、一致できた姉妹

 ヤコブはすでに20年もラバンのもとで働きました。彼は今やカナンに引き上げて一家を築きたい、自分をカナンに返してくださいとラバンに頼みます。

しかし、ラバンの権力は強く、その場所を立ち退くのには、計画や準備を必要としました。

ヤコブは二人の妻に事情を打ち明け、協力を求めました。

この重要な事柄について、争っていた妻である姉妹は心を合わせ、一致することができたのです。

 35章で、カナンへの道の途中、エフラタの付近でラケルは産気づき、子を産みます。

が、難産で出産後彼女はなくなります。死に臨んで、彼女は子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と呼ぶのですが、ヤコブは彼をベニヤミン(幸いの子)と名付けました。ヤコブの12人の子どもの末っ子です。

旅の途中に亡くなったラケルを惜しみ、ヤコブベツレヘムの城壁の外に彼女の墓を建てました。

 あんなに子供がほしかったラケルでしたが、2人目の子供の命と引き換えに、自分の命が終わるなんて思ってもみなかったでしょう。

レアにとってもそうです。ラケルと夫を取り合って争っていた時は、憎む思いがあっても我慢していたのに、妹はこの世を去りました。愛すれば、いなくなる、という話を聞いたことがありませんか?

愛せないうちは、許せないうちは何も起こらない。

 レアのその後についての記録はありませんが、生き残った彼女は夫を助け、彼のカナンにおける生活を安定させたことでしょう。

 49章でヤコブがエジプトで息子たちに囲まれ、死を迎える時、彼はアブラハムと妻サラが葬られ、イサクと妻リベカが葬られ、レアを葬った墓地に自分も葬ってほしい、と願います。

同じ墓に入ると言いますが、妻として同じ墓に入ったのは、ヤコブが始めに愛したラケルではなく、最初に結婚したレアでした。ヤコブの人生の終わりを支えたレアをヤコブは愛したでしょう。

神様はどこまでも公平なお方です。

2021年5月9日の説経要約  「イエスは再び来られる」

2021年5月9日の説経要約

                       「イエスは再び来られる」     中道善次牧師

 

≪「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか?あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」≫

                     (使徒言行録1章11節)

 使徒言行録1章9節~11節

 1、 ヨハネの再臨

アメリカの大学院で、新約聖書の授業を受けておりました時、教授が一つの質問をいたしました。

私たちは使徒言行録2章1~4節で、弟子たちに聖霊が与えられた。それがペンテコステだと理解しています。

これを学者が専門的に言う場合、これはルカのペンテコステと呼ぶのです。

続けて教授が言いました。次の箇所を君たちはどのように理解するのかと言って、ヨハネ福音書20章21~22節を示しました。

エスは弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けよと言われました。これが単なる象徴的行為でないとしたら、ここで弟子たちは間違いなく聖霊を受けているのであります。こちらのほうを学者は、ヨハネペンテコステと呼びます。

教授は続けました。ルカのペンテコステヨハネペンテコステ、弟子たちは聖霊を受けたのは、どちらなのか?これは私たちを困らせる、難しい質問でありました。

神学を学ぶ者の答えがあります。ルカとヨハネ、それぞれの福音記者の視点の違いである。

しかし体験的に言うと次のように理解できます。ヨハネ福音書で弟子が聖霊を受けたのは、間違いのないことです。しかし弟子はそれを十分自覚していませんでした。また何らかの現象や体験は、起こりませんでした。ルカのペンテコステ、これは弟子たちが自覚して聖霊を受けたのであり、聖霊の現象や体験が起こったのです。それに似たことが、私たちの信仰の歩みでもあるのです。

