2024年3月24日の説教要約 「パウロのドロローサ」

2024年3月24日の説教要約

              「パウロのドロローサ」    中道善次牧師

 

使徒言行録 27章39~44節≫

 

「ドロローサ」とは、イエスが十字架を背負って歩いた道を指す。

ラテン語ヴィア・ドロローサ(「苦難の道」の意)と言う。

具体的には、福音書の中に記されているようにイエスの最後に歩まれた道のこと。イエスは十字架を背負って総督ピラトの官邸からゴルゴダの丘まで歩まれた。その道のりのことである。

ヴィア・ドロローサ「苦難の道」という名称は、その道中に味わったイエスの苦難を偲んで名付けられている。

だがそれはドロローサの石畳を歩いた最後の数時間だけではない。使徒言行録と福音書を書いたルカは、大きな視点から、イエスエルサレムに向かって歩みを始めたところから十字架への道が始まったと述べる。

ルカ 9:51 天に上げられる日が満ちたので、イエスエルサレムに向かうことを決意された。・・・

ルカ 13:33 ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んでゆかねばならない。預言者エルサレム以外のところで死ぬことは、ありえないからである。

ルカ 17:11 イエスは、エルサレムに進んでゆく途中、サマリアガリラヤの間を通られた。

ルカ 18:31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、私たちはエルサレムへ上って行く。そして、人の子については預言者が書いたことはみな実現する。

ルカ 19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

ルカ福音書では、十字架に向かう長い道のりが記される。

ルカ9:51のエルサレムに顔を向けという記述に呼応するように、イエスは、同じルカ9章で、弟子たちにこのように言っている。

ルカ 9:23 それから、イエスは皆に言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。

ここでイエスが言われた「十字架を負う」というとは、一般に言われるような苦しい人生、あるいは、人生の特定の苦しみを指すのではない。 

十字架を負うとは、神から与えられた使命を担って生きることである。神から与えられた使命を生きることには、苦しみが伴うことがある。人から理解されないこともある。

使徒言行録のパウロもまさにそのことを伝えている。

使徒 20:24 しかし、自分の決められた道を走りぬき、また、神の恵みの福音を力強く証しすると言う主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません。

今日は、使徒21章から続くパウロの十字架の道行き、使命を果たす旅から、三つのことを学びたい。

アウトライン:① 言葉の届かない人々、 ② 無駄でなかった2年間、 ③ 船は目的地に到着した

 

 

1、言葉の届かない人々

 パウロ使徒21章で、エフェソから巡礼にやって来たユダヤ人たちに、神殿を汚したと誤解され、捕らえられた。

 使徒 21:27~28 七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕え、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手を貸してくれ。この男は、民と律法とこの場所に背くことを、いたるところで誰にでも教えている。そのうえ、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」

 それでもパウロは、ギリシア語とヘブライ語の二か国語を駆使して、千人隊長の理解を得て、ユダヤ人の前にヘブライ語で弁明する機会を得た。

 使徒 22:1~2 「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる私の弁明を聞いてください。」パウロヘブライ語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静かになった。

 そのようにスタートした弁明は、途中までは、うまくいっているように見えたが、22節でそれが途切れた。

 使徒 22:22 パウロの話をここまで聞いていた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはいけない。」

パウロは、心を込めて話したが、ユダヤ人たちにはパウロの言葉が届かなかった。

私たちに使命が与えられて、人々を愛して宣教に出かけても、相手に言葉が届かないことがある。

今の時代、私たちも愛して、接している人に言葉が届かないことがある。

 しかし大切なことは、それでも愛の言葉を語り続けることである。

 

 

2、無駄でなかった2年間

 使命に伴う二つ目の苦難、それは、無駄と思える日々を過ごしたこと。

 使徒23章でパウロユダヤの最高法院(日本で言う国会)で取り調べを受けた。ローマ市民であるパウロを守るため、パウロはローマ兵により、エルサレムからカイサリアという港町に移送された。

 使徒24章では、カイサリアでの取り調べがあり、そのままカイサリアで監禁された。その監禁は二年続いた。

 使徒 24:26~27 だが、(総督フェリクスは)、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、たびたび呼び出しては話し合っていた。さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。

 パウロは、自分の人生の歩みを「走る」という言葉で表現している。

 フィリピ 3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 2テモテ 4:7 わたしは、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 パウロは回心してから、すぐに伝道のために立ち上がりました。そして、走り続けてきた。

