2024年9月15日の説教要約 「老いは神の贈り物」

2024年9月15日の説教要約

        「老いは神の贈り物」    中道由子牧師

                                              

《白髪は輝く冠。神に従う道に見出される。》 (箴言16章31節)

 

1、白髪は輝く冠

口語訳では、「しらがは栄えの冠である。正しく生きることによってそれが得られる」と翻訳されています。「白髪は輝く冠である」と聖書は言いますが、私たちが生きている世の中はこのように言うでしょうか?白髪が出て来ると、何か衰えを感じたりする

私たちも心のどこかでこの世に倣って、白髪は「衰え」のしるしである、と考えているのではないでしょうか。若いということが価値があるとこの世が訴えるからです。

シスターの鈴木秀子先生は、「若さへの執着が、自分を苦しめる原因になっていることもある」と言われます。人間はみな、歳を重ねます。外見や体調に変化が出るのは当たり前です。

人にとって一番心安らぐのは、「ここに私が、あるがままでいていい」という状態だ、と言われます。

体力の衰えと共に、社会的地位も低くなり、行動範囲も狭くなり、友人も少なくなる。

資本主義経済にとって、労働こそ価値があり、賃金が人の価値を決めるのです。

み言葉は、この世の価値観に外から切り込んでいるのです。「白髪は輝く冠である」と。

皆が通る老いるということにおいて、一番大切なことは、ふがいなくなった自分を受け入れて、慈しむ。してあげていた自分が、してもらう自分になる。それには、本当に謙虚ということがつちかわれてくるというのです。老いは、悲しいことばかりではない。

持ち時間も体力も、気力さえも確実に減っていくのだとすれば、何もかもでなく、本当に大切なこと、必要なことを選んでするようになっていきます。

箴言31章30節(口語訳)はさらに語ります。

「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」

 

2、感謝の心

2018年の朝日新聞に、「衰えても幸せ」という老年的超越、ということが書かれています。

老年的超越とは、高齢期に高まるとされます。「物質主義的、合理的な世界観から宇宙的、超越的世界観へ変化」していく。

一般的に言うなら、自分が宇宙という大きな存在につながっていることを意識し、死の恐怖が薄らいだ、他者を重んじる気持ちが高まったりするというのです。

超高齢の方ほど、ひとりでいてもさほど孤独を感じず、できることが減っても悔やまないようになり、周囲への感謝の気持ちが高まりやすいという。

「成功」や「達成」を重視する若い頃とは異なる、穏やかな幸福感。ベッドにほぼ寝たきりでも、昔を回想するだけで楽しい、と言う人もいる。たとえ健康を失っても、幸せでいることはできると言う。

歳を重ねることがなぜ、幸せ感につながるのかと言うと、加齢に伴い、心身の能力が落ちていくことを否定的に受け止め過ぎないように、心の状態が自然と変化していくのではないかと推測されます。100歳以上の長生きをする人は、好奇心旺盛で、社交的、きちょうめんといった特徴があるようです。これらの性格は、老年的超越に直接結びつかなくても、長寿を遂げることを通して幸せ感につながっていると言えるのだと。

逆に、幸せ感を阻む要因として、「老いることを不幸ととらえて、いつまでも自立していなければ、と思いがちな人は、この老人的超越は得られにくいようです。

 幸せは主観的なもので、「何点でなければ幸福」という客観的基準があるわけではありません。

これはまた、良いことも悪いことも突き詰めて考えない、十分に生きたという感覚があり、周囲の人々への感謝を忘れない、そんな人に神様がくださる贈り物なのです。

輝く冠は、感謝の心だと大切なことを教えられます。

 

3、信仰による豊かさ

最後にクリスチャンである私たちには、もう一つの冠がある、それが信仰と言う冠です。

神様は私たちをそれぞれ違う存在として造られた。

社会で働いている時も人に合わせていかないと成り立たないかもしれません。

しかし、老いは人間をより個性的にするチャンスでもあるというのです。

より暮らしやすいスタイルを選び、その人らしい格好で生きていく。

人間関係も徐々に、量から質に変わっていきます。

仕事をし、いろんな活動をしていた所にいけなくなる、また親しくしていた人が先に天国に行く、その寂しさは神様だけがご存じであると思います。

出かける所、お付き合いする人も量的には少なくなる、でもその方に残された人間関係は質的には豊かになっていきます。特に、神様との関係、イエス様を思うことはもっとそうなるでしょう。

私たち人間は歳を取り、「労働」「仕事」ができなくても「祈る」という「活動」は最後まで出来るのです。活動が出来なくなったとしても、「働き」ではなく「存在」といいますか、生かされているということが、そこにいてくれることに大きな意味があり、喜びを与えてくれるのです。

 しかし、一般的には人間年を取ると丸くなり、円満になると考えますが、そうもいかない。

堪え性がなくなり、頑固になる方もおられることでしょう。老いはそのままでは、人格の完成を保証しないというのです。しかし、み言葉は語ります。

「正しく生きること」、「神に従う道」で人格の完成に向かっていけると。

老いるということは確かに一つの制限を生きることです。

しかし、人生の本当の意味は、超越的なお方、世界といのちの創造者であり、救い主であるイエス・キリストを知ることにつながるのです。

老いるということ、それは乏しい生き方になるのではなく、違った生き方になることです。

神にますます信頼し、他者の助けを神の名によって受け入れる生き方になることです。

そして、私たちキリスト者は、復活の希望を持つものです。

若く、良かった過去をただ振り返る後ろ向きの姿勢ではなく、前方を見つめ、死を越えた生命、神の勝利、わたしたちの救いの完成を目指して生きることができるのです。