2024年10月20日の説教要約 「泣かなくてもよい」

2024年10月20日の説教要約

      「泣かなくてもよい」     中道由子牧師

                                

《主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。》

                                     (ルカによる福音書7章11~23節)

 

1、死の悲しみ

ナインの町の寡婦のひとり息子が亡くなりました。

夫が亡くなったうえに、ひとり息子が死んだのです。

なんとも表現できない悲しみがこの女性を襲っていたと思います。

同時にまた、ひとり息子が死んだということは、この家系が断絶するという悲しみでもありました。

ユダヤの国においては、家系が途絶えてしまうということは不名誉なことでした。

さらに、この時代に女性がひとりで残されるということは、経済的な面でも、計り知れない重荷、不安を抱えることでした。

私たちも身近な人が亡くなった時に、悲しさや寂しさを感じます。

しかし、ひとり息子を失うとは、一生忘れることなどできない悲しみであるのです。

教会の牧会の中で、その悲しみに遭った人々に接する時、本当には分かって差し上げられない限界を感じます。

そのような中でも、御子イエス様を私たちのために死に渡された父なる神様だけが理解してくださるのだと思うのです。

この物語が記されている目的は、そうした悲惨な重荷を背負う人間を描くことではなくて、そのような悲しみを担っている者に寄り添ってくださり、救いを与えてくださる主イエスがここにおられるということなのです。

 

2、悲しむ者と共に

15,16節を見ますと「すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。 」とあります。

ここに「心にかける」という言葉がありますが、これは「顧みる」、見過ごしそうなものに、目を向け、顔を向ける、また出かけて行って、あるいは訪ねて行って声をかけるという意味です。

神様は悲しむ者に心をかけ、顧みてくださるお方なのです。

私たちは「天にまします我らの父よ」とお祈りします。確かに、神様は天におられる方でありますけれども、遠くにおれる方ではありません。こちらから行くことが出来ないので、あちらから来てくださり、私たちを訪れてくださるお方です。

ルカによる福音書1章では、クリスマスの物語ですが、天にいます神が、罪ある悲しみのあるこの世界に来てくださったことが書かれて、強調されています。

私たちは神の目に清くなることも正しくなることもできないものを持っています。

ですから、神様は、向こうからおいでくださったのです。馬小屋に生まれてくださったのであります。

悲しみの中にある者のすぐそばに主イエスはおいでくださる。

 この当時のユダヤのお葬式の行列は、棺の前に両親が立ちました。

ここで町の「門」とありますから、町の入口付近でしょう。当時、町の外にお墓がありました。

町の中、門の内側は私たち人間の営みの場所です。

けれども、その営みの場所の外には、死が取り囲んでいます。

結局、皆そこに出て行かなければならない。もっと長く門の内側で生きるはずだった若者が、その門の外、人生の終わりを告げられる場所に葬られることになったのです。

町の門のあたりに着いた時、イエス様が弟子たちや大勢の群衆とともに、向こうからおいでになり、この寡婦であるお母さんと出会われたのです。その出会ったところで「泣かなくてともよい」とおっしゃった。このお葬式の行列の一番先頭にいたお母さんのところに来てくださったのです。

13節「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」とあります。

この「憐れみ」は、「深い同情」とも訳されております。まさに、「内臓が痛む」、「内臓がひっくり返るように痛む」という表現です。

この内臓は、「心臓とか、肺、肝臓とか、腸など」、人間の命をつかさどるものと思われます。

そこが痛むという意味です。そこで深く感じ取るということで「はらわたが痛む」とも言われます。

お子さんを亡くされた方は、その思いが理解お出来になるでしょう。

あの子に代わって死んでやりたいと嘆く母親の代わりに、文字通り主イエスは、その身に私たちの罪を負うて、死んでくださった、身代わりの死を引き受けてくださったのであります。

 

3、起きよ

 14節「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」この言葉によって、若者は起き上がり、ものを言い出した。そして主はその若者を母親にお返しになったのでした。あっという間の奇跡でした。