 フェリクスは、パウロの行く手の邪魔をした。裁判を引き延ばした理由は、二つあった。金が欲しいと言う下心、そして、ユダヤ人を怒らせないように監禁したままにする。

これによりパウロは無駄と思える2年間をローマで過ごした。

しかしこの2年間もパウロにとって無駄ではなかった。三つの理由を挙げる。

第一は、皇帝に上訴する準備が出来たこと。神の御心は囚人としてローマに行くことであり、そのためにローマ市民権を用いること。この神の御心を悟るための2年間であった。

第二は、走ってきたパウロにとって、これは体を休めることが出来たかけがえのない時であった。

ある牧師先生は、病気で入院された時、神さまから「休め」と言われたと語った。

視点を変えて物事を見る。その大切さをパウロは学んだ。

第三は、この2年の間にパウロは手紙を書き、深い神学的な考察をする時間が与えられた。

あまり支持されていない説だが、パウロはこの二年間でローマ書を書いた、あるいは書く準備をしたという説がある。私はその可能性があると思う。

ローマ書を書いた時期は別として、パウロの神学、信仰に対する考え方が深くされたのは、間違いなくこの二年であった。神は無駄なことをなさらないお方である。

 

 

3、船は目的地に到着した

 使徒27:1の見出しは、「パウロ、ローマに向かって船出する」。使徒27:13の見出しは、「暴風に襲われる」。

 使徒27:39の見出しは「難破する」。 そして到着したのが使徒28:1 「マルタ島にて」。

 いったいどのようなルートを通ったのか。協会共同訳聖書巻末の地図12を見ると、その経路がわかる。

 地図を見ると船は真直ぐ西に船は向かいマルタ島に着いた。

 神が私たちの人生を導かれるのもまた、このようなことがある。

 主は彼らを目指す港に導かれたと詩編107:30にはある。

2024年3月17日の説教要約  「しもべの歌」

2024年3月17日の説教要約

      「しもべの歌」    中道由子牧師

 

《彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しいものとされるために彼らの罪を自ら負った。》(イザヤ書53章1~12節)

 

 

1、苦難のしもべ(1~6節)

これは本来のイエス・キリストの容姿ではなく、死を頂点とする苦難の姿のことです。

その姿は、人々からさげすまれ、疎外されていました。

皆さんは、人に馬鹿にされた経験がおありでしょうか?

「あなたなんかたいしたことないわよ。」などと言われたりすると、がっくりくるものです。

それどころか「あんたなんかいらない。」最近は子どもたちの間でも、「死ねよ。」とか「死んでくれた方がいい。」というような恐ろしい言葉が普通に交わされます。

これほど私たちの魂を粉々にし、存在意味をなくすことがあるでしょうか?

しかし、私たちの主は真正面からこの言葉を受けてくださいました。

ローマの兵士たちは、子どもがからかうようにイエス様を嘲り、動物を引いて行くようにイエス様を連れ出したのです。

しかも、彼らはイエス様を王と馬鹿にして遊んでいた、その遊びは通常のモノではありませんでした。

「一日王様ごっこ」という遊びで、くじで王様に選ばれた人は、一日王様のように扱われ、いい思いをするのですが、その次の日には殺される、という恐ろしい遊びでした。

彼らにとって、その日はくじを引かなくても的になる人物がいる。それが主イエスだったのでした。

  次に彼が負ってくださったのはわたしたちの病、私たちの痛みでありました。(53章4節)

主イエスご自身が病身であったわけではなく、主は私たちの痛みを負い、病を受け止められたと解釈されています。5節「彼が受けた打ち傷によって、私たちは癒やされた。」

薬も病を癒すために用いられますが、薬には副作用もあります。

主の癒しは、「彼が受けた懲らしめによって私たちに平安が与えられる」癒しであります。

心に平安が与えられる癒し、私たちは皆それを受けることができるのです。

 神は、何の罪もない小羊のように主イエスに私たちのすべての罪を担わせ、代わりに苦しみを受けさせました。ユダヤ人の罪ではない。6節にあるように「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」のであります。

 この犠牲の上に、私たちは初めて、「私は主に在って、価値ある存在です。」と言えるのではないでしょうか。 イエス様は、私たちの代わりに、踏みつけられ、鞭で打たれ、十字架に釘づけにされ、血を流されました。

ここで「私たち」という言葉を使われています。この預言書を読むすべての人が含まれています。

私の罪が赦されるため、あなたの傷が癒されて解放されるためなのです。

 

2、沈黙するしもべ(7~9節)

 この主のしもべの身代わりの死において、彼は何も言わず反抗もしない。従順にその苦難を受けられた。 裁判をお受けになった主イエスの態度はまさにこの通りでした。

ローマの総督ピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思ったのでした。

このような状態で、私たちは一言も弁解も答弁もしないことができるでしょうか?

