2021年9月19日の説教要約  「心の清い人」

2021年9月19日の説教要約

                       「心の清い人」   中道善次牧師

                                             ≪マタイ 5章8節≫

 

  • 1、神を見ていないが愛している人々

ここで言われている清さは、道徳的な清さ、あるいは宗教的な清さというより、純粋な子どもが持っている「無垢な状態」をさす言葉であります。

「無垢な状態」、神に造られた最初の人間。そして堕落する前のアダムとエバが持っておりました。

創世記2章と3章の物語を見ると、アダムとエバは、神様と普通に対話することが出来たことがわかります。彼らは神様を見て、会話をして、交わっていたのです。それが、罪を犯したことによって、壊されてしまったのです。

罪を犯したあと、エデンの園を歩く神様の足音に気づいたアダムは、直ちに身を隠して、神様の顔を避けたのです。

それ以来、旧約聖書に出てくる人々は神の現れを恐れるようになりました。

神様を見たら死ぬ。怪力サムソンの両親となったマノアと妻はそのように言いました。

預言者イザヤは、神殿の中で神様を見たのです。それはお衣の裾を見だけだったのですが、自分は滅びてしまうと嘆いたのです。

エス様が語られた「幸いの教え」は、旧約聖書の人々が感じたことと全く逆のことであります。あなた方は神を見ることが出来るようにされた。その祝福を私たちに語るのです。それはいったいどのようなことでしょうか?

黙示録を書いたヨハネのように、光り輝く栄光のイエスの姿を幻の中で見るのでしょうか?

私が思い起こした聖書の言葉があります。それはペトロが手紙で書いた言葉です。

ペテ1 1:8 あなたがたは、キリストを見たことはないのに愛しており、今見てはいけないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。

ペテ1 1:9 それは、あなたがたの信仰の目標である魂の救いを得ているからです。

私は、イエス様を信じて救われて、喜びに溢れていた頃、この聖書の箇所を読み、「まさにそうだ」「その通りだ」と思ったのです。

エスの弟子で、イエス様がこの地上におられたときのお姿も、また、栄光のお姿も見たペトロは、あなたがたはキリストを見たことはないけれども、見てきた私と何ら変わりない。それは、あなたがたがイエスを愛していることだ。信じていることだ。そして、その結果として、喜びに溢れていることだ。

心の清い者は神を見る。この祝福の言葉を、私たちも自分のものとすることが出来るのです。

 

2、真っ直ぐに生きた心の清い人々

第二ポイントでは、「心の清い」の「清い」について、学びたいと思います。

「清い」と訳されている元の言葉のギリシャ語を調べました。それはカタロスという言葉です。心理学などで使う「カタルシス」は、そこからでていることばです。心の浄化作用、あるいは心に鬱積しているものを解放することであります。

清いは英語で言うならpureピュアーであります。その第一の意味は、水であらって、きれいになるということです。

次に私は、ギリシャ語のカタロスと同じ意味を持つヘブライ語を調べてみました。

その意味を説明するところで、列王記下5:10を見なさいとありました。

そこは規定の病に冒され、癒やしを求めて預言者エリシャのところにやって来たナアマンという将軍が清められた奇跡の物語の一箇所です。

王下 5:10 エリシャは使いの者をやって、「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなるでしょう」。

川に入って、体を水で洗う。こんな子どもじみたこと出来るか。ましてや誰が見ているかわからない。自分の病気の患部を見られてしまうかも知れない。またわざわざやって来たのに顔も出さない預言者は、全く失礼なやつだ。

ところが従者たちが、ナアマンに言うのです。ご主人様、預言者は難しいことをしろと言ったのではありません。川に行って身を洗うだけです。とにかくやってみましょうと説得され、ナアマンが川に入って身を洗った。

その行為には、pureという言葉のもう一つの意味が含まれていたのです。清さが、心の清さで使われる場合、純一、真っ直ぐ、さらに愚直という意味があるのです。

預言者に言われたとおり、川に入って身を洗う。そこには愚直さがないと出来ないのです。

やれと言われて、はいわかりましたという姿であります。何をやっているのだろうと思うかも知れません。かっこうわるいと思うかも知れません。でもそこには神様の言われたことを真っ直ぐに行う純粋さがあるのです

愚直な清さを持つもう一人の人物は、ノアの箱船を造ったノアであります。

堕落した世の中を神は、洪水で一掃する。お前は大きな箱船を造れ。その中に家族が入れ。ノアは、神に言われたことを疑いもせず、反論もせず、ただ実直に行ったのです。箱船を造れと言われて、黙々とそれに従ったのです。

ヨシュア記の中でエリコの城が陥落した物語があります。それはイスラエルの人々が七日間、エリコの城壁の周りを歩いた物語です。そのことの現代への適用として、神様に与えていただきたい土地の周りを祈りながら歩いて回ることがあります。それをプレイヤーウオークと言います。また、その祈りの素晴らしい結果も聞いたことがあります。

ある宣教団体では、アジアのある国に行って祈るのです。人から招待されるわけではない。飛行機代を使って、宿泊代を使って、そこですることは、町のどこかに行って、歩いて祈ることです。これもまた愚直な信仰の行為です。

神が言われたとおりのことをやると神が生きておられることを見るのです。

 

3、心の清さと隣人との関係

心の清い人について語ってきました。

心の清いといわれると私たちは、何をまず考えるでしょうか。

それは自分の心に手を当てることではないでしょうか。自分の心の内側を見てしまう傾向があるのです。

そして、まだまだ自分はだめだと思うか、それとも、自分は清くなった。しかし他の人はなっていないと今度は周囲にいる人に裁きの心を持ってしまうのです。

自分たち「きよめ」を強調する教会に属する者たちは、自分の心の中の清さだけをみてしまう。そして周囲にいる人々との関係にあまり心を配らない。むしろ裁いてしまう。そのような傾向があることを知らなければならない。

聖書が告げる清さは、自分の内面だけを見ることで、清くなったと満足してはいけないのです。

パウロの手紙を読むと、清さについて、次のような順序で書いております。

まずイエス様が成してくださった恵みを語るのです。そしてそれを信じて受け止めるのです。

そのあと自らの内側の清さを求めることが書かれます。そこも人間の努力ではなく、主が与えてくださる恵みを中心に書くのです。

そしてそのあと、パウロは隣人との関係を記しているのです。エフェソの信徒への手紙や、コロサイの信徒への手紙には、それがはっきりと書かれているのです。

それは身近な隣人との関係です。妻と夫であり、親と子であります。また奴隷制度のあった当時で言うなら主人と奴隷であります。一緒に生活している人たちとの関係を言うのです。

それは、清さは、自分一人で完結するのではなく、周りの人々との関係で表されてゆくものであることを示しているのです。

自分の周りにいる人々を愛すること。そしてその人々から愛される。お互いに愛し合う関係を築く。それが神を見ることに繋がるのです。

ヨハ1 4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互に愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。

自分の近くにいる人、関わる人々を愛し、またその人々から愛されるとき、わたしたちは神を見ることが出来るのです。