2018年8月12日の説教要約 「あなたこそ生ける神の子キリスト」

2018年8月12日の説教要約
 「あなたこそ生ける神の子キリスト」 中道由子牧師
中心聖句≪シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。≫ 
(マタイ福音書16章13~20節)



私たち日本ホーリネス教団は、四十の福音を掲げています。
「新生、聖化、神癒、再臨」これは中田重冶がきよめ派の教会の監督であった時に掲げたものです。戦時中、天皇が神格化されたその中で、キリストを主とする、そしてそのキリストが再びおいでになることを望み祈るという、教えが当時の治安維持法に違反しているという容疑をかけられたのです。取り調べに当たった検事らは、牧師たちに、「キリストが王の王、主の主として来る」という教理に対して、「天皇とキリストとどちらが偉いか」と尋問したのです。異質なものを嫌い、皆が同じようになることを好む日本の社会においては、キリスト教信仰は異質のものだったのです。これは過去のことにとどまらないと思います。なぜなら、私たちは「イエスは主である」という信仰告白にたっているからです。
今日も3つのポイントからお話しします。

1、ペトロの信仰告白
13節「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」
質問の後から、イエス様は受難の道を歩んでいきます。
イエス・キリストとは、どんな人か」「イエス様は人々からどのように理解されているのか」という質問です。これは大切なポイントです。
なぜなら、私たちの救いは告白から始まるからです。
マタイ福音書14章33節では、イエス様が強風を静められ、「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」とあります。
ここで、弟子たちは初めてイエス様のことを「神の子」つまり、天地を支配しておられる神として告白したのです。
そして、本日の箇所16章でイエス様はまず弟子たちに、「人々は、どう言っているか。」とお聞きになった。
バプテスマのヨハネ
エス様のメッセージの中に、荒野で叫んだヨハネのメッセージと同じだと感じるものがあったからです
② エリヤ
人々は、イエス様の奇跡から、旧約聖書に出てくるエリヤが天から火を下らせた奇跡を思い浮かべました。
③ エレミヤや預言者のひとり
彼らは、イエス様の姿に、エレミヤの嘆きや涙、民に対する愛情を見ました。

 今でもいろんな人たちが「イエス・キリストは立派な偉人だ。」「あの教えは素晴らしい。」と言います。イエス様が知りたかったのは、人々がどう思っているかではありません。イエス様の関心は弟子たちにありました。
15節「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか。」
すぐにペトロは16節、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えたのです。
エス様と交わりをしているうちに、イエス様の本質を知り、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という告白が出来るようになったのです。
戦争中、天皇は神であると聞かされていました。現人神と言われていたのです。終戦後、天皇自身が人間宣言をしましたが、それは当然の事です。まして、ナザレの大工の息子としか人々から思われていなかったイエス様を、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」ということは、何と大胆な信仰告白であったことでしょう。イエス様はたいそうお喜びになって、「ペトロよ、その通りだ。しかし私が救い主だとわかったのは、お前が頭がいいからではない。お前の宗教的素質や才能でもない。私が救い主だと御前に示したのは、天におられる父なる神なのだ」とおっしゃいました。私たちの熱心や決断ではなく、父なる神が、私たちに告白する力を与えて下さるのです。
 1コリント12:3に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」とあります。イエス様の本質をまだ理解できないでいたとき、聖霊がペトロに臨んでクリスチャンを代表する、この驚くべき信仰告白をさせたのです。

2、この岩の上に教会を建てる
教会とは日本語では「教える会」と書きますので、「キリスト教会」というと、「キリストを教える会」ということになり、あまりいい表現とはいえません。
ギリシャ語では「エクレーシア」といって、「呼び出された者、召しだされた者」という意味のある言葉です。その「神の民の集まり」が教会なのであります。いつも神が中心におられ、その恵みに支えられて生きている人々がその周囲に集まっている。これが教会なのです。新約聖書の中で最初に教会という言葉が出てくるのは、今読みましたマタイによる福音書16章18節です。イエス様は、「この岩の上に私の教会を建てよう」といわれました。岩というのはそこに岩があったからではありません。ギリシャ語で「岩」というのをペトロと言いました。カトリック教会においては、この「岩」というのはペトロのことだと言います。そうしますと、ペトロが教会の創立者のようになってしまいます。
この「岩」という言葉には、教会の本質が隠されています。これから神の国が完成するまで何千年にもわたった神の民が生活してゆこうとする時、イエス様は、しっかりした永遠の岩の上に教会を建てようとされたのです。その「岩」とは、ペトロが告白しました信仰告白であります。
 「この岩に教会を建てる」といわれた、この教会の本当に姿は、目に見えない教会です。それは私達一人一人が、「イエス様は、私の救い主である」と信じて、そう告白し、そのように生きている生き様が、実は「教会の土台」なのです。
エス様は、「私が私の教会を建てる」と言われました。この教会を建てるのは牧師でも役員でもありません。イエス様が私達の信仰告白を土台にして、ご自身が建てるとおっしゃっておられます。教会は主によって呼び出された者、召し出された者の集まりです。お祈りをしたり、聖書を読んだり、励まし合ったり、時には一緒に食事したりします。でもこの福音を宣べ伝えていく群れなのです。ここでは、洗礼式と聖餐式という聖礼典が守られています。「教会は、聖徒の交わりを通じて福音を宣べ伝え、聖礼典を正しく執行する場」です。ですから、みなさん一人一人の交わりを欠いたら、福音を伝えることも弱まってしまいます。聖餐式や洗礼式に預かる意味をもたなくなってしまいます。
 皆さんが持っておられる「イエス様が私の救い主」という、信仰告白によって教会は建てられもし、倒れもするのです。だから、イエス様は「この岩の上に私の教会を建てよう」と言われたのです。このイエス様を救い主と信じる信仰の上に建てられた教会は、「黄泉の力もこれに打ち勝つ事がない」のです。つまり、この世のどんな勢力も、「黄泉」という人生最後の敵、地獄の権力でさえも、この岩の上に立てられた教会には、決して打ち勝つことは出来ないのです。
 
3、天の国の鍵
 イエス様は信仰告白をしたものに、天国の鍵を与えるとおっしゃっています。鍵を持っているというのは、その人がある場所に入る権利を持っているという事です。家の鍵でも、車の鍵でも、鍵をもっている人に所有権があるのです。
 イエス様を救い主として告白した私達は天国に入る権利があるというのです。イエスを主と告白すると、天国の鍵を預けてもらえると言うのです。
 ここでの鍵とは、罪人の手かせ、足かせを縛ったり、解いたりする鍵の事です。テレビドラマの刑事ものなどで、警察官が犯人に手錠を掛けるシーンがあるでしょう。つなぐ、つまり、掛ける、というのは、不正である、悪いことをしたと罪に定める宣言をする事です。そして、その手錠を解くと、解放され、正しいとみなされる。罪なしとされる宣言がそこにあるのです。イエス様は、私達に罪に対して、罪と定める権威も、罪赦されたと宣言する権威も上げようとおっしゃってくださったのです。
 ヨハネ20章23節「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
とイエス様は言われました。
とてつもないみ言葉です。しかし、このみ言葉は教会に与えられた特権です。
つまり「赦すこと」が天国の鍵なのです。