今日の説教の中心点は、ペンテコステではありません。イエス様の再臨ですが、今のことが再臨の理解についても助けになると思います。

第一ポイントでは、ヨハネ福音書が強調した、イエスの来臨についてお話しします。

ヨハネは、弟子たちが再びイエスと会うのは、聖霊が来られることによる。ヨハネは、そのように強調しております。

ヨハ 16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

ヨハ 16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

ヨハネが述べる「再臨」は、イエスの来臨であり、それは聖霊が来られることによってもたらされるのです。

パウロが再臨について書いたテサロニケの手紙の中にも、臨在が再臨であると理解することが出来る言葉があります。

1テサロニケ5章23節には、イエスキリストが来られるとき(来臨の時)という言葉があります。

英語ではカミングです。そのギリシャ語はパルーシアという言葉です。パルーシアという題の本もあります。

パルーシア、それは再臨を表す言葉です。しかしギリシャ語の辞書を見てみますと、パルーシアの第一の意味は、プレゼンスです。プレゼンス、それは、「ここにいる」という意味です。

エス様のプレゼンスがここにある。それは聖霊様によるのです。聖霊様が、イエス様を表してくださるのです。

聖霊様が私たちの心に来て、イエス様を表してくださる。これは私たちが再臨を理解する為の大切な一つの側面であります。

 

2、ルカの再臨

使徒信条の「かしこより来たりて」から学びたいことは、目に見える再臨であります。それをルカの再臨と言うことが出来ます。

何故ならルカは、イエスが天に上げられたのと同じ姿で帰ってくると告げているのです。

使 1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

私たちの教団は「四重の福音」を信じています。四重の福音とは、中田重治先生が提唱されたものであります。新生、聖化、神癒、再臨であります。

再臨、天に昇られたイエスは再びこの地上においでになり、救いの業を完成してくださるのです。

数年前、北海道聖会で奉仕をしたとき、ある先生が、次のように言われました。

自分は父親を早くなくした。その父に天国で再会する事が自分にとっての再臨信仰だ。

その言葉をいただいてから私が考えたことがありました。私にとっての再臨信仰とは何だろう。

第一は、目に見える再臨を信じる事です。

テサ1 4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

テサ1 4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

第一ポイントでは、主の臨在(プレゼンス)が再臨の一つの側面であると申しました。しかしそれと同時に、私たちは目に見える再臨を信じています。

第二は、聖く生きる事です。それは栄化、栄光の姿に変えられる、そこに向かっての歩みです。

エス様の前に、輝く花嫁として立ちたいのです。

第三は、再臨を待つ者として、この地上を精一杯生きること、走ることです。

コリ1 15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄でないことを、あなたがたは知っているはずです。

再臨を待つ人々の生き方が間違っている姿が、2テサロニケ3章で言われています。

主が来られる期待を持っていた人々は、何も手につきません。働かないで、ぶらぶらする生き方をしておりました。

働かざる者、食うべからずという言葉があります、それはパウロが、再臨を待つだけで働こうとしない人々に対して言ったのです。2テサ 3:10「働きたくない者は、食べてはならない」

エスの再臨を信じる者は、今を精一杯生きるのです。

何故なら、イエス様が再び来られるときに、報いを受ける方です。無駄にならないからです

 

3、裁きは慰め

ハイデルベルク信仰問答という書物を使徒信条の説教ではしばしば取り上げます。

今日の箇所でも、ハイデルベルク信仰問答では次のような問いがあります。

問い:生けるものと死ねる者とを裁くための再臨は、どのようにあなたを慰めるのですか。

神の前に立つ、それはあなたを慰めるというのです。

私たちが聖書を通して知っていることは、死後の世界がある。私たちは死んだら神様の前に立たなければならない。そこで裁きを受けるのです。聖書は次のように告げるのです。

ヘブ 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

私たちは、誰であっても、死んだら、神様の前に立って裁きを受けることになっているのです。

聖書を信じる者が行うべき一番大切な終活は、神の裁きの前に立つ準備をすることです。

どういう準備でしょうか。それは、神の裁きの前に立つことが、恐れではなく、慰めとなる準備であります。

教会に通っている人であっても、神の裁きの座に立つことは、多くの人にとって恐れと感じるのです。

そのような思いを、全く払拭していただきたいのです。

カルバンという宗教改革者が書いたジュネーブ教会信仰問答に次のような言葉があるのです。

問い:主イエス・キリストが来られて、裁きをなさるに違いないと言うことは、我々に何かの慰めを与えるものですか?