私たちは、「泣きたいだけ泣けばいい。気が腫れるから」としか言えない、限界があります。

ところが、イエス様は「泣かなくともよい」、「さあ、起き上がりなさい」とおっしゃることができる。

エス様が救い主だからです。

同情を寄せられましたが、しかし、そこでとどまっているのではなく、さらに進んで「起きなさい」ということができるのは、イエス様が死を打ち破って蘇られた方だからです。

使徒信条に「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちからよみがえり」とあります。

陰府にくだり、死人の所にお出でになられましたが、そこにとどまっている方ではなく、三日目に甦られたのです。主イエスの墓は、日曜日の朝、女たちが行ってみると墓をふさいでいた石が動かされてからになっていたのを、弟子たちも見たのでしょう。

キリスト教は、イエス・キリストの復活から始まりました。

復活後の40日が、教会が誕生しキリスト教が始まる鍵でした。

復活がなかったら、キリスト教は始まりません。

確かに主は私たちの罪の身代わり十字架の上で死んでくださった。

ここまででは本当の希望はやってきません。

この復活のキリストが、「もう泣かなくともよい」「起きなさい」と言ってくださるのです。

2024年10月13日の説教要約 「十字架と復活のメッセージ」

2024年10月13日の説教要約

 

                   「十字架と復活のメッセージ」      中道善次牧師

                                       ≪コリント信徒への手紙一 1章18~25節≫

 

コリント第一の手紙を私はアズサの大学院で学びました。

授業の中で、次のような質問を教授がしました。

「みんなの中で、誰か、コリント教会の牧師になりたい人がいるか?」

 みんな首を振りました。そのぐらい問題だらけの教会でした。その問題は7つほどありました。

 教会内の分派(1~4章)、教会内の性の乱れ(5~6章)、それに対抗する禁欲主義(7章)、

 異教の神殿における食事(8~10章)、教会内の差別とそれに対抗する運動(11章)

 聖霊の賜物についての問題:異言の乱用(12~15章)、復活について(15章)

教授は、パウロは、諸問題の解決を十字架と復活に求めたと言いました。コリント書は、最初に十字架(1章)が記され、最後に復活(15章)について記されているのです。

 

 

1、十字架のメッセージを語ったパウロ

英語のNIVでは、1コリント1:18は、the message of the cross となっております。

古い英語は、the word of the crossであり、それを日本語で「十字架の言葉は」と訳しました。 十字架のメッセージ、それが大切なのです。

エスが、2000年前に十字架にかかって死んだだけではメッセージにはならないのです。

そこに含まれるメッセージが必要なのです。十字架の意味を告げてくれる言葉です。罪のない神の子が、あなたの罪のために十字架にかかって身代わりに死んだ。このイエスの十字架を信じる時、あなたの罪は赦される。それは旧約聖書で示されていたことであり、イエスはそれを実現された。

 何故パウロはこのような言葉を語ったのでしょうか?

 それは彼が、愚かと思える十字架のメッセージをコリントで語ることに徹したからです。

 パウロは、2:2~4で、十字架しか語らないと決心したのです。

 コリ1 2:2~4 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。

 パウロは、コリントに来る前、アテネという町で伝道しました。そこで失敗をしました。彼はギリシア哲学の町アテネで、知恵を尽くしてメッセージをし、ギリシアの詩人の言葉も引用したのです。しかし、最後は馬鹿にされて笑われたのです。その失敗があったので、パウロは方向転換をしました。それが愚かな手段である十字架を語るということでした。

かつては21節を「宣教の愚かさによって、信じる者を救う」と翻訳されていました。

それが私と妻の献身を決意する聖句になったのです。宣教の愚かに徹するということです。

しかし新共同訳では、21節を「宣教という愚かな手段によって」となっています。

献身して、牧師になって行く人のためにだけ、「宣教の愚かさ」があるのではない。誰かを教会に誘うこと、家族にイエスのことを伝えること、そこでどうしても避けて通れないのが、イエスの十字架と復活の話です。それを語るというのは、スマートな方法ではなく、愚かな手段を選ぶことなのです。

エスのことを語ると言うことは愚かなことです。失敗するときの方が多いのです。パウロもそうでした。それでも語り続けたのです。神は、愚かな方法を使う愚かな者を用いて下さるのです。祝福して下さるのです。

 

2、復活を信じない人々

復活のメッセージは、ギリシア人には愚かであったのです。

使徒 17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。

パウロにとって、伝道の失敗と言える出来事でありました。

ここでアテネの人々が復活を否定したのは、ギリシア思想に基づいてのことでした。ギリシアでは、死後の世界について、次のような考えがありました。それは「霊魂の不滅」という考えです。