 主イエスにとっては、十字架にかかることの意味と目的以外、目に入らなかったのでしょう。

イザヤ書53章11節には、「その苦しみの実を見て、満足する。」とあります。

ただひたすら、父なる神の御心を全うすることが彼の喜びでした。

そして、その喜び、その実は、私たちが罪赦され、義とされることでした。

自分がさげすまれたり、無視されたり、馬鹿にされたと思う時、十字架上で黙していた主を想い、その主に与えていただいた復活という大きな冠を目の前に置いて生きてゆきたいものです。

 

3、御心に従うしもべ(10~12節)

 10節を新改訳聖書では、「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためにいけにえとするなら、彼は末永く、子孫をみることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」となっています。

しかし、この主のみこころを受け取ることは、主イエスにとって決して機械的ではありませんでした。

主は血の汗を流すようにして祈り、父なる神と問答されたのでした。

マタイによる福音書26章39節「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

 主イエスゲッセマネの園でこの祈りを三度しました。

その杯を飲むことがいかに恐ろしいかというのは、それは人間の罪のために犠牲になって死ぬことを意味していたからです。その祈りは人がもだえ苦しむ以上に壮絶な祈りだったのです。

父なる神はこの世を愛され、最愛の息子をこの世に人間の贖いの代価として命を与えるためにお遣わしになった。

子なる神の無限の苦しみからの叫びは拒絶されました。

もし子なる神である主イエスの叫びが認められていたなら、私たちのための救いが「完了した」という主イエスの喜びの声はなかったでしょう。

絶望した魂が、平安を得ることはなかったでしょう。

その時、父なる神は、子なる神の祈りをどんなに聞き入れたいと思われたことでしょう。

父なる神は父親の心で、子の苦悩を十分ご承知だったことでしょう。

しかし、このゲッセマネでの祈りが拒絶されることによって、主イエスは復活と今日の栄光をお受けになられました。

53章の前の52章13節のみ言葉はそれを明らかにします。

「見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、あげられ、はるかに高くなる。」

今、私たちに与えられた良き行いや慈悲の心は、私たちの祈りがすべてかなわないことによって受け継がれているのです。それはとても偉大なことなのだと。

2024年3月3日の説教要約 「人生の海の嵐」 

2024年3月3日の説教要約

      「人生の海の嵐」    中道由子牧師

 

《ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。》(使徒言行録27章13~26節)

 

パウロはいよいよローマに向けて船出します。

それは、まさに命がけの旅だったのです。

パウロの遭遇した嵐と私たちが遭遇する人生の嵐を重ねてみていきたいと思います。

 

1、思わぬ暴風

地中海では、11月以降は航海は最も危ない時期とされていました。

ちょうどその頃にクレタ島を出発しようということになったので、パウロは黙っていられず、「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」と警告したのでした。

彼は今までにも難船の経験が何度もあるし、一昼夜海の上を漂流したこともありました。

だから、本職の船乗りからみればしろうとかもしれませんが、経験に基づく彼の意見は尊重されるべきでした。

しかし、百人隊長は航海士や船長の言うことの方を信用したのです。

まもなくパウロが心配していたことが的中してしまいます。突然、何の前兆もなく、エウラキロンと言われている暴風が襲って来ました。

船はこの風のために苦しめられましたが、カウダという小島の陰に難を逃れ、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができたのです。

 しかし、その翌日になっても嵐は収まりそうもなく、彼らは積み荷を捨て始めました。

三日目に人々は、ついに自分の手で船具まで投げ捨てざるを得なくなったのでした。

ですがこれらのことをしても、事態は少しも好転しなかった。

当時の航海は、今日のように機器がそろっているわけではないので、太陽や星を頼りに航海するものでした。その肝心の太陽や星が全く見えないのでは、船の進路をつかむこともできず、ただどこかの陸地に打ち上げられるのをじっと待つほかはなかったのでした。情況は絶望的でした。無線も携帯もない時代です。