答え:はい非常な慰めであります。彼が現れなさるのは、我々の救いのために他ならないからです。それゆえ、われわれは最後の審判を恐れおののくべきではありません。

そしてその理由を述べるのです。我々が出頭する審判者は、我々の弁護人であり、我々の訴訟を弁護するために引き受けてくださった。

信仰者にとって、神の裁きの座の前に立つことは、恐れではなく慰めなのだ。何故なら、私たちを弁護してくださるお方の前に立つのだから。カルバンはそう言うのです。

どうしてカルバンは、「慰め」だと言えたのか。それはカルバンが、聖書を読んだからだとドイツの神学者が言うのです。

神の裁きの前に立つことは「慰め」。それを信じることが、聖書の教える終りへの備えであります。

2021年5月2日の説経要約 「立ち上がらせてくださる神」

2021年5月2日の説経要約

       「立ち上がらせてくださる神」  中道由子牧師

 

ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」≫

                                                        (創世記28章10~22節)

 

1、孤独の中で神に会う

  ヤコブは、愛する家族から離れました。自分を支えてくれた人から離れて一人ぼっちになったのです。

家庭は私たちが成長するために必要なところです。

しかし、私たちが自立を経験するためには、「父と母を離れ」なければならないことがあります。

 家族は、家庭はその中にいる時は、当たり前の存在で、時には面倒だと思える時も若い時にはあるかもしれません。でも、離れてみて初めてそのありがたみがわかるというものです。

イサクとリベカの夫婦の関係が十分うまくいっていなかったかもしれないことが、兄弟を争いに導きました。

リベカの愛は夫のイサクよりも息子のヤコブに向けられていたと思われます。

そしてヤコブも母親の愛の中にアイデンティティーを見出そうとしていた。

いわゆる「子離れ」「親離れ」が出来ていなかったのです。

そのような状況では、本当の信仰に目覚めることも本当の自分の出会うこともできないでしょう。

神はご自身の計画の中で、ヤコブを愛する家族から引き離して孤独の中に追い込まれました。

 そして、彼は礼拝の場をも離れたのです。父イサクはベエル・シェバに祭壇を築き、主の聖名によって祈りました。そこで彼らは家族として礼拝をしていたでしょう。

そこから引き離されることは、ヤコブにとっては神からも引き離されることだと思えたでしょう。

人里離れた所で野宿するヤコブは、自分の孤独と無力さを痛感させられたことでしょう。

自分がより頼んでいたすべてのものを奪われた時、彼は初めて「自分自身」と直面したのです。

 エリーズ・ボールディング著「子どもが孤独でいる時間」の中で、生活のどこかに「孤独でいる時間」をもつことが必要だ、と書かれています。それは、自由であること、内へ向かうこと、自分自身を発見することのために欠かせない条件であり、人間には一人でいる時にしか起こらないある種の成長があるのだ、と。

子供たちは孤独な時に神と出会う、としたら、このコロナ禍の時期も含めて、孤独になる時は決して悪いことばかりではないことも真理であります。

 ヤコブはまっくらな野宿の中、石を枕にして、普通だったら眠れないような中、夢を見たのです。

 

2、天の門

 ヤコブが野宿した場所は荒野でした。誰一人ヤコブのことを知り、彼を心に留めてくれる人がいない所でした。 その夜、ヤコブは夢を見ました。その中で一つのはしごが立てられていました。

「神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」とありますから、階段の方がイメージしやすいと思います。上がり降りする大勢のみ使いを見たのです。

ベテルの真南の丘の斜面には階段状の石のうねがあった。

これを下から見上げると斜面が膨らんでいるため、頂が見えず、あたかも天に達しているように見えます。

ベテルと言う地形は、石灰の堆積層が風雨で削られて、岩山が階段状になっているのです。

ヤコブが野宿をし、体を横たえた場所から山の斜面を見ていた、その景色が、ヤコブが天につながる階段の夢を見た材料でした。それは「地に向けて建てられていました。そしてその頂は天に届いていた。

