先週の説教要約 「心のきよい人々は神を見る」

○先週の説教要約
『心のきよい人々は神を見る』            中道由子牧師
《心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。》    マタイ5章8節

 山上の説教は、前半4つが神に対して、後半4つが人に対しての態度です。
今朝は、人々に接する時の第二の態度、きよい心について学びます。

1、「きよさ」とは
 聖書では「聖い」という漢字を使い、ヘブライ語では、「カタロス」と言います。
「カタロス」は、清潔な衣服、きれいな水、純粋なぶどう酒、完全な肉体、脱穀された穀物、純金・純銀、純粋な血統などに使われます。傷がなく、混じりけのない純粋なものを表し、道徳的に何の問題もない人、行いの正しい人を表します。
 心理学やカウンセリングの領域で使われている「カタルシス」は、「カタロス」を語源としています。「カタルシス」は、心にのしかかる重圧感や、心におった傷などを解消し、心を浄化することを意味しています。
 「カタロス」という言葉は、旧約聖書で、主に祭儀に関係しています。
旧約の時代には、罪に汚れた人間は、聖なる幕屋を通して神の御前に進み出て、
動物の血によって罪の赦しを受けなければなりませんでした。

2,内なるきよさ(イエス様が求めておられるきよさ)
①二心を抱かない
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)
 きよい心は一途。神に仕えつつ、世の富や名声を得ようとするなら、二心のもの。
「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない人たち、心を清めなさい。」(ヤコブ4:8)
 汚れは二心から始まります。神に対して、一途な心、それがきよい心です
②正しい言葉
 口にする言葉が誠実だということ。その人の言葉を信じられないとは、その人をもう信じることが、信頼することが出来ないことになります。
言葉はその人自身を表すからです。
「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。・・・舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。・・・わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。」
ヤコブ3:2〜10)
③心の中の動機(イエス様は、言葉と同様に心の内側を見られる)
「あなたたち偽善者は不幸だ・白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(マタイ23:27)
 イエス様は、鋭く彼らの内側を見抜いておられた。
兄弟に向かって、馬鹿者呼ばわりするものは、ゲヘナの火の中に投げ込まれる、
情欲を持って女を見る者は、既に心の中で姦淫を犯している、と言われました。
外側はいくらでも取り繕えますが、神様の目の前に完全にきよい人はいません。
 イエス様の福音が及ぶところは、私たちの心であります。知識は人にきよい心をもたらすとは言えません。御言葉に従うことにより、祈りによって神に出会うことで、また聖霊によって造りかえられて、きよい心は与えられるのです。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜びであり、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらを禁じる掟はありません。
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:22、23)
 御霊は私たちを根本的に新しく生まれ変わらせてくださるのです。
罪を犯さないように努力するより、聖霊に満たされることが聖く生きる秘訣です。
④きよさは行動に現れる
 図書館で本を汚してしまった方が、同じ新しい本を買って返した、と伺いました。
このようにきよさは行動に現れます。

3、神を見る幸い
 ドイツ語では、このきよさは、「単純」と言う意味があります。洋服で言うなら「ひだがひとつもない、しわがない」ことであり、人の存在で言うなら、「隠れるところがない、影がない」つまり、「愚直」、愚直なほどに単純であること。
  預言者イザヤは、神を見た自分はわざわいである、と言っています。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ6:5)
 イザヤは、神を見た、それによって、自分が汚れた者、どんなに罪深い者であるか、知ったのです。  神は私たちに、独り子イエス・キリストを通して神というお方を見せて下さった。神を見たいなら、主イエスを知ること。それは、主イエスを救い主として仰ぎ、信じ受け入れる時、神を見ると言われたのです。
私たちが自らの欠けや汚れを感じるとき、そして子どものように素直に単純に、神様に助けを求めるとき、神は私たちをきよい者としてくださるのです。

「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父の懐にいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」(ヨハネ1:18)