嵐の中、周りがまっくらでどこに進んでいいかわからなくなったその時こそ、パウロの出番でした。

 

2、安心できる理由

パウロは、食事ものどを通らないほどの失望している乗船者の前に立って、パウロの忠告を聞き入れなかったために起きた事態であることを、彼はまず指摘しました。

そして、は彼らの前に毅然とした態度で立ち、船は失っても命を失うことはないから、「元気を出しなさい。」と言って皆を励ましたのです。どうしてパウロはこのようなことが言えたのか。それは、前の夜に主の言葉があったからです。

パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」

 この言葉は、どんなにパウロを勇気づけたことでしょう。

またこの船に乗っていた人たちにとっても、使命遂行のために神の保証を受けているパウロが乗り合わせていたことは、どんなに幸いなことであったか分からない。

 私たちが生きていく中で、このエウラキロンのような突風に会うことがあるのではないでしょうか。そのために、どうしたらよいか分からなくなるような、絶望的な窮地に追い込まれることもあるでしょう。

マタイ福音書8章で、弟子たちがイエス様と乗っていた船が嵐に見舞われましたが、イエス様は、大変な嵐と突風の中で船が転覆するかもしれない中でも熟睡されていたのです。

エス様は天地の造り主であられますから、どんな環境にも支配されません。

驚いたり、困ったりということはないのです。イエス様は確かに人間の体を持っておられましたが、その環境に支配されるということがなかったのです。

そのイエス様と一緒に人生の船に乗っていることを忘れてはいけません。このお方が一緒でなければ、どんなに良いことばかりの人生のように見えても不安だらけです。

でも、この方が一緒に歩んで下されば、安心です。

 人生にはいつでも嵐が起こるものです。その嵐をどのように受け止め、勝利するかが重要です。

 

3、周りを助ける力

このような情況の中で、ただ自分が助かりたいだけではない、不安と恐怖に同じようにおののいている他の人々を力づけることが出来たらと思います。

そして実は、それがこの世に生かされている私たちクリスチャンの使命なのではないでしょうか。パウロは何の根拠も持たないでただ人々を励ましたのではないのです。

それは、「わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」という確信に基づいたものでした。大丈夫だと保証してくださる神がおられる。

その神は、「私の仕え、礼拝している神」だからです。

普段仕えていなかったら、いざという時、神の保証を信じることは難しいでしょう。

こうして彼は神の言葉に信頼することができたからこそ、「わたしたちは必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」と宣言できたのです。

神に仕えている一人の人が使命を遂行しようとし、そして信仰に立つ時、その人のゆえに周りの人々までもが救いの恵みに預かることができる。

このことを私たちは忘れないようにしたい。

どんなに周りが不信に満ちていて、沈没しそうな情況の中にあっても、救われた私たちの存在は決して小さくないのです。

2024年2月25日の説教要約 「誰にも責められない良心」

2024年2月25日の説教要約

    「誰にも責められない良心」  中道由子牧師

 

《こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。》(使徒言行録24章10~23節)

 

1、弁護士テルティロの虚言

カイサリアでのパウロの裁判で、原告側の弁護士として雇われてきたのがテルティロでした。おそらくギリシャ語を流ちょうに話すヘレニストのユダヤ人だったのでしょう。

ローマの総督フェリクスのところに来て、パウロを訴えます。

まず、テルティロは適当なお世辞を並べて総督フェリクスの関心を買います。

そして、パウロの告発を始めていきました。

まずパウロのことを5節「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者」と、治安上も問題があるかのように言っています。

 次に、「パウロは、ナザレ人の分派の首謀者」だという訴えです。

ユダヤ教の人たちは、キリスト教ユダヤ教からはみ出した異端くらいにしか考えていなかったのです。パウロこそはこの異端集団の最高リーダーだと言っているのです。

 三番目に、6節「この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。」と言って、具体的に訴因を提示したのでした。

実際に彼らがパウロを捕えたのは、一人の異邦人を神殿の内庭に連れ込んだと言う理由で、これは誤解であったし、証拠もありませんでした。

ただ、このような訴え方をすることによって、裁判が自分たちに有利に展開するのではないかという計算があってのことでした。

このようにテルティロは、パウロという人物は、ローマ人にとっても                 ユダヤ人にとっても、また政治的にも宗教的にも危険人物であることを強調しました。

