2021年9月26日の説経要約
「平和を造る人」 中道善次牧師
≪マタイ 5章9節≫
マタイ5章9節、口語訳では、「平和をつくり出す人たちは幸いである」。
英語では、ピースメーカーズとなっています。
茅ヶ崎市にありますキリスト教主義の学校「平和学園」があります。
ホームページでは、「学園の建学の精神は、キリスト教信仰にもとづき、自由で平和であたたかい愛の学園を築き、神を信じ隣人を愛する人、真の平和をつくるまことの人を世に送り出すことである。」
そして基礎となった聖書の言葉は、「平和をつくりだす人たちはさいわいである」(マタイ福音書5章9節)が記されております。初代理事長は世界的に有名な伝道者である賀川豊彦先生であります。
1、神と親しい間柄
神との平和について、聖書の中に次のような言葉があります。
ローマ5章1節「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。世界的な伝道者ビリー・グラハムは「神との平和」という題の書物を書きました。
神との平和は、イエスを信じ救われることの表現の一つです。
ローマ5:10には、神と平和を得たという言葉を「神と和解させていただいた」と表現しております。
カトリックのフランシスコ会訳聖書では、和解という言葉を「親しい間柄」と言っております。
神との親しい間柄、それが、私たちがイエス様を信じて救われている状態であると言えます。
私は、イエス様を信じる人と祈る時、必ず使う言葉があります。それは「神様、あなたの子どもになります。よろしくおねがいします」です。よろしくお願いします。この言葉から、神様との親しい関係がはじまるのです。
ローマ5:1に戻ります。ここに「神との平和を得ている」とありますが、聖書の写本には、次のように書かれているものもあります。それは「神との平和を保ち続けましょう」。
イエス様を信じて、神様と親しい間柄になった。しかしどこかで疎遠になった。神様に顔向けが出来ないような罪を犯した。平和な関係が、親しい間柄が、保てない事があります。
そのような人々に覚えていただきたいもう一つの言葉があります。それは「よりを戻す」です。
先ほどのカトリックのフランシスコ会訳聖書では、「和解」を「よりを戻す」と訳しているのです。
日本語の感覚として「よりを戻す」というのは、壊れた夫婦の関係が修復されるときに使われる言葉です。
旧約聖書では、ユダヤ人、イスラエルは、神と結婚する立場に置かれているのに、夫である神を裏切るような不信仰を続けました。神と人と夫婦の関係にたとえているのです。
ですから、神様と平和な関係が築き直されるなら、それは「よりを戻す」ことであります。
2、できる限り平和に過ごす
エフェソ2:14 キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、という言葉があります。
ピースメーカーであるイエスは、神と人との平和をつくり出すだけでなく、人間関係の平和をつくり出して下さった。
敵意という隔ての壁とは、人間社会の中の差別です。
具体的には、ユダヤの神殿のことです。ユダヤの神殿には、異邦人の庭がありました。そして1m半の石の壁があり、その中にユダヤ人の庭があったのです。
石の壁は、「外国人お断り」の「しるし」であります。選民意識があったユダヤ人は、異邦人、外国人を神からの祝福を受けられないものとしていたのです。しかし、ピースメーカーであるイエスは、その壁を打ち壊されたのです。
人を外見、民族、言語、経歴で見ない。偏見を持ってはいけない。それを2コリント5:16~17は述べます。
コリ2 5:16 それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
コリ2 5:17 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
「肉に従って」とは、人間的な基準、自己中心的な見方です。そのように私たちは人を見てしまうのです。しかし私たちの中にある全ての前提を取り除くのです。いつまでも人を「あのひとはこうだった」とレッテルを貼ってみてはいけない。人はキリストにあって、変わり続けているのです。
次に、紹介したい言葉があります。
ローマ12:18 「できれば、せめてあなたがたは、全ての人と平和に過ごしなさい」
加藤常昭先生という説教者は、次のように語っておられます。