ギリシア人は、肉体は悪である、目に見える物質は悪であると考えました。そして霊的なものは善であります。死ぬと言うことは、肉体の牢獄から霊魂が解放されることであり、ありがたいことであります。ギリシアの哲学者ソクラテスもこの考えを持っており、毒殺されるときに何の恐れもなく、霊魂が肉体から解放されることを喜んだのです。

そのような考え方を持つギリシア人対して、復活のメッセージを受け止めさせることは、彼らがクリスチャンになってからであっても難しいことでありました。

「肉体は悪」というギリシア思想をもつ人々には、復活の体は必要ないものでした。それは「悪」をもう一度身につけることに他ならなかったからです。

復活を信じない。体の復活は必要ない。そのように考えたコリントの人たちの姿が、コリント第一の15:12~17であります。

コリ1 15:12~17 キリストは死人の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死人が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

パウロは彼らに、復活の体をいただく事が祝福であることを15章で教えるのです。

復活を信じられないクリスチャンがいた。これだけ言うと私たちは驚きますが、実は、私たちも似たようなことを注意しなければならないのです。

それは天国に行くことは魂が永遠に生き続けるという考えです。

オスカー・クルマンという学者の書いた書物があります。「現代の復活」という本です。

その最初の所に、こう書かれています。「今日、プロテスタントであれ、カトリックであれ、一般のキリスト者に死後の人間の運命に関する新約聖書の教えはどんなものかを尋ねるなら、例外なく『霊魂の不滅』という答えを得るであろう。しかしこの広く受け入れられている考えは、キリスト教についての最大の誤った理解の一つである。」

魂が救われる。魂が恵まれる。私たちはそのような言葉を使いますが、それはクルマンという学者から言わせると偏った信仰の持ち方であります。

私たちは魂だけが救われるのではありません。魂だけが天国に行くのではありません。

キリスト教は、復活、つまり、よみがえりの体をいただいて、天国で永遠に生きるのです。

キリストの恵みと祝福は、私たちの魂に、肉体に、精神に、家庭に、仕事に、経済に、全ての分野に及ぶのであります。霊的なことだけではない。バランスのとれた健全な信仰、これが15章から聞き取るメッセージであります。

そして復活を信じる人たちが大切に受け止めるもう一つのメッセージがあります。

それはこの地上での人生を一生懸命に生きることです。

復活を信じない人たちが陥っていたライフスタイルは、15:32です。

1コリ 15:32 死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」

肉体はどうせ滅びる。そして復活の体など要らない。私たちが、この肉体を持っているうちは、自分の欲望の通りに生きたらいいのだ。そのような間違った考えがありました。

それが、コリント教会の中で起こった「性の乱れ」そして「異教の宮で振る舞われる肉を食べることでした」。

復活を信じないと、毎日の生活が乱れるのです。

パウロは復活を信じる人の生き方を、15章の最後のところで言うのです

1コリ15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

クリスチャンが清く生きる。日々を一生懸命生きる。それは復活の希望があるからです。

2024年10月6日の説教要約 「力尽きた時にこそ」

2024年10月6日の説教要約

        「力尽きた時にこそ」   中道由子牧師

                                            

《イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」》

 (ルカによる福音書8章40~56節)

1、12年間の重み

 40節から56節までの中で、二人の娘を中心とする、二つの物語が、しかも二つではなく、まるでひとつの物語であるかのように書かれています。

どちらも、悲惨な状況なのです。会堂司ヤイロは、各地にある会堂の責任者で、ユダヤの人たちにとても尊敬されていた、立派な立場の人です。

彼に12歳ぐらいの一人娘がいました。

愛らしく育ったその娘が突然死に瀕するような病にかかってしまったのです。

12歳というのは、喜びを意味しています。輝かしい意味を持った数字だと言われます。

それだけにこの父親にとって、12歳になって、これからという時になぜと思い、いたたまれない絶望感に襲われたのでした。

 そこに真ん中を割るようにして、同じ節に、もう一人の女の話が出て来る。

この女にも、12という同じ数字が使われています。

この女性は12年間もこの婦人病にかかっていた。

つまり、ヤイロの娘が生まれた時から病気は続いていたのです。

ヤイロにとっては娘の成長の期間が、この女にとっては、苦しい年月お金を使い尽くし、なお、絶望の中にあったのです。

病気のせいで財産を使いはたしてしまったこの女性は、どのように暮らしていたのでしょうか。

さらに、この時代、長血の女性は汚れた人と呼ばれ、その人が座った座席も汚れるとされていました。彼女は宗教的にも悩んでいて、「神は私を捨てられた」という思いがあっても不思議ではありません。そして、彼女の最大の悩みは、自分の問題がいつ解決されるかわからないことです。