頭のいい人です。大祭司に雇われた弁護士ですから、事実をその報告に都合よく言い換え、利用しているのです。こういう人は私たちの周りにもいるかもしれません。

 

2、正直なパウロの弁明 

 総督フェリクスに促されて弁明に立ったパウロは、一つ一つの告発に対して、決してフェリクスにへつらうことなく、事実をあげて弁明しています。それによって、弁護士テルティロは人を訴えようとして、かえって自分の不義が明らかになったのでした。

 まず第一に、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしているという訴えに対して、彼は、自分がエルサレムに上ったのは礼拝のためで、暴動を起すためではないと反論しています。また、誰一人パウロが騒ぎを起こしているのを見たと言う目撃者もいません。

 二番目に、自分が「ナザレ人という一派の首領」であるかどうかにパウロは答えなかったけれども、この特別な群れに自分が属することは認めました。

けれども、ユダヤ人に「異端」とみなされている自分たちの方が、かえって完全に旧約聖書の教えと一致している、特に死人の復活の事柄にも正しく関わっている点を述べて、その正当性を主張します。

そしてパウロは、義人も悪人も必ず復活し、神の裁きの前に立たなければならないと言う復活信仰をもっていることを明らかにしています。

人に責められないだけでなく、復活の主の前に立つ時、大丈夫な生き方をさせていただきたい。

 三番目に、「神殿さえも汚そうとした」という訴えに対しては、自分は神殿を汚すどころか、ユダヤ人に献金を携えて、幾年ぶりかで帰ってきたこと、その供え物のためにきよめを受けて宮の中にいたこと、もし宮を汚したと言うなら、その証人を連れて来られるはずではないかと言う反論を述べます。

パウロは、自分が復活に対する望みのゆえに訴えられても、宗教的な問題はローマが扱うことはできないと堂々と語ります。

このように、パウロは、自分を弁護する中でも福音を示します。

神の人は、いつ、どこででも、誰の前でもためらわず、福音を伝える時を逃しません。

パウロのことを「あいつは『疫病、ペストのような人間だ』」とテルティロが言いましたが、パウロが宣べ伝える福音には当時の社会の体制を根本から覆す力がありました。

同じ福音の力が今私たちにも与えられています。

 

3、総督フェリクスの恐れと貪欲

 総督フェリクスは、意外にもキリスト教について相当詳しい知識を持ち合わせていました。パウロの弁明を聞いて、背景や事情がかなり分かったと思われます。

しかし、彼はパウロを釈放しなかった。

テルティロとパウロの証言の真実性を正すために、裁判を延期することにしたのでした。

 それから数日経ってから、総督フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラと一緒にやって来て、パウロを呼び出し、個人的に「キリスト・イエスを信じる信仰について」、彼から話を聞いたのです。

パウロは彼らとの個人的な対話の中で、「正義と節制とやがて来る審判」(25節)について話して聞かせます。するとフェリクスは恐れを感じて話を打ち切らせ、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言って自ら逃げたのでした。彼の結婚は正しくなかった。

それで、「正義と節制と審判」という話の内容に対してまとも対応するには、今の生活を自分の生き方から変えなければならないという「恐れ」を感じたのでしょう。

フェリクスは恐れにより自分の命と人生を神に委ねることができなかった残念な人物でした。

 私たちは神の前にも人の前にも責められない、証しが立つ生き方をさせていただきたい。

2024年2月18日の説教要約 「約束に忠実な主」

2024年2月18日の説教要約

   「約束に忠実な主」     中道選子神学生

 

エズラ記 1章1〜7節、4章24〜5章2節)

 

《シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは立ち上がって、エルサレムの神殿建築を再開した。神の預言者たちも彼らと共にいて、助けてくれた。》

                        (エズラ記 5:2 新共同訳)

 

1.約束に忠実な主

イスラエルの民は神様の命令に聞き従わなかったので、イスラエルは北王国のイスラエルと、南王国のユダに分裂してしまいました。

さらに、ユダ王国の人たちは神様に背き続けたので、バビロンという、当時とても力を持っていた国に、打ち負かされ、捕囚として連れて行かれることになってしまいました。

この後、バビロン王国もペルシャという国に滅ぼされて、代わりにペルシャがユダやあらゆる国々を支配するようになります。

 

