2020年1月19日の説教要約 「内なる人を日毎に新しく」

2020年1月19日の説教要約

         「内なる人を日毎に新しく」小林重昭川崎ホーリネス教会名誉牧師

              <Ⅱコリント4章16~18節>

 

  • 今朝は、「内なる人を日々新しく」(Ⅱコリント4章)から、「希望」を語ります。神学者シドロー・バクスターは、「コリント人への第二の手紙程、パウロが心を注ぎ出して書いたものはありません」と語ります。パウロキリスト教宣教の中で、様々な迫害に遭遇し、肉体的弱さに直面しました。 

     しかし、4章後半~5章で、パウロは「外なる人」の弱さを受けとめつつ、             「内な る人は日々新た」という「栄光の希望」を語りました。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅱコリント4:16)。

  • パウロは、「外なる人」と「内なる人」を対照的に描きます。「外なる人」とは、年齢と共に衰える私たちの肉体のことです。それに対して、「内なる人」とは、主イエス・キリストを信じて、霊的に新しく誕生した自分、すなわち、生まれ変わった内なる自己です。まさに、今朝のテキストは、キリストに在って新創造された「内なる人」の、驚くべき「日ごとの新しさ」を語ります。

 

Ⅰ、外なる人(肉体)の衰え

1、パウロの肉体的衰え

パウロは、第二コリント11章23~27節で、自分の肉体を弱らせた幾つかの外的要因を述べます。すなわち、パウロは加齢に伴う肉体的衰えとは異なる、迫害と困難という外圧による肉体の衰えを語りました。「23彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっとも多く、投獄されたことももっとも多く、むちで打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。24ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、25ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。26幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせの兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」(口語290p)。実に、パウロの肉体的衰えの要因となった一つは、キリストを伝える為に受けた迫害でした。この迫害によって、死に面したことが何度かありました。むち打ちの刑がユダヤ人とローマ人によって合計八回ありました。二つ目の肉体的衰えの外的要因は、伝道旅行中に遭遇した様々な人的災難、自然災害です。さらに12章7節は、パウロの病について述べます。「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に1つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである」。このパウロの病については、明らかにしていません。しかし、パウロの病は、彼の伝道生涯に大きなトゲとなっていました。

 

2、老いから来る私たちの肉体的衰え

それに対して、老いから来る肉体的衰えもパウロの現実的戦いでした。「老いる」ことの意味です。「老いるということは、これまで自分が身につけてきたものを、逆に一枚一枚脱いで行くことです。そこにさわやかに生きる老いの姿があります」(「信徒の友」)。ここでは、「自分が身に着けていたものを一枚一枚脱いで行く」という、高齢者が現実を受け止める、さわやかさが語られています。

しかし、今まで身に着けていたものを一枚一枚脱ぐ老いの現実には、抵抗があるようです。具体的には、交友関係という衣が脱がされます。収入の道も縮小され、経済的に縮小を余儀なくされます。まさに、経済的衣が1枚脱がされます。視力の衣を1枚剥がされます。さらには、耳が遠くなります。足腰が弱くなります。実に、高齢者は若い時の健康、さらに体力という衣を、自覚的に脱がざるを得なくなります。また、子供の独立に伴う「喪失経験」です。そして、もう一つの高齢者の大きな「喪失感」は、愛する伴侶の死です。伴侶を失った「喪失経験」は大変なものです。

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」。パウロはここで、「外なる人」の衰えを爽やかに受け止めつつ、「内なる人」の存在を確認し、アピールします。まさに、再臨のキリストを目当てにして、パウロは「内なる人は日ごとに新しくされていく」と、「栄光の器への希望」を語ったのです。

 

Ⅱ、内なる人(救われた新しい自己)は日々新たに

パウロは、「内なる人(救われた新しい自己)」は日々新たにされる」と、語りました。前述した如く「内なる人」とは、「主イエス・キリストを信じて、霊的に新しく誕生した内側の自分」です。すなわち、クリスチャンになった新しい内なる存在です。まさに、主イエス・キリストを信じ受け入れた者は、「魂」が全く新創造されました。すなわち、「内なる人が全く新しくされた」のです。文字通り、キリストにある新しい人生の始まりです。パウロは、エペソ3章で、栄光の主を見上げるキリスト者として、「内なる人」の強化を祈ります。「16どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、17また、信仰によって、キリストがあなたがたの心に住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」(エペソ3:16~19。304p)。まさに、パウロは、私たちの「内なる人」が、内住のキリストの「愛」によって強められる様に祈ったのです。私たちの「内なる人が日々」強められる秘訣は、御霊により、私たちの内に住み給うキリストの愛に深く根差し、愛を土台に歩むことです。

1、信仰の目が開かれる

パウロは今朝のテキストの最後で、「信仰の霊」が、私たちの「内なる人」を確かにすると語ります。すなわち、聖霊なる神がクリスチャンの信仰を、「見えない世界」を見るかの様に導きます。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(Ⅱコリ4:18)。「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」(Ⅱコリ5:7)。聖霊なる神様が、私たちの心の目を開き、もう一つの世界―キリストが生きて働く永遠の世界、栄光の世界を見せてくれます(マザー・テレサの世界)。

2、栄光の衣を着せられる希望

さらに、パウロは「内なる人の日々の新しさ」は、「栄光の衣を着せられる」事であると語ります。Ⅱコリント5章1~5節です。「1わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。2そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。3それを着たなら、裸のままではいないことになろう。4この幕屋の中にいる私たちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。5わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜ったのである」。「幕屋」と言う弱い肉体が、キリストの再臨の時「栄光の衣であるキリストを着る」のです。