 注目するのは、彼女はその重荷を持ちながら、信仰を持ってキリストに触れたことです。

レビ記15章19~31節には、長血は不浄な病とされていました。

それで、神殿の行事に参加することも、人々と接触することを禁じられていたのです。

しかし、この女性は、禁忌事項を破り、押される群衆の中に入っていきました。

彼女はきよめの法に縛られ、身を隠すよりも、その不浄さから抜け出すことを選んだのでした。

それは、癒しがなされる決定的な行動でした。この女性は、そっとイエス様に触れ、癒された!

マルコの福音書5章29節では「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。彼女はそっとその場を去ろうとしました。

「わたしに触れたのは、だれか。」とイエス様は力が出て行ったのを感じたのでした。

この女性は、隠れてでもイエス様に触れたいと思い、その時、イエス様から力をいただいたのです。

 私たちは、力が尽きる真っ暗な時に、どん底にある時、「イエス様、お願いします」という気持ちで、天に目を向けます。そのように、み衣の裾に触れる思いで近づいていく時、主は聖霊をもって力を注ぎ込んでくださり、助けられ、支えられます。生きる希望が与えられるのです。

 

2、娘よ、起きなさい

主が長血の女性に信仰告白をさせている間に、片方ではヤイロの方は、家の者が来て、49節「お嬢さんは亡くなりました」と言うのです。

娘が死んでしまったという訃報が届いたヤイロは、その家の者に、「大丈夫だ、イエス様がおられるから」、とは言っていない。目の前で癒しが起こっても、希望が持てるとは思えなかったのです。

家に着くと、人々は娘の死を悲しんで叫んでいる。

エス様はその死の悲しみに対して、いや、娘は死んだのではない。眠っているだけだとおっしゃった。人々はそれを聞いて、この人は何を言っているのかと嘲笑ったのです。

力尽きた人々、絶望の人には、主の言葉は届かない。

死に襲われた絶望の中で、人々はイエス様を笑った。

私たちもわかります。私たちの力が尽きた時、その先に、信じる力が残っているわけではありません。むしろ、神をあざ笑うことの方が自然でしょう。ここまで一生懸命やってきて、慢心尽きた。

人間的に考えるなら、「イエス様、どうして急いで来てくださらなかったのですか?あの長血の女を探して、信仰告白させる余裕があったなら、自分の頼みの方が先だったのだから、どうしてすぐに来てくださらなかったのか?」

「あの長血の女がみ衣に手を触れ、イエス様の力が出て行ったのも無視してきてくださったら、娘は死ななかったかもしれないのに」と思っても不思議ではない。

その彼の不安を覆い隠すように、主イエスは、50節「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と語られるのです。

 ヨハネによる福音書11章にも同じような状況があります。

マルタとマリヤの弟ラザロが病気になったのです。

6節「ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間同じ所に滞在された」とあります。

エス様はラザロが完全に死ぬのを待たれたのです。そして、主は神の時を待って働かれます。

ヨハネ福音書11章42節「ラザロよ、出てきなさい!」という主の声に、死んでいたラザロの耳の機能が回復し、反応して、その声を聞いて、墓から出てきたのです。

 ヤイロの娘も、イエス様は娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられました。

そして、このヤイロの娘の霊が戻って、すぐに起き上がったのです。

すごい奇跡です。しかし、もっと大きな奇跡があります。

このヤイロの娘は、この時起き上がったけれども、やがてまた死ぬ時が来ます。

人は、この地上で永遠には生きません。しかし、主はご自身の復活を示しておられ、私たちに永遠の命を与えるために来られ、十字架の上で私たちの罪を負い、死を打ち破りよみがえられる。