しかし、不思議なことに、ユダを支配していた、このペルシャの王、キュロスが、バビロン捕囚によって連れてこられたイスラエル人たちに、「首都のエルサレムに帰って、神様の神殿を建て直しなさい」と命じられました。

異国の王であり、異邦の神をも礼拝するキュロスの心さえも、神様は動かして、神殿を建てるために、イスラエルの民を、自分たちの国へ帰らせてくださいました。

このことが実際に起こる190年ほども前に、神様は、イザヤという預言者を通して、すでにこのことについて預言されていました。そのことが、イザヤ書の44章の28節に記されています。

 

[イザヤ書 44:28]

  キュロスについては『彼はわたしの牧者。

  わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。

  エルサレムについては『再建される。

  神殿はその基が据えられる』と言う。」

 

今までイスラエルは、何度も何度も、神様に背いて来ました。

それでも、神様の約束は変わらず、神様は、人間の目には不可能に感じるようなことを、不思議な神の方法で、成し遂げてくださいます。神様は絶対に約束を忘れない忠実なお方です。

 

 

2.主の約束に不誠実だった民

神様が、イスラエル人のために、バビロンからエルサレムへと帰る道を開いてくださり、彼らはエルサレムに帰って行きました。

さて、これから工事をどんどん進めて、待ちに待った神殿を完成させて、みんなで礼拝するぞー!と、意気込んでいたと思いますが、そうは簡単に行きません。

イスラエルの地に代わりに住まわされていた外国人や、その混血の民となったイスラエル人から妨害を受けるようになりました。

そして彼らは、「今は時ではないのかもしれない」と思い、その妨害に屈して、神殿の工事を中断してしまいました。

神様がこんなにも誠実であるにも関わらず、イスラエルの民は、その約束よりも、自分のことばかりを優先してしまうようになりました。

そんなイスラエルの人たちに、神様はハガイという預言者を遣わして、このように告げられました。

 

[ハガイ書 1:2~4]

万軍の主はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている。」

 すると預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。

  「この宮が廃墟となっているのに、

  あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」

 

イスラエルの国に帰らせてくださったのも、背後で働かれた神様であるに関わらず、彼らは、その神様の約束を大切にして、神殿の建設に集中するのではなく、自分の生活を優先していました。

そんなイスラエルの人たちに、預言者ハガイを通して、神様は忍耐強く、神殿を建て直すように励まされました。

そして、その言葉に従っていった時に、更なる支援を受けて、彼らは主の神殿を建て直すことができたのです。

 

 

3.私たちに与えられている約束

目には見えませんが、私たちにも、イスラエルの人たちと同じような約束が与えられています。

私たちは神様に背く罪ある者たちでしたが、神様は私たちを、神の国に立ち返らせてくださいました。それは、ずっと預言されてきた、救い主イエス・キリストを信じることを通してです。

そして、私たちにもイスラエルの人たちと同じようなミッションが与えられています。それは、神の国を広げ、建て上げていくことです。

神の国とは神の統治という意味があります。物質的な国ではなく、神が治められ、神様の御心と善がなされる時、そこに神の国があるのです。

 

今は目に見えない神の国を、私たちはどのように建て上げていくのでしょうか。それは、王であられるイエス様の言葉に従い、イエス様のように生きていくことを通してです。

私たちは、神様から与えられている約束、ミッションよりも、自分の生活、関心、心配に集中してしまってはいないでしょうか。

神様は諦めず、こんな私たちに御言葉を与え、約束に何度でも立ち返らせてくださるお方です。

今日、私たちは、神様の言葉に聞き従い、神の国が与えられている約束と、それを建て上げていくミッションに、立ち返るものたちでありたいと思います。

 

私はアメリカから日本に帰ってきてしばらくした時に、アルバイトを探していました。

私は神様に「あなたが私に行ってほしいと思っておられるところに、私を遣わしてください。あなたが求めておられる人たちをそこに置いてください。」と祈っていました。

 

