2024年3月17日の説教要約  「しもべの歌」

2024年3月17日の説教要約

      「しもべの歌」    中道由子牧師

 

《彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しいものとされるために彼らの罪を自ら負った。》(イザヤ書53章1~12節)

 

 

1、苦難のしもべ(1~6節)

これは本来のイエス・キリストの容姿ではなく、死を頂点とする苦難の姿のことです。

その姿は、人々からさげすまれ、疎外されていました。

皆さんは、人に馬鹿にされた経験がおありでしょうか?

「あなたなんかたいしたことないわよ。」などと言われたりすると、がっくりくるものです。

それどころか「あんたなんかいらない。」最近は子どもたちの間でも、「死ねよ。」とか「死んでくれた方がいい。」というような恐ろしい言葉が普通に交わされます。

これほど私たちの魂を粉々にし、存在意味をなくすことがあるでしょうか?

しかし、私たちの主は真正面からこの言葉を受けてくださいました。

ローマの兵士たちは、子どもがからかうようにイエス様を嘲り、動物を引いて行くようにイエス様を連れ出したのです。

しかも、彼らはイエス様を王と馬鹿にして遊んでいた、その遊びは通常のモノではありませんでした。

「一日王様ごっこ」という遊びで、くじで王様に選ばれた人は、一日王様のように扱われ、いい思いをするのですが、その次の日には殺される、という恐ろしい遊びでした。

彼らにとって、その日はくじを引かなくても的になる人物がいる。それが主イエスだったのでした。

  次に彼が負ってくださったのはわたしたちの病、私たちの痛みでありました。(53章4節)

主イエスご自身が病身であったわけではなく、主は私たちの痛みを負い、病を受け止められたと解釈されています。5節「彼が受けた打ち傷によって、私たちは癒やされた。」

薬も病を癒すために用いられますが、薬には副作用もあります。

主の癒しは、「彼が受けた懲らしめによって私たちに平安が与えられる」癒しであります。

心に平安が与えられる癒し、私たちは皆それを受けることができるのです。

 神は、何の罪もない小羊のように主イエスに私たちのすべての罪を担わせ、代わりに苦しみを受けさせました。ユダヤ人の罪ではない。6節にあるように「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」のであります。

 この犠牲の上に、私たちは初めて、「私は主に在って、価値ある存在です。」と言えるのではないでしょうか。 イエス様は、私たちの代わりに、踏みつけられ、鞭で打たれ、十字架に釘づけにされ、血を流されました。

ここで「私たち」という言葉を使われています。この預言書を読むすべての人が含まれています。

私の罪が赦されるため、あなたの傷が癒されて解放されるためなのです。

 

2、沈黙するしもべ(7~9節)

 この主のしもべの身代わりの死において、彼は何も言わず反抗もしない。従順にその苦難を受けられた。 裁判をお受けになった主イエスの態度はまさにこの通りでした。

ローマの総督ピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思ったのでした。

このような状態で、私たちは一言も弁解も答弁もしないことができるでしょうか?

 主イエスにとっては、十字架にかかることの意味と目的以外、目に入らなかったのでしょう。

イザヤ書53章11節には、「その苦しみの実を見て、満足する。」とあります。

ただひたすら、父なる神の御心を全うすることが彼の喜びでした。

そして、その喜び、その実は、私たちが罪赦され、義とされることでした。

自分がさげすまれたり、無視されたり、馬鹿にされたと思う時、十字架上で黙していた主を想い、その主に与えていただいた復活という大きな冠を目の前に置いて生きてゆきたいものです。

 

3、御心に従うしもべ(10~12節)

 10節を新改訳聖書では、「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためにいけにえとするなら、彼は末永く、子孫をみることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」となっています。

しかし、この主のみこころを受け取ることは、主イエスにとって決して機械的ではありませんでした。

主は血の汗を流すようにして祈り、父なる神と問答されたのでした。

マタイによる福音書26章39節「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

 主イエスゲッセマネの園でこの祈りを三度しました。

その杯を飲むことがいかに恐ろしいかというのは、それは人間の罪のために犠牲になって死ぬことを意味していたからです。その祈りは人がもだえ苦しむ以上に壮絶な祈りだったのです。

父なる神はこの世を愛され、最愛の息子をこの世に人間の贖いの代価として命を与えるためにお遣わしになった。

子なる神の無限の苦しみからの叫びは拒絶されました。

もし子なる神である主イエスの叫びが認められていたなら、私たちのための救いが「完了した」という主イエスの喜びの声はなかったでしょう。

絶望した魂が、平安を得ることはなかったでしょう。

その時、父なる神は、子なる神の祈りをどんなに聞き入れたいと思われたことでしょう。

父なる神は父親の心で、子の苦悩を十分ご承知だったことでしょう。

しかし、このゲッセマネでの祈りが拒絶されることによって、主イエスは復活と今日の栄光をお受けになられました。

53章の前の52章13節のみ言葉はそれを明らかにします。

「見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、あげられ、はるかに高くなる。」

今、私たちに与えられた良き行いや慈悲の心は、私たちの祈りがすべてかなわないことによって受け継がれているのです。それはとても偉大なことなのだと。