 神様には御計画があり、長血の女の奇跡でヤイロの娘の奇跡が遅れても、さらに優る業、復活の予表を示されたのであります。この復活は私たちの希望であります。

コリントの信徒への手紙一15章20節

「 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

2024年9月29日の説教要約  「神の赦しを知るチャンス」

2024年9月29日の説教要約

 

                    「神の赦しを知るチャンス」   中道選子神学生

 

≪マタイによる福音書18章21〜35節≫

 

「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』」

                      (マタイによる福音書 18:33)

 

1,神様の赦しの大きさを知るチャンス

このたとえ話に出てくる登場人物たちが何を表しているかというと、まず、多額の借金を帳消しにしてくれた王様は神様を表しています。

赦してもらった家来は私たちのことです。

この家来に借金をしている仲間は私たちに負債がある人 (私たちに不都合なことや、嫌なことをした人)だということができます。

このたとえ話が何を言いたいのか一言でいうと、「あなたの罪も神様に赦されているのだから、あなたも人を赦しなさい」ということです。

神様の方がいつも先に私たちにしてくださっていることを、神様は「あなたも同じようにしなさい」と教えています。

 

このたとえ話では、神様のしてくださったことは、「1万タラントンの借金を帳消しにしてもらった」くらい大きいことだと例えています。

そして、私たちが誰かを赦さないことは、「100デナリオンの借金を赦してあげない」ことに例えられています。

日本円に換算すると、100デナリオンは約100万円に相当します。

そして、1万タラントンはなんと6000億円ということになります。

100万円ももちろん膨大な金額ですが、神様はそれとは比べ物にならないくらい、私たちのことを赦してくださったということです。

でも、6000億円と言われると大きすぎて、もはやどれだけ大きいのか、ピンと来ないことはないでしょうか?

それと同じように、私たちは神様がしてくださっていることの大きさがよく分からなくなってしまうことがあります。

エス様が命懸けで私たちに赦しを与えてくださったことの大きさが分からなくなってしまったり、あるいは忘れてしまうことがあるかもしれません。

 

誰かに嫌なことをされた、裏切られた、そのことを赦すことは本当に難しいことです。

でも、誰かを赦すことが難しいと感じる時こそ、神様の赦しの凄さが分かるチャンスなのかもしれません。

赦すことが難しいと感じる時、愛することが難しいと感じる時、従うことが難しいと感じる時、イエス様がどれだけ難しいことを私たちにしてくださったのか、本当の意味で知ることができるのです。

エス様は弟子たちに裏切られ、ユダヤの兵士たちに鞭打たれ、馬鹿にされ、十字架に付けられました。

それでもイエス様は、「父よ、彼らを赦してください」と祈ってくださったのです。

それは、私たちが罪の赦しと永遠の命を受け取るためです。

 

2、赦せるように祈る

赦すことが難しいと感じる時、その難しさを一番分かってくださるイエス様に祈ることをぜひ大切にしていただきたいと思います。3つのことをお祈りすることをお勧めします。

一つ目は、神様の赦しの大きさが分かるように。

二つ目は、嫌なことをしてきた相手のことを赦すことができるように。

三つ目は、相手の祝福のために。

特に3つ目は、ぜひ家族や信仰の友、牧師先生に代わりに祈っていただくことをお勧めします。自分で祝福を祈るのはとても難しいので、お互いに助け合って祈っていくことが大切です。

 

私も、赦すことがすごく難しいと感じる経験をしたことがあります。

今思い返すと本当に自分が未熟だったなと思うところがたくさんあるので、大したことではないのですが、中学校2年生の時に、担任の先生と大喧嘩をしました。

私は傷ついて、その後先生と今まで通り関わることができなくなり、先生のことを赦すことができませんでした。

でも聖書を読むと、赦しに関してすごく厳しいことが書かれてありました。神様は優しいお方のイメージですが、赦しに関してはとっても厳しいなと思いました。

[マタイによる福音書 18:33–35]

「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 

私は先生のことを赦さないと、神様から赦してもらえないのは嫌だなと思いました。

じゃあ赦したいと思っても、心にとげみたいなものがある感じで、傷ついて赦せないと思いました。

だから神様に、「神様、どうやったら赦すことができますか。助けてください。」と祈っていました。

そのような祈りと心の痛みはしばらく続きましたが、ある朝礼拝に参加していた時、不思議なくらい急に心が軽くなって、「ああ私はもう先生のことを赦すことができる」と思いました。私の努力でもなんでもなく、ただ神様が私の祈りに答えて、先生のことを赦すことができるようにしてくださいました。