そうして決まったアルバイト先で働く中で、そこで働く一人一人のために祈って欲しいから、神様は私をこの場所に置かれたのだと確信しました。

それから私は、一人一人が、神様の愛と出会うことができるように、救いが与えられるように、祝福があるように、真剣に祈り始めました。

するとその中で不思議な出会いと会話のきっかけが与えられ、一人の方が教会に通ったことがあることを知りました。

そして、彼女が再び教会に通うようになるのを、見届けることができました。

神様はその方のことを忘れておらず、彼女をもう一度神様のもとに引き寄せたいから、私をその方と出会わせてくれたのかもしれないと思い、神様の愛を強く感じた機会でした。

でも、その方も辞めてしまい、私もアルバイト先に慣れていき、学校や奉仕の忙しさの中で、バイト先のために祈ったり、出勤前に祈ることがおろそかになっていっていきました。

 

バビロン捕囚から帰ってきたイスラエル人も、最初は「主の宮を建てあげよう!」と張り切っていましたが、全然上手くいかず、時間も経ってその状況にも慣れ、気持ちも薄れ、イスラエルでの自分の生活に没頭していくようになりました。

神様は、私たちが属している職場で、学校で、教会で、家族の中で、友人関係の中で、神の国を建てあげていって欲しいと願っておられます。

私たちはその一つ一つの場所に、神様が置いてくださっていることを忘れてしまうことはないでしょうか。

神の国を求める心を新たにして、祈りを持って、それぞれの場所に向かっていく私たちでありたいと思います。

2024年2月11日の説教要約 「渇く人への命の水」

2024年2月11日の説教要約

 

  「渇く人への命の水」     説教者 ボブ・ウオレン宣教師

                 通訳  中道善次牧師

    ≪ヨハネ福音書4章≫

 

①イエスは水について語った

ヨハ 4:7 イエスは女性に水を求めた。

ヨハ 4:9 サマリアの女は驚いてイエスに答えた。

エスは彼女の「生ける水」を与える。

       女性は「生ける水」を、よどみなく流れる水と理解した。

       しかしイエスは、霊的な水を意味した。

ヨハ 4:14 イエスはご自分の与える生きた水は永遠の命につながるのだと言われた。

 

 

②イエスは自分のことを語った

ヨハ 4:16~18 イエスは突如、会話の主題を変え、夫を呼んでくるように言われた。

ヨハ 4:19 女はイエス預言者だと思うと告白した。

 

 

③イエスは礼拝について語った

ヨハ 4:23~24 イエスは、礼拝の場所ではなく、どのように礼拝をささげるかについて語られた。

それは「霊と真理」による。

*霊とは、聖霊によることではなく真心のことである。

詩編 51:19 しかし、神の求めるいけにえは、うち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。

 

霊的な礼拝は賛美と感謝を献げることにある。

詩編99:9 我らの神、主をあがめよ。

      その聖なる山に向かってひれ伏せ。

      我らの神、主は聖なる方。

ローマ 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。

これこそ、あなたがたのなすべき(霊的な)礼拝です。

 

エスがなされた自己紹介

 出エジプト3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

ヨハネ8:47~59 アブラハムが生まれる前から「わたしはある」

ヨハネ4:26 それはあなたと話をしているこのわたしである:私はメシアである。

ヨハネ6:35~45  わたしはいのちのパンである

ヨハネ8:12    わたしは世の光である

ヨハネ10:7~10  わたしは門である

ヨハネ10:11~18  わたしはよい羊飼いである。

ヨハネ11:25    わたしは復活である

ヨハネ14:1~6   わたしは道、真理、命である。

ヨハネ15:1~5   わたしはぶどうの木である。

ヨハネ18:4~8   「わたしである」

黙示録22:12~16 わたしはアルファでありオメガ

 

適用:イエスサマリアの女の出会いがもたらしたもの

 命の水を飲むことは、イエスを救い主として受け入れることである。

 人々にイエスがなさったことを伝える。

 ヨハネ4:28~30 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

 

 渇いている人々に命の水を与えたい

2024年2月4日の説教要約 「エルサレムへの旅」

2024年2月4日の説教要約

    「エルサレムへの旅」    中道由子牧師

 

パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。》(使徒言行録21章1~14節)

 

1、御心はどこに

第三伝道旅行を終えたパウロが、エルサレムに上ろうとするところです。

それは、エルサレム献金を届けるためだけでなく、もう一度エルサレムにいるユダヤ人の同胞に、イエスが救い主であることを語ろうと考えていたからでした。

これはパウロの心からの願いであったのです。

 しかし、途中立ち寄ったティルスという所にいた弟子たちは、パウロに命の危険があるので、エルサレムへは行かないようにとしきりに忠告しています。

しかもそれは御霊に示されたことであったと言います。

しかし、パウロは「今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。」と言っています。(20章22節)