しかしこの「階段」は天からのもの、神の恵みによって天と地を結ぶものでありました。その階段の上を神の使いたちが上り下りしていた。これは、人間的には孤独になり、絶望していたヤコブに対する神の啓示でありました。一方的な神の恵みによる救いでありました。

ああここは天に通じている場所だと、ヤコブは思ったでしょう。

エス様は、ヨハネによる福音書14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」と言われました。

日本人はよく、「どの道からでも頂上に着く。天国もそうでしょう?あなたはキリスト教を信じて天国へ行くけれども、私は別の宗教を信じて天国へ行くの。どの道を通っても、同じ所に着くから。」と言います。

けれども、イエス様は「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」と言われました。

 その道を、ヤコブは天の階段として夢の中で見せてもらった。

真っ暗な誰もいない、寂しいところでヤコブは神と出会ったのです。

実は、ヤコブの今までの人生も主は共にいてくださったのに、気づかなかったのです。

 ヤコブは、眠りから覚めて、「ああ、まことに主がこのところにおられるのに、わたしは知らなかった。」

とひとりぼっちで歩んでいたと思っていたヤコブは初めて気づいたのです。

 皆さんの人生の一番苦しくつらかった時、そこに主はおられた、そのことを忘れないでいただきたい。

エス様を信じる前の時であったとしても、主は「知っているよ。わたしはそこにいた。」とおっしゃってくださいます。ヤコブにとって一番孤独であったその場所が、神の家であり、天の門となりました。

  ヤコブは両親と一緒に主を礼拝していた故郷ベエル・シェバを離れて一人になった時、本当に神様と個人的にこのベテルで出会いました。

主イエスに個人的に出会う時、私たちもこのベテルの経験を持つことができます。

 

3、条件付きの祈り

ヤコブは眠りから覚めて次の朝早く起きて、主を礼拝しました。そして、誓願を立てた、というのです。

彼はベテルで神と出会い、私たちが経験するところの救いの経験をしたのです。

しかし、決してまだ聖められた人ではありませんでした。

ヤコブの信仰はまだきわめて打算的であるように聞こえます。

28章20節からの祈りは、 「神様、共にいて守ってください。食べるパンと着物をください。そして無事にお父さんの家に戻らせてください。これらすべての条件が満たされたら、あなたを私の神様としてもいいです。その時は、この場所を神の家として、十分の一をささげます。」という祈りです。

 ヤコブはこれから行く叔父ラバンの家で20年間生活します。

叔父に仕えているようでいて、実は自分に仕えていました。

始めの14年間は愛する妻を得るため、残りの6年間は自分の財産を増やすためでした。

ついに叔父ラバンとの仲が不和となり、その地を去らざるを得なくなりました。

28章で「この場所を神の家として、十分の一をささげます。」という誓いをヤコブはいつ実行したのでしょうか?聖書を読む限り、35章だと思います

 28章から35章まで、少なくとも20年以上が経過しているのです。

すべてのことがうまくいって、この場所に帰ることができたら、あなたを神とします、あなたに十分の一をささげます、というヤコブの条件付きの祈りに対して、神様は20年間ずっと真実を尽くし続けられたのです。

私はお前の神だ、ということを必要を満たし、災いから守ることで、示し続けられたのです。

普通ならもっと早くそれに気づいて、神様に対して応答すべきでしょうが、ヤコブは20年後にそれをしたのです。恵みへの応答を後回ししてしまう、ヤコブ側の在り方は決してまねをすべきではありません。

しかし、渡辺善太という神学者は、「恩寵先行、信仰継続」を唱えました。

神がまず恵みを注いでくださり、食べるもの、着る物を与えて下さり、人生を守り導いてくださいます。そのような恵みを私たちは先に経験するのです。

まだ信じる前から、神様が祝福を与えてくださる。喜びや幸せを与えてくださる。そのような恩寵が先に来るのです。私たちは、後からついてゆくように「信じます」と応答することができるのです。