2021年1月24日の説経要約 「勝利者イエス様」

2021年1月24日の説経要約

                              「勝利者エス様」   照内幸代牧師

「すると長老の一人がわたしに言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。』」

                     ≪ヨハネの黙示録 5章5節≫

       

本日はヨハネの黙示録の五章を読みます。

「一節」とありますが、ヨハネは御座についておられる方、父なる神様の手の中に巻物があるのを見ました。それは七つの封印で封じられていました。七つの封印で封じられている巻物とは、それは遺言書のことを指します。当時のローマの法律では、遺言には七人の証人によって封がされ、その七人の立ち合いの元か、相応しい証人が立ち会わなければそれを開封することはできませんでした。父なる神様の手の中にある巻物。それは神の遺言、この世の最期のときについて記された神の奥義だったのです。ところが封印を解くのにふさわしい人がだれも見つからなかったので、使徒ヨハネは激しく泣いたとあります。

どうしてヨハネは激しく泣くのだろうと不思議に思われるかもしれません。ヨハネの黙示録の続きを読めばわかる通り、この封印を解くことによって、激しい艱難が地上を襲うということが明らかだからです。またイエス様が福音書の中でも予告している通り、天体が揺り動かされ、人は人に敵対し戦争が起こり、地震や隕石などの甚大な被害が及びます。その恐ろしい出来事が起こると知っている人にとっては、いや、この封印は解かれない方が良いのではないかと思えてくるほどです。

しかしそれは同時に、正しい裁きが地上に行われないことを意味するのです。この神の遺言書を開封し、この世の終わりのときがもたらされなければ、それはすなわち、この世界にはずっと罪と悪がはびこり続けるということを意味するのです。そして先に眠りについたクリスチャンたちの復活のときも、先延ばしになり、神様によってもたらされる新しい天と地も来ないということ、救いが完成しないことを意味するのです。それは愛なる永遠なる神様との和解も起きないことを意味します。神様との関係が回復せず、私たちが滅びの道を行くことを意味するのです。それはヨハネにとって、何よりも悲しいことだったのです。

 

ヨハネが泣いていると、長老の一人が言います。「五、六節」。神の遺言を開けるのに相応しい証人が現れたのです。それはまことの神、まことの人なるイエス様でした。イエス様だけが、天においても地においても、神の巻物の封印を解くことができる、相応しいお方であったのです。

まず彼はユダ族から出た獅子、ダビデの根であるということでした。彼が正統なるメシア、救い主であるということ、これが一つ目の条件だったのです。神様は旧約聖書において、ダビデの家系からイスラエルの王をお出しになるということを約束していました。ですから旧約聖書の預言において、メシア、イスラエルの救い主はダビデの子孫であるということが約束されていたのです。神様がかつてアブラハムモーセダビデと交わした契約を忘れることなく、真実な方であるという証拠です。巻物の封印を解くのは、神様の約束の子であるダビデの子孫、イスラエルの正統な王になることができる人なのです。

二つ目に、それは屠られた子羊であるということでした。旧約聖書の時代、イスラエルの民は罪祭と言って、自分が罪を犯したときには、その許しを祈ってもらうために生贄を祭司のところに持っていきました。そのいけにえは、傷のない子羊でなければなりませんでした。その子羊の上に手を置いて、自分の罪をその子羊に負わせ、子羊の血が流されることによって、神にその罪が許されました。また出エジプト記では、神は十番目の禍として、エジプトの家畜も人間もすべて、その長子が死ぬという禍を起こされました。しかし、子羊の血を家の門に塗った家だけは、主の使いが過越していき、禍をまぬかれることができました。主の裁きの過越し。子羊の血によって、その家は神の民であるという印となったのです。

この神の子羊ユダヤ人の王として、また神の子として、そしてまことの人として十字架にかかって血を流されたお方は、屠られたときのままの姿で登場します。すなわちその身に十字架を受けた傷が、治ることなくそのままになっていたのです。主イエス様の復活の出来事の記録を読んでも、主イエス様は弟子たちに手の傷と脇腹の傷をお見せになっています。主イエス様は栄光のお姿となって復活し、その顔は光輝き、衣は雪のように白くなって、神なるお方として現れるのに、そのお姿には傷が残っているのです。十字架にかかられたその傷が、主イエス様の復活の姿、栄光のお姿となって、贖いのしるしとなっているのです。私たちがどれほどイエス様から大きな愛を受けたかお分かりになるでしょう。主イエス様は、その身に傷を受けることを良しとされたのです。私たちがその十字架と復活を信じて、神様から救いを受け、永遠の命に与る者となるために、その傷ごと復活してくださったのです。イエス様の体にある傷は、まさに私たちへの愛のしるしなのです。

私たちは今、忍耐の中にいるかもしれません。なんで自分は神の前に正しく生きているのに、こんな目に遭わなければならないのだろう。なぜ神を神とも思わない人が、いい思いをして生きているのだろう。そう思えるような毎日かもしれません。しかし神様は、必ず正しい裁きを行われます。それはもしかしたら、私たちが生きている間ではないかもしれません。けれども私たちは必ずみ使いによって神様に迎え入れられ、神様の子として復活に与ることが約束されているのです。私たちは、今週も神の民として、失望しないで、勝利者なるイエス様を見上げて過ごしましょう。