カイサリアに到着すると、預言者アガボも同じように警告し、カイサリアの弟子たちも、しきりにパウロを止めようとしました。

にもかかわらずパウロは、エルサレムに上るのです。

 しかし、パウロは神の警告は受けても、逆らってはいないのです。

ですからここでの警告は、パウロに注意を促すと同時に、パウロと共にある者に対し祈りを求めるものであったと言えます。御霊は彼らにパウロの危険を知らせ、彼のために祈るように示されたのではないか、と思うのです。

実際、パウロはこの後、エルサレムで逮捕されるのですが、また釈放されています。

そして、エルサレムで証をした後、彼は主の声を聞きます。

23章11節「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」

 ですから、エルサレムに行くことは、主の御心なのですが、21章の時点では、いろんな人が主の声を聞き、パウロを引き留めたい思いと混同していたことは明らかです。

 主の御心ですから、と言われると私たちはあきらめざるを得ない現実があります。

しかし、本日の聖書箇所を通して、神の栄光と人の願望が重なり合うところに御心があることがわかります。人々はパウロの命を心配しているのです。

愛する人を失いたくない、人として当たり前の感情です。

パウロの信仰はその上を行っているのです。

十字架の死に至るまで神の御心に従順であられたキリストと同じ道を選んだのでした。

ここまで徹底して神の使命に従い通せたパウロは、本当に使徒として幸せな人であり、彼の人生は満ち足りていたということができます。

 私たちの生き方、願望の中に、決して背伸びをしないで、心から自分を無にして主に従いたい方向づけがあるなら、それは何よりその人にとっての幸せであり、他の人が何と言おうとも、主の御心を歩んでいると言えるのではないかと思えるのです。

 

2、ユダヤ人にはユダヤ人のように(21:17-40)

エルサレムの長老たちは、パウロの宣教報告を聞いて神をほめたたえる一方で、律法に熱心なユダヤ人たちが、その働きを認めるかを心配します。

パウロが、律法を否定していると誤解する人々がいるからです。

長老たちは、パウロが余計なトラブルに巻き込まれないように心を配り、誓願の儀式に参加し、さらにそのためにお金を出すように促しています。パウロは素直に従っています。

それは、主イエスは、律法を成就し、完成するために来られたからです。

彼はユダヤ人の救いを心から願っていたからでした。

ユダヤ人は、ローマの支配下にあっても、ユダヤ教を守る信仰ははっきりしていましたし、彼らの宗教心に触れることは、ユダヤを統治していくことを危うくすることをローマ総督たちも感じていました。

 しかし、私たち日本人にそうした確固としたものがあるでしょうか。

仏教は仏への信仰だけでなく、国を統治するために活用できる画期的な教えが含まれていました。統治されていた指導者に従うことが徳とされてきました。

日本人にとっては国や指導者のために散り方、死に方、死に場所を求める生き方が美しいとされてきました。

多数に従うことがよしとされ、「右へ倣え」の意識が強い、日本人には日本人のようになることはどういうことなのか? 

神は、私たち一握りのクリスチャンに、パウロが律法の誓願の儀式を行ったように知恵を与えてくださいます。

 

3、エルサレムでの証しの機会

しかし、この誓願の儀式がアジアから来たユダヤ人の目に留まり、訴えられます。

彼らは勘違いをしたのですが、町中が大騒ぎとなり、パウロは殺されそうになります。

ここを読むと、パウロエルサレムに行くのはやはり止めておいたほうがよかったのではないか、とはらはらします。

 この時、パウロを殺そうとするユダヤ人たちの騒動の報告を聞いたローマ軍の千人隊長と兵士たちが駆けつけて、パウロは危機を逃れます。

そして、この千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、今や自分を殺そうとする同胞のユダヤ人に向かってヘブライ語で話す機会を得ます。

私たちの人生に、想像以上に悪い結果となり、困惑した事態に追い詰められることがあるでしょうか。

パウロはそのような時に、自分の過去、主イエスとの出会い、異邦人クリスチャンのアナニヤの祈りを通して、目が開かれ、新しい人生を歩むようになったことを大胆に語ったのでした。