そして次の日、学校の授業の後に先生と話をして、「私は先生のことを赦します」と伝えました。それから先生との関係が回復して、今まで通り仲良く関わることができるようになりました。本当に先生と和解をすることができて良かったと思っています。

 

誰かを赦すことは、神様が望んでいることだから、私たちもそのことを心から望むことが大切です。

それでも自分の力で赦すことは難しいので、神様に「赦すことができるように助けてください。あなたの赦しの大きさを私に教えてください」と祈ることを大切にしたいと思います。

 

3、赦しは自由を与える

赦さなくてはいけないなんて、向き合わなくてはいけないなんて、神様は厳しいと思うかもしれません。でも、赦すことは自由を経験することです。

私たちは相手を赦す時に、憎しみの感情を手放すことができます。そして心に平安(平和)が与えられるのです。

2024年9月15日の説教要約 「老いは神の贈り物」

2024年9月15日の説教要約

        「老いは神の贈り物」    中道由子牧師

                                              

《白髪は輝く冠。神に従う道に見出される。》 (箴言16章31節)

 

1、白髪は輝く冠

口語訳では、「しらがは栄えの冠である。正しく生きることによってそれが得られる」と翻訳されています。「白髪は輝く冠である」と聖書は言いますが、私たちが生きている世の中はこのように言うでしょうか?白髪が出て来ると、何か衰えを感じたりする

私たちも心のどこかでこの世に倣って、白髪は「衰え」のしるしである、と考えているのではないでしょうか。若いということが価値があるとこの世が訴えるからです。

シスターの鈴木秀子先生は、「若さへの執着が、自分を苦しめる原因になっていることもある」と言われます。人間はみな、歳を重ねます。外見や体調に変化が出るのは当たり前です。

人にとって一番心安らぐのは、「ここに私が、あるがままでいていい」という状態だ、と言われます。

体力の衰えと共に、社会的地位も低くなり、行動範囲も狭くなり、友人も少なくなる。

資本主義経済にとって、労働こそ価値があり、賃金が人の価値を決めるのです。

み言葉は、この世の価値観に外から切り込んでいるのです。「白髪は輝く冠である」と。

皆が通る老いるということにおいて、一番大切なことは、ふがいなくなった自分を受け入れて、慈しむ。してあげていた自分が、してもらう自分になる。それには、本当に謙虚ということがつちかわれてくるというのです。老いは、悲しいことばかりではない。

持ち時間も体力も、気力さえも確実に減っていくのだとすれば、何もかもでなく、本当に大切なこと、必要なことを選んでするようになっていきます。

箴言31章30節(口語訳)はさらに語ります。

「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」

 

2、感謝の心

2018年の朝日新聞に、「衰えても幸せ」という老年的超越、ということが書かれています。

老年的超越とは、高齢期に高まるとされます。「物質主義的、合理的な世界観から宇宙的、超越的世界観へ変化」していく。

一般的に言うなら、自分が宇宙という大きな存在につながっていることを意識し、死の恐怖が薄らいだ、他者を重んじる気持ちが高まったりするというのです。

超高齢の方ほど、ひとりでいてもさほど孤独を感じず、できることが減っても悔やまないようになり、周囲への感謝の気持ちが高まりやすいという。

「成功」や「達成」を重視する若い頃とは異なる、穏やかな幸福感。ベッドにほぼ寝たきりでも、昔を回想するだけで楽しい、と言う人もいる。たとえ健康を失っても、幸せでいることはできると言う。

歳を重ねることがなぜ、幸せ感につながるのかと言うと、加齢に伴い、心身の能力が落ちていくことを否定的に受け止め過ぎないように、心の状態が自然と変化していくのではないかと推測されます。100歳以上の長生きをする人は、好奇心旺盛で、社交的、きちょうめんといった特徴があるようです。これらの性格は、老年的超越に直接結びつかなくても、長寿を遂げることを通して幸せ感につながっていると言えるのだと。

