先週の説教要約 「もし信じるなら」

○先週の説教要約
『もし信じるなら』                  中道由子牧師
《イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。》
                          (ヨハネ11:40)
1、神様にはご計画がある
 11:3節で「あなたが愛しておられる者」という表現があります。ラザロはどんな病気であったか聖書には書かれていません。ただイエス様と親しい家族であり、主があいしておられた人でした。主が愛しておられる者でも病気になります、困難がやってまいります。神様は時々、神様の驚くべき摂理の中で、そのようなことを許可されます。4節に「この病気は死で終わるだけでなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」とあります。その病気には、その困難には目的があるということです。
 神様が愛する者に起こってくる病気や諸問題を通してご自身を現される方法は、私たち人間の知恵をもってしては、とても計り知ることはできません。11章前半にあるように、神様は時としてその問題の解決を遅らせることがあります。イエス様が、解決を遅らせたので、ラザロは死んでしまい、人々は完全に絶望してしまいます。私たちは目先にある病気を治してほしい、問題を解決してほしいと願いますが、主はもっと先をご覧になり、私たちの信仰を強め、成長させようとなさいます。そして神の時を待って働かれます。
6節を見て下さい。「ラザロが病気であることを聞いてから、なお2日、そのおられたところに滞在された」とあります。彼らを愛していれば、使いの者がラザロの危篤を知らせた時、ただちに何をおいてもかけつけるはずでしょう。イエス様がおられたベレア地方からベタニア地方まで歩いて一日かかったと言われています。使いの者は一日でイエス様の所に到着し、イエス様はさらにそこに二日留まり、それからベタニアまで旅をしたのが一日、つまり使いの者がベタニアをでて4日経過しています。39節のマルタの言葉からもラザロは使いの者が出て、すぐに息を引き取っているのです。医療の発達していない当時、死後三日目までに息を吹き返すという例は結構あったのです。でも四日目になると息を吹き返すこともなく、体は腐っていくのです。つまりイエス様はラザロが完全に死ぬのを待たれたのです。マルタとマリヤは「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と嘆きました。しかも使いの者を出した直後、ラザロは息を引き取ったと思われますから、使いの者が4節のお言葉を持ち帰った時、ラザロはすでに死んでいたのです。マルタとマリヤは主のなさること、主のお言葉の意味がわからず苦しんだのではないでしょうか。

2,御言葉に立つ
11章を見てみますと、マルタとマリヤはイエス様が語って下さった4節の御言葉に立つことができませんでした。二人が同じように言ったことは21節、32節の同じ言葉です。マリヤは涙が溢れてその先の言葉を出すことが出来ません。それでもマルタは主を信じる信仰の告白をしています。22,24,27節で「存じています」、「信じています」と最悪の中でも一生懸命信仰の告白をしているのです。マルタの信仰は今興ることではなく、復活の約束を信じていたのです。しかしイエス様が「墓の石を取りのけなさい」と言われた時マルタは恐れました。肉親にとって愛する弟ラザロの体が腐っていく臭いをかぐことは耐えがたいことでした。ラザロは、死んだ、その事実はかわりません。それでも主を信じ、御言葉に立って生きることを私たちに求めておられます。
 私たちの人生に主が御言葉を与えて下さるとき、現実よりも、経験よりも、常識よりも御言葉に立って祈り、従うことを求められることがあります。
神様がご自身のご計画により、栄光を現されるときです。
「ラザロよ、出てきなさい!」という主の声に、死んでいたラザロの耳の機能が回復し、反応してその声を聞いて、墓から出てきたのです。