2022年10月2日の説教要約 「イエスは涙を流された」

2022年10月2日の説教要約
「イエスは涙を流された」  中道由子牧師 
 《ヨハネによる福音書11章28~37節

                  

1.神の栄光のために

 べタニヤは、エルサレムの東3キロのところ、オリーブ山の中腹にありました。

そこには三人のきょうだい、マルタとマリヤとラザロが住んでいました。イエス様はたびたび彼らの家を宿として、そこで人々を教えておられたのです。

 ところがたった一人の兄弟ラザロが病気になったのです。それもかなり重い病気でした。マルタとマリヤはイエス様に急使を送り、助けを求めたのです。

この時、イエス様はヨルダンの東で活動をしておられ、たくさんの人が信仰を告白するに至っていました。姉妹はイエス様がすぐに飛んできてラザロを癒してくださるものと思っていました。

しかし、イエス様はラザロの病気の知らせを聞くと、それを特別な意味を持つしるしとして受けとられました。そして4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言われました。

 ラザロの復活、この最後のしるしは、イエス・キリストには病を癒やす力だけでなく、死人に命を与える権限もあることを明らかにしています。

そして、神様はイエス様の御名を呼ぶすべてのクリスチャンに同じように働かれます。

神様だけが私たちの人生の順風満帆と不幸を定義されます。

今はわからなくても、私たちに対する神様の御計画と御心は必ず成し遂げられるのです。

神様は最悪の状況の中からご自身の栄光を現されます。人間の目に順調な時に神が栄光を現されても、私たちにはただのラッキーとしか感じ取れない鈍感さがあるからです。

皆さんの人生の中で、最悪の時こそ神が栄光を現される時であります。

 

2.涙のもと

 新聖歌210番は旧聖歌の歌詞で「罪咎を担う友なるイエス」となっています。

この聖歌の2番の最後に「われらの涙のもとを読み給う」と歌います。

エス様は、どうして私たちが泣いているかわかってくださる。

 35節の「イエスは涙を流された。」は聖書の中で最も短い聖句と言われています。

しかし、深い意味がある聖句です。イエス様は私たちと同じ人としての身体を持っておられたから、涙を流すことがお出来になります。

神様が泣いていると言われても私たちにはわかりません。

しかし、ラザロの死を前に、マルタやマリヤが嘆き悲しみ、人々が泣いているのを見て、イエス様は共に泣いてくださいました。

私たちにとっては大きな慰めであり、心の癒しにつながるみ言葉でもあります。

また、イエス様の涙の理由には、別の要因がありました。人々の不信仰な姿です。

人々は財産の損失や肉体の死などは悲しみます。しかし、永遠の命に入れないことを悲しみはしません。主はそのことを憤っておられる。

 そして、主が流された涙の一番大きな理由は、愛する者と家族をひき離してしまう死に対して、憤りを覚えられ、興奮されたのであります。これは、普通の涙ではない。

この憤りは、人を苦しめ、恐れさせ、深い悲しみに落とす死の力、悪魔の力に対する激しい憤りがあったのではないでしょうか。

ローマの信徒への手紙6章23節「罪が支払う報酬は死です。」と書かれています。

エス様が立ち向かわれるのは、肉体の死以上に、罪の結果として私たちにくだる永遠の死に対してでした。

私たちの罪のために十字架にかかり、私たちの前に立ちはだかる死に対して勝利を取るのが、主イエス・キリストの復活であります。

コリントの信徒への手紙15章54、55、56節「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」

 

3.石を取りのけなさい

 ラザロの墓の前まで来たイエス様は、39節「石を取りのけなさい。」と言われました。それはイエス様が墓の中に入るためではなく、ラザロが墓から外に出てくるためでありました。

これを聞いたマルタは驚きました。弟は完全に死んでいるのですから、遺体を見てもむだです。腐敗も始まっているでしょう。彼女はそう言いたかったのでしょう。

エス様はマルタを教え諭すように、彼女の信仰を呼び覚ますように言われました。

40節「もし信じるなら、神の栄光を見られると、言っておいたではないか。」

絶望としか言いようのない死の現実の中にあって、主イエスの言葉とその約束にすべてをゆだねることです。主イエスとそのみ言葉に賭ける。

そうすれば必ず神の栄光を見ることができるのです。

エス様は私たちの目を、すぐそばの現実からご自身の方に向けなさい、と言われます。それは現実を無視したり、現実から逃避したりするためではなく、現実に打ち勝つためであります。主イエス様は彼らに石を取り除くように求められた。

主はご自分で石を取り除こうとすればいとも簡単にできたはずです。

しかし、その働きを人間の手に委ねられた。このことから、イエスの言葉に信頼することは、その言葉に従って実際その通りに実行することなのだと教えられます。主イエスの恵みと祝福に与るために、彼らは石を自らの手で取り除けなければならなかったのです。

 主イエスは目を天に向けて祈られ、天の父なる神が主イエスの祈りをすでに聞いてくださっていることを感謝して祈られました。

私たちにも、私たちの手で取り除くべき石はないだろうか。