逆に、幸せ感を阻む要因として、「老いることを不幸ととらえて、いつまでも自立していなければ、と思いがちな人は、この老人的超越は得られにくいようです。

 幸せは主観的なもので、「何点でなければ幸福」という客観的基準があるわけではありません。

これはまた、良いことも悪いことも突き詰めて考えない、十分に生きたという感覚があり、周囲の人々への感謝を忘れない、そんな人に神様がくださる贈り物なのです。

輝く冠は、感謝の心だと大切なことを教えられます。

 

3、信仰による豊かさ

最後にクリスチャンである私たちには、もう一つの冠がある、それが信仰と言う冠です。

神様は私たちをそれぞれ違う存在として造られた。

社会で働いている時も人に合わせていかないと成り立たないかもしれません。

しかし、老いは人間をより個性的にするチャンスでもあるというのです。

より暮らしやすいスタイルを選び、その人らしい格好で生きていく。

人間関係も徐々に、量から質に変わっていきます。

仕事をし、いろんな活動をしていた所にいけなくなる、また親しくしていた人が先に天国に行く、その寂しさは神様だけがご存じであると思います。

出かける所、お付き合いする人も量的には少なくなる、でもその方に残された人間関係は質的には豊かになっていきます。特に、神様との関係、イエス様を思うことはもっとそうなるでしょう。

私たち人間は歳を取り、「労働」「仕事」ができなくても「祈る」という「活動」は最後まで出来るのです。活動が出来なくなったとしても、「働き」ではなく「存在」といいますか、生かされているということが、そこにいてくれることに大きな意味があり、喜びを与えてくれるのです。

 しかし、一般的には人間年を取ると丸くなり、円満になると考えますが、そうもいかない。

堪え性がなくなり、頑固になる方もおられることでしょう。老いはそのままでは、人格の完成を保証しないというのです。しかし、み言葉は語ります。

「正しく生きること」、「神に従う道」で人格の完成に向かっていけると。

老いるということは確かに一つの制限を生きることです。

しかし、人生の本当の意味は、超越的なお方、世界といのちの創造者であり、救い主であるイエス・キリストを知ることにつながるのです。

老いるということ、それは乏しい生き方になるのではなく、違った生き方になることです。

神にますます信頼し、他者の助けを神の名によって受け入れる生き方になることです。

そして、私たちキリスト者は、復活の希望を持つものです。

若く、良かった過去をただ振り返る後ろ向きの姿勢ではなく、前方を見つめ、死を越えた生命、神の勝利、わたしたちの救いの完成を目指して生きることができるのです。

2024年9月1日の説教要約 「全世界よりも大切なあなた」

2024年9月1日の説教要約

    「全世界よりも大切なあなた」    中道由子牧師

 

ルカによる福音書7章36節~50節》、 《8章26節~39節》                                           

《わたしにとってあなたは大事で、愛している。だから、他のものをあなたに代わって犠牲にする。》 (イザヤ書43章4節)

 

1、壺を割った愛(7章36節~50節)

この箇所からのメインメッセージは「多く赦される者は、多く愛する」です。

エス様が食事をしていた家に、招かれざる客が現れます。その町で罪人として知られていたその女は、泣きながらイエス様の御足に尊敬の口づけをし、献身の思いで香油を注ぎます。

私たちも多くの涙を流すことがありますが、人の足をぬぐうことができるほどの涙を流すことはあまりないでしょう。おびただしい涙を流し、しかも、髪で拭う、長い髪の毛であったのでしょう。

どこの国であっても、女性は髪の毛を大切にすると思います。その自分の髪の毛で主イエスの足を拭ったのです。ある意味、異常な、そして激しい行為なのです。

 この席をつくってイエス様を招いたのは、ファリサイ人のシモンという人でした。

ファリサイ派の人は、真面目な人たちです。神を確かに信じていました。

掟をきちんと守っていました。いわゆる罪の人というレッテルを貼られる人ではありませんでした。

彼はこの女が主イエスに涙を注ぎ、更に香油まで塗った時、汚れた罪人がさわるのを拒まないイエスを、心の中で裁き、軽蔑したのです。預言者は、神の言葉を預かる人です。

だから、この女に罪があるなら、見抜いて退けるはずだ。

彼は、自分はあの女のような者ではない、ということによって自分を支えていました。

彼が、心の中に抱いたこの問いを、主イエスはすぐに見抜かれました。

エス様はここで彼に、「五百デナリオンの金を借りた人と五十デナリオンしか借りなかった人」の話をします。ファリサイ人シモンは思った。確かにこの話は罪の問題だが、あの罪人たちの世界の話で、自分には関係ない。あの女は、その罪人の中で最も程度が悪い。自分は、それほどではない。

シモンには、この女の感謝の涙の意味が分からなかった。なぜわからなかったのか?