「もしできるならば」と言ったその次に、「せめてあなたがたの方からは」というのです。
何故、このような言い方になるのかというと、こちらが一生懸命平和に生きようと思っても、相手がけんか腰ならどうしようもないではないかということになるのです。
私たちが平和にすごそうとする対象は、「この世」だ。争いに満ち、また、神の基準とは反するのがこの世だ。だからそう簡単に平和になれない。
世に対しては難しい。では教会の中には、争いがないのか。残念ながら、教会の中でも平和がないことがある。
平和を築くには、限界がある。しかし限界を知った上で、平和を祈るのです。平和な関係を築こうとするのです。
しかし限界と同時に、「できれば」というのは、ポジティブな意味がある。出来る可能性があるなら、やってみなさい。
サウルの嫉みに遭い、ダビデは鑓で突き刺されそうになりました。暗殺者がダビデの家に送られました。間一髪のところで、逃げました。その後、荒野を逃亡しました。サウルは追っ手を差し向け、ダビデとその一行を撃とうしました。その中でダビデに二度チャンスが訪れるのです。サウルを殺すチャンスです。一回は偶然訪れたチャンス、もう一家は自分でつくり出したチャンスです。でも二度とも、サウルを暗殺しようと思えば出来たのに、それをしなかった。ダビデはサウルに訴えるのです。私に悪意のないことを信じてください。身の潔白を証明しました。
サウルは、その時だけ、ダビデ、わしが悪かったと涙ぐむのですが、すぐに元に戻ってしまいます。それは、精神的な病の状態にあったからです。
私はこのようなケースを、自分の方ではできる限り平和に過ごそうと努める事だと思います。ストライブ(苦闘)して平和を築こうとするのです。しかし限界もあったことも事実です。聖書はダビデの姿からそれを告げるのです。
しかし難しいだけではありません。神様が、その難しさに介入してくださることがあります。
キリストの平和が、私たちの人間関係にあることを心から祈りたいと思います。
3、平和を造り出すつとめ
神との平和を得た私たちには、平和をつくり出すつとめがあります。
コリ2 5:19 つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
コリ2 5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の努めを果たしています。キリストに代ってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
和解の努め、それが平和をつくり出す努めであります。
この努めには、二つの側面があります。
その一つは、伝道であります。
福音を伝えて、神と人が仲直りをすることであります。そのために、私たちは「この世」に遣わされているのです。
そして伝道のために大切なことが、祈りであります。
「平和の子」に出会えるように祈る。神が備えておられる人と出会わせてください。教会に導いてください。
伝道の方法もまた、平和でなければならない。強引に、食べたくない物を口に入れるような伝え方ではなく、備えられている人に対して、提供するのです。
もう一つは、国と国との平和を保ち続けることです。
もっと難しいことは、紛争のあるところに平和をもたらす働きです。アフガニスタンで活動をされた医師、中村哲さんは、本当にすごいことをなさいました。
私たちが、そこまでのことをすることは難しいのですが、平和な関係が築かれた国との平和を保つ働きは出きます。それがミャンマーの働きです。
かつて戦争をしておりました。日本とミヤンマーは、今平和な関係です。私たちの教会のミヤンマー宣教は、平和を保つ働きは出来ていると思います。
シタプル教会の孤児院を茅ヶ崎教会は支援しています。
この孤児院の前の道は、今でも、ジャパンロードといわれます。
戦争中、日本軍の戦車や軍用車が行き来した道です。
その道沿いに、孤児院が建っているのです。
もう一箇所、ミヤンマーのムゴン教会に行っておりました。
ムゴンの教会から30分ほど行ったところには、
日本人のキャンプ地がある。それは建物ではないのです。
塹壕という無数の穴が、丘に登るところにあるのです。
「ビルマの竪琴」の映画をご覧になった方々は、
日本人が最後の抵抗として、穴の中で戦っている
情景がありました。塹壕は、映画のような大きさではありません。
国と国の平和を保つ働きも覚えたいのです。