2020年7月26日の説教要約 「聖霊の賜物」

2020年7月26日の説教要約

                                  「聖霊の賜物」  照内幸代牧師

               <使徒言行録 19章1節~7節>

 

 

聖霊様を受けるということは、私たちにとって大事なことなのです。それはなぜかと言いますと、聖霊様が私たちの内にいるからこそ、私たちは神の業ができるからなのです。イエス様のようになりたい、イエス様のまことの弟子になりたいと思うならば、イエス様の業をしなくてはならない。イエス様をお遣わしになった神の業です。それは勿論、人間の私たちが自分の努力によって行うことはできないのです。助け主なる聖霊様が、私たちの内にいらっしゃるからこそできることなのです。またもう一つ、聖霊を受けることの大事な理由は、この聖霊様は恵の賜物であるということです。つまり神様からの良いプレゼントであるということです。この聖霊様を通して、私たちは神様から更に豊かな恵をいただくことができるのです。その更に豊かな恵とは、私たちのこの命の救いが、聖霊様によって約束されるということです。聖霊を受けるにはどうしたらいいかというと、それはイエス様の名前によってバプテスマを受ける必要があるということなのです。

 

パウロはエペソの弟子たちに出会ったとき、違和感を覚えます。それは、クリスチャンになって聖霊を受けた人ならば見られるような、聖霊の賜物が彼らからは感じられなかったからです。彼らは、イエス様の名前によるバプテスマを受けたことはなく、ヨハネの名前によるバプテスマのみ受けていました。

 

バプテスマのヨハネは人々から預言者と認められていましたし、イエス様にも褒められるような立派な人間でした。しかし、自分の授けるバプテスマよりも、イエス様の名前によるバプテスマの方が、遥かに偉大であることを分かっていたのです。自分が授けているバプテスマは、人々に自分自身を考えさせて、自分はこのままではだめなのだと気づかせることしかできない。人に神のわざをさせることまではできないし、永遠の命を与えることもできないということが分かっていたのです。自分の働きは一時的なものであって、ただつなぎ役であるに過ぎないのだということを理解していたのです。だから自分は、来るべき方が来る前に、主の道をまっすぐにせよと警告する声に過ぎないのだというのです。

本当のバプテスマとは、イエス様の名前によって行われる聖霊によるバプテスマでした。イエス様は自分が天にお帰りになる代わりに、助け主を天から送ってくださるということを約束されました。それが真理の御霊、聖霊でした。イエス様の名前によるバプテスマを受けるなら、この真理の御霊をいただくことができるのです。この真理の御霊は、私たちのうちに働いて、イエス様についてことごとく悟らせ、言葉にならないうめきを神様に伝え、私たちに神様のわざをするようにさせてくださるのです。

 

もう一つは、この聖霊の賜物は、恵の賜物である、つまり救いのわざなのだということです。バプテスマのヨハネが人々に水による洗礼を勧めていたのは、神のときが来たから悔い改めなさいということでした。それを聞いて水による洗礼を受けても、自分の身をただすというだけで、そこに本当の救いはなかったのです。どうすれば神の国にふさわしい者であり続けられるのかもわからない。また罪を犯してしまう。人間の本質に迫るような、人間の罪の問題を解決できるような救いのわざではなかったのです。それに対して、イエス様は解決となる聖霊バプテスマを私たちにくださったのです。

主イエス様の聖霊によるバプテスマは、主イエス様と一つになることを意味します。イエス様が十字架上で死なれ、蘇られたことと一つになるのです。主イエス様はただ一度も罪を犯したことがなく、神の前に完全に従順なものとしてその生涯を歩まれました。そういう傷のない子羊なるイエス様だからこそ、私たちすべての罪人の贖いとなることができたのです。そのイエス様が私たちの罪の贖いのために十字架にかかり、復活されたことを信じるならば、私たちは神の子なるイエス様と同じ身分に与り、神の子として永遠の罪の赦しを約束されるのです。それはバプテスマのヨハネによる洗礼では達成することのできない恵だったのです。

 

私たちは、教会に通い聖書を読み、お祈りをするということができます。それだけでも十分だ、洗礼を受けなくったって十分クリスチャンになれると思う方がいるかもしれません。しかし私たちは、それだけでなく、洗礼を受けてイエス様と一つにされるということがどうしても必要なのです。私たちは罪人です。自分の努力だけでは、救いを得ることはできないのです。私にはイエス様の十字架と復活が本当に必要ですと、神の前に告白することが必要なのです。

 

そしてそれは、確かに神が父なる神として、私たちに滅びてほしくないと思った神の愛の証拠なのです。私たちが洗礼を受けて、救われた者となること、イエス様と一つにされることは、神が究極的な愛を持って私たちに臨んでくださった恵の証なのです。そのように良いものである神様のバプテスマを、私たちはためらうことなく受け取らなくてはなりません。