自分も罪人の一人だということは分かっているけれども、この女ほどひどい罪人ではない。

キリストの愛の大きさを知りたい。しかし、その愛の大きさを知るにしては、自分の罪は小さい。

この女の罪は大きかったから。それに見合う大きな愛を受けたのだ。

私たちも、もっと大きな罪を犯せば、この女のような主の大きな愛を知ることができるのでしょうか?パウロはローマの信徒への手紙6章1節でこう言っています。

「では、どうこうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」

これは、たくさん重い罪を犯せば、赦される恵みも増すから、罪の中にいたらいい、という意味でしょうか?という問いなのですが、パウロは、2節で「決してそうではない。」と言っている。

 主イエスが、ファリサイ人シモンにこの例えを話されたのは、彼を招いておられたからでした。

シモンの罪の姿がどこにあるかというなら、この女ほどイエスを愛していない彼の姿でした。

主イエスが彼の家に入ったとき、シモンは主の足を洗う水も提供してくれなかった。

これはただ客を迎える礼儀を欠いた、ということだけではありませんでした。

自分たち罪人のために、愛の歩みをしておられる主の足に目を留めることがなかった。

その労に感謝することもなかったのです。主イエスへの愛が欠けていた。

多く赦されたものは、たくさんの感謝を表すでしょう。

 インドの地で貧しい人の為に生涯をささげたマザー・テレサは、「私がもし社会福祉や慈善のために活動するのでしたら、家も捨てなかったでしょうし、両親とも別れなかったでしょう。私は神にささげた身ですから、今私がしていることは、ヒューマニズムでも何でもないのです。ごく当たり前のことなのです。」と言ったそうです。

エスの愛に触れ、罪の赦しを受けた者は誰でも、この方に感謝をささげる生涯に導かれて行きます。 

 

2、人間性の回復(8章26節~39節)

 もう一人の神に愛された尊い人は、墓場に住んでいた。

どうしてそんな所に住んでいたかというと、もう家族と一緒に住めない状態だったからです。

この人は自分を着物も着ないで、マルコによる福音書5章5節によると、「石で自分のからだを傷つけていた」というのです。

自分で自分のからだを傷つけて快感を覚えるというのは、人間の本来あるべき姿ではありません。

自傷行為は、自分に起こるどうしようもない感情を、自分を傷つけることでコントロールしようとすることです。自殺を目的とはしておらず、直接的に自らを傷つけるものを指します。

  自傷行為の場合、他人やモノに対してではなく自分に対してというのは、ある意味それだけ、自制し社会性もある。この点からも異常心理などというのは全く当たらないのです。

ここではレギオンという悪霊が、この人に自傷行為をさせていたのです。

しかも6000もの悪霊がいて、この人の人格は破壊されていたのでしょう。

社交性に欠けていた。足かせや鎖を断ち切ってしまうほどの力、凶暴性あった。

そして、豚が自分で湖になだれ込んで死んだ、というのは、自殺願望がこの人の中にあったということです。人は傷つけないが、自分を傷つける人には、心の中に悪霊が喜ぶ巣があるのです。

悪霊は罪や偶像礼拝や人の心の傷を狙ってきます。

私たちの心の中にそれらがあると、そこを巣にして入って来るのです。

私たちの心には、プライドがあったり、自己憐憫であったり、過去の失敗にこだわっていたり、複雑なものが巣を作っているからです。

しかし、その人を主イエスはお癒しになる、イエス・キリストは私を、あなたを癒してくださるのです。

これは他者との関係を癒してくださることよりも、もっと大事なことでしょう。

神様は私たちの罪の代わりに独り子イエス様を十字架につけました。

あなたが神様にとって大切な存在だからです。

エス様に身代わりの死の苦しみを与えても、あなたを尊く惜しんでくださったのです。